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#871 叙情詩は客観の相に勝ち、叙事詩は主観の情に勝ち、戯曲は情と相との平均を取戻す

それでは今日も森鷗外の「逍遙子の諸評語」を読んでいきたいと思います。

小説三派の外、逍遙子は別に詩の二派を立てたり。其一を叙情派又理想派といひ、其二を世相派又造化派といふ。

これは、逍遥が「梅花詩集を読みて」で述べたことですね。逍遥は、詩人の世界を「心の世界」と「物の世界」に分け、「心の世界」は「虚の世界」にして「理想」であり、「理想」を旨とする者を「叙情詩人」と呼び、「物の世界」は「実の世界」にして「自然」であり、「自然」を旨とする者を「世相詩人」と呼びます。

叙情派は理想を宗とす。理想とは心の世界なり、虚の世界なり。此派の詩人は我を尺度として世間を度[ハカ]る。彼は理想の高大圓滿ならむことを望み、自家の極致の其作の中に飛動せむことを期す。其小なるや、一身の哀歡を歌ふに過ぎざれども、其大なるや、作者乾坤[ケンコン]を呑[ノ]みて、能く天命を釋[トキアカ]し、一世の豫言者たることを得べし。其さま猶[ナオ]雲に冲[ノボ]る高嶽[コウガク]のごとく、彌[イヨイヨ]高うして彌[イヨイヨ]著[イチジル]し。其さまは又猶萬里の長堤のごとし。遠うして更に遠しといふとも、詮[セン]ずるに踏破しがたきにあらず。ダンテ、マアロオ、ミルトン、カアライル、バイロン、ヲオヅヲオス、ブラウニング等は家數に大小ありといへども皆叙情詩人なり。
世相派は自然を宗とす。自然とは物の世界なり、實の世界なり。此派の詩人は我を解脱[ゲダツ]して、世間相を寫す。その望むところは、作者の影空くして、ひとへに世態の著からむことなり。其小なるや、管見の小世態を寫すに止まれど、其大なるや、能く造化を壺中[コチュウ]に縮めて、鎭[トコシナエ]に不言の救世主たらむ。其状猶邊なき蒼海[ソウカイ]のごとく、彌大にして彌茫々[ボウボウ]たり。又猶底知らぬ湖のごとし。深うして更に深く、遂に其底を究きはむべからず。ホオマア、シエクスピイヤ、ギヨオテ、スコツト、エリオツト等は、家數の大小こそ相殊なれ、此派の詩人なり。
逍遙子が叙情、世相の二派は、ハルトマンが審美學上、叙情詩、叙事詩の二派に當れり。

またハルトマンの言葉に換えそうな予感が……w

ハルトマンのいはく。叙情詩は客觀の相に勝ちたる主觀の情を以てその質とす。その客觀の相を捕來るは、感情の主觀を高うもし、深うもせむとてのみ。(下卷七四五面)是れ豈[アニ]逍遙子が所謂、我を尺度として世間を度[ハカ]るところにあらずや。
又いはく。叙事詩は客觀相を以て、その偏勝の質とす。その主觀の情は、唯半[ナカバ]掩[オオ]はれてかすかに響きいづるのみ。(同所)是れ豈逍遙子が所謂、我を解脱して世間相を寫すものにあらずや。
ハルトマンは此二門の外に、戲曲門Dramatikを立てゝいはく。叙情詩にては、主觀の情、客觀の相に勝ち、叙事詩にては、客觀の相、主觀の情に勝ちたれども、戲曲に至りては、情と相との平均を取戻さむとす。さればヘエゲルが審美學にて、戲曲は叙情、叙事の二門にて偏勝したる兩義を合併したりといへる、固より善し。唯キルヒマンが戲曲の叙情、叙事の二詩門に殊なるは、場に上せて興行すべきところにありといひしも、亦未だ嘗て善からずばあらず、(同所)逍遙子が「ドラマ」はこれに殊なり。固有、折衷、人間の三派を分つときは、人間派を以て、最狹き意義にていふ「ドラマ」の結構とす。これに對する叙事詩は固有派に屬し、折衷派は「ドラマ」と叙事詩との界に立てり。その叙事詩となるは、事を先にすること甚きときにして、その「ドラマ」となるは人を主とすること重きときなり。又叙情、世相の二派を立つるときは、世相詩人を以て「ドラマチスト」とし、以て叙情詩人の「リリカル、ポエト」に對したり。人間派の旨、若小天地想に在らば、是れ叙情詩、叙事詩、戲曲の三門を通じて求めらるべきものなれば、われこれに配するに「ドラマ」を以てせむことを欲せず。彼客觀相をして偏勝せしむる世相詩人の作、即沒主觀情詩(梓神子にいはゆる沒理想詩)は、もとより相と感と並び至らむことを望める戲曲にあらざれば、これを「ドラマ」といはむも亦願はしき事にあらじ。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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