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#870 東洋の霊魂は個物主義を得るに至っていない

それでは今日も森鷗外の「逍遙子の諸評語」を読んでいきたいと思います。

逍遥は、想に縁りて派を立てる、と鷗外は言います。類想派の作家にむかって、個想派の作を求めるのは、梅園にてこの花は桜ではないと笑うようなものである。類想家の作も個想家の作も同じ桜であるが、一方は日陰に咲いて色香少なく、一方はインスピレーションの朝日をうけて匂い常ならぬ花のようなものである。逍遥は、花に慈なるに過ぎて、風を憎むこと甚だしいのではないか。もし批評の上に褒貶がなかったら、文界は荒野となるだろう。

逍遙子は我文界に小天地想の人間派なきを認めき。(我國はいまだギヨオテ、シエクスピイヤを出さず)逍遙子は我舊作家を以て類想の固有派に屬せりとなし、我新作家を以て未だ至らざる個想の折衷派となしつ。われは此評の殼を噛碎[カミクダ]きて、其肉の甘さと其核[タネ]の苦さとを味ふ。人間派なきは大詩人なきなり、妙手なきなり。舊作家の固有派に屬するは、其凡手なるためなり。新作家の折衷派に屬するは、其小家數たることを免れざるためなり。かの不知庵のあるじが如く、今の我國の小説家には、等級ありといへばえに、言はずして流派を立てつるは逍遙子なり。具眼の人誰かこの肉中の核を認めざらむ。
或[アル]ひとのいはく。逍遙子はげに今の我文界に人間派なきを認めき。されど其言にいはずや。嘗て「ミツドル、マアチ」を見しに、ジヨルジ・エリオツト女史が作に人間派の旨に愜[カナ]へるところあり。其外にもおなじ派を汲[ク]む人ありや知らねど、英國にての人間派詩人はこれのみならむも計り難かり。夫の近世の魯獨[ロドク]にこそ人間派の小説家も多しとは聞きつれ。そもいと近きほどの事なり。又佛蘭西[フランス]なる諸作家バルザツク、ユウゴオ、ゾラ、ドオデエの徒は、或は人情派の界[サカイ]を超えて、人間派に入れりともいふべからむが、これとてもまた近世の作家なり。詮ずるところ人間主義の小説界に入りしは、十九世紀に於ける特相といふも誣言[フゲン]にあらじ。尚[ナオ]いと穉[オサナ]きほどの顯象なり云々。是れ人間派は新きものにて、漢學者若くは御國まなびせし人の小説家になりたるに向ひて、人間派に入れといはむことの理なきを明にしたるにあらずや。こはまことに其故ある事なり。然れども逍遙子は別に世相派といふものを立てゝ、これにホオマアを算したるなり。彼[カ]の漢學者若くは國學者たる小説家に對して求むべきは、此種叙事詩の大作なるべし。これその推理上能くすべきものなればなり。又東洋に個物主義[インヂイヅアリスムス]なしといはむか、これは屡聞えし説なり。ヨハンネス・シエルいはく。東洋戲曲の最偉なるは印度詞曲なれど、印度詞曲の雄は、遂に此詩體の質を知らざりき。蓋戲曲の質は、個人がみづから自在にものを定むる性より生ず。

ヨハネス・シェル(1817-1886)はドイツ出身の作家・文芸評論家で、多くの歴史書を出版しました。鷗外は、『新しい歴史』(1884)や『人物と歴史』(1886)という歴史書などを所持していました。

惜むらくは東洋の靈魂は、かゝる個物主義を得るに至りしこと、絶てなかりき。(世界文學史一の卷一七面)是れ東洋に個想なかりきといふ説の一例なり。吾邦の詩人には果して眞に個想なかりしか。ギヨオテ、シエクスピイヤが詩に見えたる如き個想なかりしか。若無くば、小天地想を美の極意とする立脚點より見て、吾邦古來大詩人なしといはむのみ。世の批評家に大和魂ありて、古來なかりし大詩人を今の文界に求めむとせば、われ唯これを壯なりといはむ。

「大和魂」なんて、明治の頃から使われていたんですね……

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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