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精神疾患を持つ家族がいる人に寄り添いたい訳

こんにちは。

とおいです。


今日のnoteは過去と本気で向き合います。

僕が今まであまり人に話してこなかった過去について書いていきます。

そして、この過去が僕の


家庭環境で悩む人を救いたい、寄り添いたい


というやりたいことにつながっています。

長くなるとは思いますが、僕の過去と今の気持ちを綴るので読んでくれたら嬉しいです。



まずはじめに言っておきたいのは、

僕は今、家族にとても感謝している

ということ。

様々な過去の体験を書きますが、今現在は本当に感謝しています。

自分に大好きなサッカーをさせてくれて、自分を学校に通わせてくれて、ひとり暮らしをさせてくれて、本当に感謝です。

読み進めていく中で、このことは忘れずに読んでくれると嬉しいです。



では、始めていきたいと思います。




乳児期〜幼少期

2001年8月14日

真夏の静岡県浜松市で僕は生まれた。

父、母、11歳差のお姉ちゃん

のもとに生まれた。


これが僕の人生の始まりだった。

すくすくと育ち、幼稚園に入園。

友達と楽しみながら成長していった。


そんなある時、

父が鬱病になった。

そして、当時高校生で思春期真っ只中であった姉と父はよく喧嘩をしていた。

当時幼稚園児であった自分にとってそれは恐怖以外の何でもなかった。


それが全ての始まりである。


幼稚園で自分は、サッカーというものと出会った。

正直、サッカーがやりたかったというわけではなく周りの友達がやっているからサッカーを始めたという感じだ。

この時サッカーと出会えたことは僕の人生にとって大きくプラスに働いた。

幼少期の記憶はこのくらいしかない。



小学生時代

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地元の小学校に入学し、楽しい毎日を過ごしていた。

サッカーの面では、友達が家まできて誘ってくれたため、地元の少年団に入った。

たくさん練習して試合をして勝つ。

それが楽しくてサッカーの魅力に惹かれていった。

そんな僕の夢は自然とプロサッカー選手になった。

小学2年生になりもっと高いレベルでプレーしたいと思った自分は市内の強豪チームのセレクションを受け合格。

小学3年生からそのチームに移籍し、

県大会や東海大会を経験し、サッカーの魅力にどんどんハマっていった。


家庭の面では色々あった。

父は病気の影響で精神的に不安定であり、特にお酒を飲むと僕や家族に対する暴言や暴力、時には包丁を向けて「殺すぞ」と言ったり、自殺を図ったり、母の首を締めたりなど様々な出来事があった。

よく、母と父が喧嘩をし、父が暴れ、どうしようもなくなる。

家具のガラスを父が思いっきり蹴ってガラスがバリバリになったこともあった。

当時小学生だった自分は泣くことしかできなかった。

二世帯住宅に住んでいたため泣きながら階段を降り、おじいちゃんおばあちゃんのところまで行った。

そして泣きながら、聞こえてくる怒鳴り声から気を紛らわせるためにテレビを見ていた。

そして喧嘩が終わり、父が寝室に行くとビクビクしながら二階に戻ってお風呂に入って寝る。

そんな事が日常茶飯事だった。

本来の父はそんな人ではない。

でも、僕はそんな父に怯えていた。

そしてその時、うつ病なんて言葉など知らず、僕はその環境が普通であると思っていた。


そんな中、とても記憶に残っている出来事がある。

小学校中学年の時、2つ下の学年の男の子が泣きながら先生と話していた。

僕はたまたまそこを通りかかり、その子が先生に


お母さんが包丁を向けてくる


と言っているのを聞いた。

その子はずっと泣いていた。

それを聞いて僕は疑問に思った。

「え、それって普通じゃないの?」

当時小学生であり、世間を知らない自分にとってそれは普通であると思っていた。

先生がいなくなった時、僕はその子に


「俺もそうだから大丈夫だよ。」


と言った。

今思うと最低だった。

心に残っている。

その言葉がその子にどんな影響を与えたか分からないが、本当に謝罪したい。


そんな風に自分のような家庭が普通であると思い、サッカーに熱中する小学生生活を送っていた。


そして父は僕のサッカーが大好きで、応援してくれていた。




中学時代

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中学校に入学し、僕は衝撃を受けた。

周りのみんながする家族の話がとても幸せそうだったのだ。

家族旅行の話、家族の会話の話、家族のグループラインの話。


その時僕は気づいた。


自分の家って普通じゃないんだ


これに気づいた瞬間に僕は悲しい気持ちになった。精神的に苦しかった。

家族のことなんて恥ずかしくて誰にも相談できない。


誰にもばれたくない


そんな気持ちだった。

誰にも言えずずっと1人で抱え込んだ。


自殺も何度も考えた。

「こんなんなら死んだほうが楽なんじゃないかな」

「自分が死ねば家族は喧嘩しなくなるんじゃないかな」

そんなことを考え両親が家にいない時、何度も包丁を持って死のうと考えた。

でも、死ぬ勇気はなかった。


逆にお父さんを殺そうとしたこともあった。

寝ているお父さんを見て、

「こいつを殺せば楽になる」

と考えたことは何度もあった。

でも、それも殺す勇気がなかった。


今思うと死ぬ勇気も殺す勇気もなくてよかったなと思う。

でも、何度もそのようなことを考えるくらい心は病んでいた。


その時、僕の心は荒れていた。

学校では騒ぎまくり、よく友達と喧嘩をした。

学校の周りの友達をみんな見下した。


中学時代の自分は相当捻くれていた。


そんな中、唯一熱中できるものがあった。

それは

サッカー


サッカーは怪我が多かったが順調に進んでいた。

サッカーだけが自分が唯一当たれる場所であった。


そして、高校サッカーを中学1年生の頃から憧れていた県内の強豪校でやると決め、必死に練習に励み、高校に合格した。


そんな中、僕の心に残っている出来事がある。

父がお酒を飲み、いつものように暴言を吐き始めた。

その時に僕が言い返し、いつものような暴言と暴力が始まった。

そんな時、彼の口から出た

「お前が高校サッカーで開誠館に行けるのは俺のおかげなんだからな。お前の実力じゃないんだからな。」

とてもショックだった。

そしてそれと同時に僕の心は燃えた。


そして、もう一つ心に残っている出来事がある。

父が暴れた時、祖母が

「私のせいだから」

と言って自殺しようとしていたのだ。


祖母がそう言って自殺しようとすることもよくあることではあったが、精神的にやられていた僕はそれを見た瞬間本当に意味が分からなくて、もうどうすればいいか分からなくなった。

自分の家庭環境を本気で恨んだ。

これが自分にとって一番の大きな出来事であるかもしれない。

そのくらいこの時、自分はどうすれば良いか分からなかった。


でも、こんな事があっても周りには絶対に相談できない。

僕の悩みは大きくなる一方であった。


本当にサッカーという熱中できるものがなければどうなっていたかは分からない。


この時僕は家族が大嫌いだった。



高校時代

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僕は晴れて高校に入学。

プロサッカー選手になるという夢を叶えるために希望を持って高校に入学した。

そんな中待ち受けていたのは

怪我

そこから僕の高校サッカーが始まった。

怪我を繰り返したり、問題行動を起こしたりと色々あり、高校に入学してからの数ヶ月間ほとんどサッカーができなかった。

そんな中、僕のサッカーが大好きな父はAチームの公式戦を毎週のように見にくる。

それなのに自分は何もできない。

そんな日々が続いた。

父と母には何度も

「上手くいってるよ」

と嘘をついた。


そして、家庭では自分は朝練があって早く家を出て、夜も自主練などをして遅くに帰るという生活をしていたため、中学の頃と比べると家族と関わる時間は大幅に減った。

そのため、親との喧嘩や親同士の喧嘩を見る機会は中学の頃と比べると減った。

それでも家に帰ってから様々な辛い言葉を投げかけられた時もある。

この時も家族のことは誰にも言えなかった。


ただ、自分には大きな変化があった。

「中学の時みたいな自分でいたくない」

そう思った自分は、

父のような人になりたくない

と、人に優しくできる人間になろうと思った。

そこは大きな変化であった。


そんな中、僕は復帰し、サッカーは順調に進んでいて、サッカーを観に来れる時の父は上機嫌な事が多かった。

しかし、事件は起きる

2018年8月15日

遠征先の石川県で怪我をした。

プレーの調子が上がってきていた時の怪我だ。

そして僕の松葉杖生活が始まった。

その1ヶ月後には手術が決まり、復帰までは手術から4ヶ月近くかかる事が決まった。

そして、手術をし、サッカーができない時期が続いた。

そんな中、チームは全国大会出場を決めた。

とても嬉しかった。嬉し泣きをした。

しかし、それと同時にとても悔しかった。

周りの仲間は皆、全国のメンバー争いに向けて練習していた。

それを見ることしかできない自分がいた。


そんな中、僕のサッカーが見れない父は明らかに機嫌が悪くなっていった。

そして、お酒を飲むと暴言が始まった。


その時、自分は怪我をしていて唯一頼れるはずだったサッカーができない。

リハビリでもトレーナーの方とうまくいかない。

家に帰ってもお父さんからぶつけられる暴言。


本当に辛かった。

何度も何度も泣いた。

そして、ここで僕はまた自殺を考えた。

また、死ぬ勇気はなかったのだが、いろんな人に助けられた。

本当に感謝しかない。

でも、そんな人たちにも家族の相談はできなかった。

相談したくても、言いたくても、言えなかったのだ。


新チームが始まり1ヶ月が経ったくらいで復帰し、お父さんは少し気分が良くなり、暴言が減った。

そこからはたまにある暴言、言い合いなど多少はあったが昔に比べると少なくなった。

色々あってほとんど眠れず、朝練に行った時もあったが、楽しく過ごせていた。


でもある日心に残る出来事があった。

父と母が喧嘩をしていた。

まあいつものことだと思っていた。でもその日の喧嘩の原因は僕のサッカーのことであった。

その喧嘩の後、母が階段で泣いていた。

その時、僕は母に

「こんなんになるならサッカー辞める」

と言った。


そうすると母から

「何言ってるの。私がここまで我慢してきた意味がなくなるじゃない。私がここまで我慢してきた意味わかってるの?あんたが少しでも普通でいられるように、普通だと思えるようにしてきたんだよ。」

と言われた。

僕は本当に腹立たしかった。僕の母は自分勝手で頑固な人間だ。

だから、父との衝突でも何度も母が悪い時があった。

そんな母から言われた言葉を聞いて僕は

「こっちは何も頼んでない。それってそっちの自己満じゃん。別に普通じゃないならそれでいいし。なんでそれを隠すの。」

と本気でムカついた。

僕はこの日で母のこともより嫌いになった。

自己満な大人が多くいることも知った。

そして、今までの自分の間違いや時代による変化を中々受け入れず、自分を正当化しようとする大人がたくさんいることを知った。



そんな中、高校サッカーが終わった。

僕は指定校で関西大学への入学が決まっていた。

サッカーはもちろんするつもりであった。

しかし、そんな時に僕の頭では

「今の自分がプロになれる確率は低い。今までサッカーしかしてこなくてそれ以外の世界を知らない自分ってやばいんじゃないか。」

という不安が襲ってきた。

そして僕はサッカーをやめる決断をした。

それを親に言う事が1番嫌であった。

なぜなら親は絶対サッカーをしろと言うと予想できたからだ。


僕は決断してから数日間親に言えずにいたが、ついに言った。

そうしたら案の定、

父からも母からも反対された。

特に母からは

「今までなんであんたのために頑張ってきたの」

とまた言われた。

本気で本気で腹が立った。

もちろん今までお金をかけてサッカーをやらせてもらった事、応援してくれたことは感謝している。

しかし、それを言われまた親が嫌いになった。

数日間親の機嫌はとても悪かった。

本当に嫌な気持ちになった。


結局、数日間の言い合いを乗り越え、僕はサッカーをやめる決断を押し通した。

そして高校を卒業した。


その後、初めて人に少しだけ家庭環境のことを話した。

全ては話せず、少しだけ話した。

しかし、それだけでも少し心が楽になった。




大学生

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やっとサッカー以外の写真(笑)

2020年4月

ついに大学生活が始まった。

コロナウイルスの影響で入学式がなく、授業開始も遅れたが、

やっと家から出られる、大阪で1人暮らしできる

嬉しい。

この気持ちで一杯だった。


しかし、想像以上にきつい生活であった。

コロナウイルス感染拡大により、外に出れない。

学校もオンラインで友達もできない。

人と話す事が好きなのに話す人がいない。

地元の友達と電話しても寂しくなる。

地元の友達のインスタのストーリーを見て地元に戻りたくなる。

夜はひとり暮らしをしているのに家族の悪いことを思い出して辛い気持ちになる。

家から離れたのに家庭環境で悩み1人で泣いている。

夢で家族の嫌な思い出を見て目覚めがとても悪い。

そんな日々が続いた。


そして春学期が全てオンライン授業ということが決まり、浜松に帰省した。

僕は家族が嫌いで家にいてもほとんどの時間を自分の部屋で過ごした。

友達とたくさん遊んだ。

大学の課題を頑張った。

今まで全然してこなかったからすごく楽しかった。

そんな生活をして8月に大阪に戻った。

なんとなく時間を過ごしている自分に嫌気がさしていた時、ある人からTwitterのDMがきて梅田でお話しすることになった。


2020年9月26日

僕の人生は大きく変わった。

梅田のスタバで素晴らしい出会いをし、その後「挑戦者交流会」に行き、同級生とは思えないくらい思考の質が高い仲間と出会った。

そして僕は

挑戦の素晴らしさ

失敗しても良いということ

周りの目は気にしなくて良いということ

を知った。

そこからずっとネガティブだった僕はポジティブな人間になっていった。

しかし、家族のことだけはどうしてもポジティブになることができなかった。

不意に思い出す家族のこと。

その度に嫌な気持ちになる。

挑戦に溢れ、Twitterで出会った様々な人と「対話」する毎日は楽しいのに、家族のことを思い出す瞬間だけは辛かった。


そんな日々を過ごす中である人のTwitterのプロフィールが目に飛び込んだ。

ある人とは

かな

愛知県の大学一年生。同い年の人だった。

なぜ、彼女のプロフィールが僕の目に飛び込んできたのか。

それは僕が今までずっと開示できず悩んでいた家庭環境の悩みがプロフィールに書かれていたからだ。

彼女のプロフィールを見た瞬間DMで話したいと伝えるしかないと思った。

その後zoomをし、初めて同じような境遇で過ごしてきた人と出会った。

僕は過去を話せた。

初めて感じる感覚だった。

心がスッキリした。楽になった。

共感できることの素晴らしさ

を知った。

今の僕がいる、このように過去をnoteにまとめることができるのは彼女のおかげである。


話を聞くと彼女は

CoCoTELIという心の病を持つ家族がいる人向けのサービス

を考えて様々なチャレンジをしていた。

この時、僕の心の中にいた感情が大きくなった。

それは

家庭環境で悩む人を救いたい、寄り添いたい

という気持ちだ。


そして幸せなことに、

かなのプロジェクトである

CoCoTELI

の運営メンバーへとジョインさせてもらった。

かながいなければ今でも家族のことが心のどこかに引っかかって悩むことは多かっただろう。

自己開示できなかっただろう。

人を頼ることができなかっただろう。

本当に感謝である。

そしてこの時から僕の家庭環境は僕にとっての強みとなった。

辛いことだらけだったが、経験しようとしても中々できないことである。

だから僕の家庭環境は僕にとっての強みである。



今、僕は

一歩目を踏み出せない人の挑戦を後押しする

ということを軸に

笑顔が溢れる世界を創る

ために日々過ごしている。

そんな中でやりたいことは2つ


・家庭環境で悩む人を救う、寄り添う

・ティーチングではなくコーチング能力の高い先生を増やして「自分らしく」生きることができる生徒を増やす


家庭環境教育


僕は絶対に2つともやる。


僕たちの可能性は無限大だ。


やるしかない。

止まっている暇はない。

1分1秒を大切にしていく。


そんな風に今現在の僕は自己開示ができるようになったことによって昔の自分から大きく変わった。

挑戦しまくりの日々を過ごし、その日々は笑顔で溢れている。

毎日起きる時は、

最高な1日がスタートした!

という気持ちになり、寝る時は

最高な1日だった!

と本気で言えるくらい充実した生活を送っている。


今この瞬間が最高だ✨

今日も最高な1日を過ごしていく!




最後に

最後に言いたい。

色々あったし、家族でいて幸せを感じたことはない。

でも、大好きなサッカーをさせてくれて、学校に通わせてくれて、ひとり暮らしをさせてくれて・・・

他にもたくさんある。

1番言いたいのは中々できない経験をさせてくれて、大切なことに気づかせてくれた。


ありのままの自分でいるために、普段読んでる呼び方で


パパ、ママいつもありがとう


本当にいろんなことに感謝してる。

絶対恩返しするね。

絶対に直接こんなことは言えないけど、ここで言わせてもらいます。


このnoteを書くことで2人とも嫌な思いをするかもしれない。

でもパパが言ってくれた

「とおいの夢の実現の役に立てるならいいよ」

という言葉すごく嬉しかったし、本当に泣けた。

自分はこの経験をしたからこそ、中々できない経験をしているからこそ自分にしかできない事がある。


家庭環境で悩む人を救う、寄り添う


このnoteが昔の自分と同じような悩みを持っている人に届いて欲しい。






同じような悩みを持っている人へ

もし、このnoteを読んでくれて、

自分も家族の心の病で悩んでいるけど誰にも相談できない。

そんな悩みを持っている人がいたら僕のTwitterのDMにきて欲しい。


https://twitter.com/toi_hirai



自分も経験があるからこそ聴ける。

どれだけ役立てるかは分からないけど聴くことはできる。

」と「」と「」で

本気で「聴く」

だから勇気を持って欲しい。



君は1人じゃない

大丈夫

頼ってみよう






こんなに長いnoteをここまで読んでくださった方には本当に感謝しかないです。

ありがとうございます。

現在、心の病を持った人に対する理解は低いように感じられます。

「鬱」という言葉に悪いイメージを持っている人、心の病を持っている人を軽蔑の目で見る人、は多いです。

実際に今まで何度も友達が

「鬱になりそう」「あの人鬱だって笑」

という言葉を発しているのを聞いてきました。

それが多くの人の苦しみにつながっています。

このnoteが少しでも心の病について考えるきっかけになったら嬉しいです。

もっと心の病を持つ人が生きやすい世界になったらいいなと思います。

そして、あまり注目されることがないその家族。

その人たちへの理解も進むと嬉しいです。



こんな自分ですが、これからも日々自分らしく最高に楽しんで生きていきます。

そして、そんな自分のありのままの姿をTwitterInstagram、noteで発信していきます。

そんな自分の発信が見てくれる人のやる気や元気、笑顔に繋がったら嬉しいです。

これからもよろしくお願いします!


(2024年6月29日追記)

このnoteを書いてから3年半。
今見返すと恥ずかしい部分も多くありますが、当時のまっすぐなこの文章から今の自分が学び・反省することも多くありずっとそのまま残しています。

平井は22歳となり、組織として精神疾患の親をもつ子ども・若者支援の土壌づくりに本格的にチャレンジするため大学を休学しています。

このnoteを書いたとき、学生団体としての走りはじめであったCoCoTELIは、2023年5月24日にNPO法人CoCoTELIになりました。
この3年半で多くの精神疾患の親をもつ子ども・若者と出会い、一緒に悩んできました。
その期間を通して、このnoteを書いた時と比べ取り組む問題や社会を自身の経験ではなく、社会の問題として俯瞰して捉えられるようになったのかなと思います。

現状日本において、空白の領域である精神疾患の親をもつ子ども・若者の支援。経済的合理性がないが必要な領域です。しかし、ビジネスにはならないし、本来であれば公的機関も取り組むべき領域でありますが、公は0→1が苦手。そんなときに寄付型だからこそできることがある。長期的には精神疾患の親をもつ子ども・若者支援を公的な仕組みに落とし込むためにも寄付型NPOとしてビジネスでは解決できない領域で、公的機関が苦手な0→1にチャレンジします。

そんなときに、みなさんの力が必要です。
精神疾患の親をもつ子ども・若者支援の土壌づくりのチャレンジに、寄付という形で仲間になっていただけると嬉しいです。
現在CoCoTELIでは、仲間が増えれば増えるほど安定した収益となり、安定して子ども・若者に支援を届けることができる継続寄付(毎月一定額の金額を継続的に寄付)の仲間集めをお願いしています。
もしよければ、CoCoTELIの精神疾患の親をもつ子ども・若者支援の土壌づくりのチャレンジに、継続寄付者として仲間になっていただけると嬉しいです。

取り組む課題や活動、ご寄付は以下ページから

では、このくらいで失礼します。

改めて、ありがとうございました!



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