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#718 審美学の果実を見るべき日を待つのみ

それでは今日も森鷗外の「早稲田文学の没却理想」を読んでいきたいと思います。

逍遙子のいはく。没却作家は客観を評する言葉なりと。おほよそ詩の上にて観の主客を言ふものは、大抵作家の感情を以て主観とし、作家の観相[アンシヤウウング]を以て客観とす。叙情詩を主観とするは是を以てなり。叙事詩を客観とするは是を以てなり。戯曲には観の主客等く存ぜりとはいふものから、シルレルが曲とシエクスピイヤが曲とを比べ見ば、彼には作家の感情多く、これには作家の観相多きを知らむ。シエクスピイヤが作を客観なりとするは豈これがためならずや。逍遙子若し没却作家とは作家の主観的感情を没却する義なりといはゞ、われも亦た左右なくその客観を評したる言葉なるを認めしならむ。
さるを逍遙子が没却せむとするは主観的感情にあらず、極致なり、理想なり。作家は理想あれども、その作をなすや、理想なからしむ。彼は是に於て臨時[テムポレエル]無理想の作用になれるものゝ如し。これを「ドラマ」といふ。されば「ドラマ」といふ無理想詩の中にはおもに無理想時の主感情を歌ふ叙情詩もあるべく、おもに無理想時の客観相を写す叙事詩もあるべく、無理想の時の感情と観相とを役したる戯曲もあるべく、又小説もあるべし。無理想の感情と無理想の観相とは、若しこれあらば、蓋し審美上に精究すべきものならむ。
無理想詩に活差別相あり。是れ理想を没却したる個想なり。又活平等相あり。是れ理想を没却したる小天地想なり。
活差別相の人物は、理想を没却したる個人なり。こは現実の個人を模倣したるものとすべきならむか。活平等相の理法は、理想を没却したる因果なり。こは目的[テレオロギイ]なくして人間を左右する物力を模倣したるならむか。かの無理想の感情と無理想の観相との是の如き模倣をなすさまは、若しこれあらば、審美上にいよ/\精究すべきものならむ。
逍遙子は活平等相即活差別相、活差別相即活平等相なりといふ。こは審美上に円融相即の法門を開いて、活平等相の小天地を理具と看做し、活差別相の個想を事造と看做したるならむ。こはわが個想即小天地想といへるに似たり。
これを逍遙子が審美学とす。われは時文評論の無理想より立て来りたる審美学の果実を見るべき日を待たむのみ。

というところで、「早稲田文学の没却理想」は終わります!

で…

もう、さっっっっぱりわからない状況なのですが…

『しがらみ草紙』第30号には、「逍遙子と烏有先生と」という批評文も掲載されておりますので、それを読んでいきたいのですが…

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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