東京大学2001年国語第1問 『ぼくの日本語遍歴』リービ英雄
近年の東大国語第1問にはないような文学的文章だが、子細に読めば、きちんとした論理に裏うちされており、しかも文章の終盤は幾何学的といってもよい整然とした対比によって骨格が形成されていることがわかる。
最初の日本語の小説を執筆した動機、急死することになる在日韓国人作家との対話と気づき、そして中国大陸で得た私小説の着想と日本語の獲得、の三部で構成されているが、場面展開がスピーディでドラマチックでもある。
言語とアイデンティティについて考えさせられる問題文である。
(一)「だから最初から原作を書いた方がいい」(傍線部ア)とあるが、筆者が日本語で小説を書こうとした理由はどこにあると考えられるか、わかりやすく説明せよ。
まず、傍線部アを含む第2段落の冒頭に「日本語は美しいから、ぼくも日本語で書きたくなった」とあるので、この理由に飛びつきそうになる。しかし、「日本語の声」と「仮名混じりの文字群」は特に美しかった、とも述べられたあと、傍線部アを含む文の最後に「という理由が大きかった」とあるので、後に続く理由の方がより実質的なものだったことがわかる。
傍線部アの直前には、「西洋から日本に渡り、文化の『内部』への潜戸としてのことばに入りこむ、いわゆる『越境』の内容を、もし英語で書いたならば、それは日本語の小説の英訳にすぎない」とあり、第2段落最後の文には「壁でもあり、潜戸にもなる、日本語そのものについて、小説を書きたかった」と述べられている。
つまり、筆者が日本文化の内部に触れる際、その障壁とも通路ともなった日本語を獲得する過程が「越境」であり、この小説はその体験を日本語で書いたものだったことがわかる。
それをもし英語で書いてしまえば、筆者はいまだ日本語を獲得していない、つまり「越境」しておらず、日本語や日本文化を内部化していないことになる、といえるのである。
以上から、「日本文化の内側に触れる際に障壁とも通路ともなる日本語を習得した体験を日本語で書くことで、筆者は始めて文化を越境したことになるから。」(65字)という解答例が得られる。
(二)「おおよその日本人が口にしていた「美しい日本語」」(傍線部イ)とあるが、ここにいう「美しい日本語」とはどのようなものか、わかりやすく説明せよ。
第3段落の冒頭にある「ぼくにとっての日本語」と対照されるのが傍線部イにほかならない。この二つを対照的に表現することで、よりわかりやすい解答になる。
まず、「ぼくにとっての日本語」については、第2段落に「十代の終り頃、言語学者が言うバイリンガルになるのに遅すぎたが、母国語がその感性を独占支配しきった『社会人』以前の状態で、はじめて耳に入った日本語の声と、目に触れた仮名混じりの文字群は、特に美しかった」とある。
つまり、完全な母国語ではないために発音や表記が新鮮に感じられる日本語、ということである。
また、傍線部イについては、第3段落に「日本人として生まれたから自らの民族の特性として日本語を共有している」や、「純然たる『内部』に、自分が当然のことのようにいるという『アイデンティティ』」とある。
つまり、民族の特性として共有し、自己が当然のようにそれを内部化しているように感じられる日本語ということができる。
以上から、「完全な母国語でないために発音や表記が新鮮に映る日本語ではなく、民族の特性として共有し、当然のように自己に内部化している日本語。」(63字)という解答例ができる。
(三)「一生「外」から眺めて、永久の「読み手」でありつづける」(傍線部ウ)とあるが、どういうことか、わかりやすく説明せよ。
「どういうことか」という設問では、主語を補充しなければならないことがしばしばある。本設問の場合は、傍線部ウを含む文中には「生まれた時からこのことばを共有しない者(は)」とあるが、その前の「日本人として生まれたから自らの民族の特性として日本語を共有している(者)」でない者ととらえる方がより的確だろう。
「『外』から眺める」とは、外国語としての日本語を読む、鑑賞する、という意味である。傍線部の次の文には「正確に」「公平に」とあるので、正しく鑑賞することはできる、ととらえるべきだろう。
「『読み手』でありつづける」とは「書き手」とはならない、つまり表現できるようにならない、という意味である。筆者は「日本語の美しさ」にこだわっていることからすれば、美しい日本語は表現できない、という意味にとらえる方が的確だろう。
以上から、「日本人として生まれず日本語を民族の特性として共有しない者は終生、日本語を正しく鑑賞できても、美しく表現できることはないということ。」(65字)という解答例ができる。
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