それでは今日も幸田露伴の『風流佛』を読んでいきたいと思います。
今日から「第七回」に入ります。それでは早速読んでいきましょう!
行方不明だった父親が大出世して、とんでもないタイミングで、出会っちゃいましたね。
「鹿島立」とは、「門出」という意味があります。奈良時代、東国から筑紫・壱岐・対馬などの要路の守備に赴いた防人が任地に出発する前に鹿島神宮の阿須波神[アスハノカミ]に道中の無事を祈願したことが語源だとされています。他説に、鹿島神宮の御祭神である武甕槌[タケミカヅチ]と、香取神宮の御祭神経津主[フツヌシ]の2神が天孫瓊瓊杵尊[ニニギノミコト]の降臨に先だって、葦原中津国[アシワラノナカツクニ]を平定したことが語源だとするものもあります。
昔、奈良の平城天皇にお仕えしていた采女[ウネメ]がいました。顔も姿もたいそう美しいため、人々が求婚しますが、采女は会いませんでした。采女は帝のことを限りなく素晴らしい方と思っていたからです。ある時、帝は采女を召します。しかし一度だけで、二度とは召さなかったので、采女は限りなく悲しく思いました。帝は一度は采女を召したものの、別段何とも思いませんでした。采女はこのまま生きているのはいたたまれない気持ちになり、夜ひそかに御所を抜け出し、猿沢の池に身を投げました。采女が身投げしたことを帝は知らなかったが、事のついでに人が帝に申し上げたので、知られることとなりました。帝はたいそうひどく哀れに思い、池のほとりに行幸なさって、人々に歌を詠ませます。その中で柿本人麻呂が、次のように歌います。
「わぎもこが寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞ悲しき」
(猿沢の池に浮かぶ水草を見ていると、わが愛しい人が寝乱れた髪を思い出して悲しい)
帝は、次のようにお詠みになります。
「猿沢の池もつらしな我妹子が玉もかづかば水ぞひなまし」
(猿沢の池も酷いなあ。わが愛しい人が池に飛び込んで水草がからんだなら、水を干上がらせてくれればよかったのに)
これが奈良の興福寺の南側にある猿沢池の采女伝説です。池のほとりには天皇が采女の霊を祀ったという采女神社があります。この社は、入水した池を見るのは忍びないだろうと、門をくぐると、なんと社殿が背を向けています。
ということで、この続きは……
また明日、近代でお会いしましょう!