【短編小説】Empathy

三人のせがれたちが急に優しくなった。
それで、ふとおれは思わされた。この男はすっかりジジイになってしまったのだなと。

小さな鏡を隔てて対峙する男は笑っている。口をイーと広げて上顎の歯を磨きながら、疲れたような、淋しいような笑みだ。
禿げ上がってはいないが、六十という年相応に随分と頭皮をさらした白髪頭。退職してからは容姿に気を遣う習慣もなくなり、口周りの無精髭ぶしょうひげは剃っても剃らなくてもおなじように生え散らかっている。
遠近両用の銀縁メガネは学生のころから使い潰してきた。その奥からこちらを射貫く歪な双眸そうぼうは、張艶のなくなった肌のせいで落ち窪み、ギョロギョロと飛び出ていて気味が悪い。
額や頬にはがんを患ってからぽつぽつとでき始めた焦げ茶色のシミ。身体の免疫力が低下しているからか、その存在感は着実に増すばかりだ。顔面がシミで埋め尽くされる前にぽっくりと逝ってしまいたいものだが、この不穏はおれをずるずると沼へ引きずり込むように、ひどく緩やかに身体を蝕んできやがる。それに、いざ死という機会を目前に控えると、それを鼻で笑い飛ばしていたあの少年時代が嘘みたいに、心は情けないほど尻込みしてしまうようにできているらしい。
心電図を測る赤、黄、緑の三色のリード線が邪魔くさい。本命の処置は済み、あとは回復の一途を辿る経過観察の治療段階に入っているのだから、もう外してしまったって構わないのだ。だが、イルリガードル台から左の前腕に挿し込まれたソルデム3AG輸液の点滴が、万が一の緊急事態に備えなていなければならないことを滔々とうとうと告げている。
そう遠くないうちに、おまえは本当に死ぬんだぞ、と、この一滴一滴に言われているような気がした。
そんなところで、背後の扉がコンコンとノックされた。
怖ろしい妄想に足がすくんで、おれは身体を支えるように歯ブラシを持った右手で蛇口を掴んだ。捻って水道水をコップに注ぎ、口をすすぎながら背後を流し見ると、扉がスライドして開かれ、廊下の陰から妻と次男が姿を現した。
「おとうさーん?」
妻はペットボトルの水を数本入れたビニール袋を手に提げている。次男も着替えの入った紙袋を持たされていた。
「おう、おお」
「おはよう、元気そうだね」
次男がおれの顔を見て微笑む。
今はもう判る。でも、一瞬、三兄弟のうち誰が来たか判らなかった。ひと目見ただけでは、息子たちが脳内で混同するのだ。正月やお盆で帰省して結集する彼らを逐一呼び間違える失態は、いつしか日常茶飯事になってしまった。脊髄反射で名前が出てこなくなっていることの申し訳なさと情けさなときたら、それはそれは筆舌に尽くし難いものがある。そんな思いはおくびにも出さず、おれは平静を装って洗面台に向き直り、うがいをして、そっと水道の蛇口を閉めた。
「この前の見舞いで渡した桃のシュークリーム、食べた?」
次男の問い掛けで、おれは二日前に夜食で腹に入れたそれを思い出した。
「ああ、食べた食べた」
「どうだった?」
「美味しかったよ。でも、とうさんはノーマルのやつのほうが好きだなぁ」
「おお、ほら、やっぱりね。おとうさんはそう言うと思ったわ」
ベッド脇に置いてある冷蔵庫の中を勝手に整理していた妻が振り返って、次男と目配せして得意げに笑みを浮かべた。

「血液内科の病棟は見晴らし良いねぇ」
窓越しに望める都心の繁華街を見下ろして、次男が呟いた。
「最上階だからねぇ」
「晴れてたら動物園のキリンとか見えるぞ」
かれこれ十年以上通院しては二、三日の検査入院を繰り返しているから、ここからの景色は嫌になるほど見飽きているものの、おれは初めて見渡したような目で次男に教えてやる。こうして肩を並べてみると、彼は身長も筋肉の厚みもけた違いに男前な青年になっており、おれは随分と衰えたのだと痛感させられた。
「へぇ、ああ、今日は惜しいけど、たしかに晴れてたら見えるかも」
顔の下半分がマスクで隠れているから余計にそう思うだけかもしれないが、文机に手を突いて身を乗り出す次男の眼は母によく似ている。子犬のようにパチクリとした、丸く大きな二重の眼だ。
「このあと夕立になるそうよ」
「そうか」
「個室で治療受けれて、ほんと良かったわ。熱中症の急患とかが入ったら大部屋に移ってもらうかもしれない、って言われてたから」
「母さんずっとそれ言ってるよね」
「だってそうでしょう。今回のが大部屋でできる治療なわけないじゃない」
そう語気を強める妻は看護師として二十年近く勤めたのち、現在は医大の看護学部で教鞭を執っている。専門知識に富んだプロの医療従事者だが、職業柄か過度な心配症でもある。今回の治療は癌細胞の根絶を目指す大掛かりなものになると言われていたが、終わってみれば正直、四人部屋でも行えるほど簡単なものだったと、改めて振り返ってみておれは思った。
「まあまあ、もう佳境は乗り越えたから。あとは大部屋に移されようと構わんさ」
「熱は?」
「今朝は七度六分。まだ解熱剤も入れてもらってるけど、腹痛はもうひどくないし、便秘も解消しつつあるし、とりあえずは順調だな」
「ふうん、そう」
「良い感じだねぇ」
「まだ上がったり下がったりするんだから、下手に動き回っちゃだめよ」
「まあ・・・・・・、うん、そうだな」
おれは喉までせり上がった言葉の九割を呑み込んで、ベッドに腰を下ろした。すぐに妻がイルリガードル台に吊るされているバインダーを覗き見る。
「143の85、141の85、141の86・・・・・・うんうん、なるほどね、上が若干高いかなぁ・・・・・・。抗生物質は? もう入れてない?」
「まだ朝と晩入れてる」
「血糖値は?」
「異常なし」
「ご飯は食べれてる?」
「食べたり食べなかったり。熱が上がっちまうともうだめだな。魚と米のにおいで吐きそうになる」
「病院の米って独特のにおいするもんね。ゼリーとか果物とかのほうが腹に入る?」
「ああ」
「わかった。じゃあ週末また来るから、買い足しておくわ」
「ありがとう」
おれが妻に礼を言うと、不意に次男がベッドの上に転がる投資術に関するビジネス書籍に手を伸ばした。
「ああ、そういえば、証券会社から何枚か通達来てるよ。角2サイズの封筒で、『重要』って書いてあるやつ」
「ああ」
「なんか今回の日経平均株価の大暴落と関係あったりする?」
「いや、たぶんないな。とうさんの部屋の机に置いておいてくれ。一週間もしないうちに退院するから、そのときに確認するよ」
「ほいほーい」
次男は数瞬だけ目次に視線を落とすと、ページをめくることはせず書籍をパタンと閉じた。

「コロナがまた流行ってきてるのよね」
妻がうんざりしたように零す。もう帰る支度を始めているのは、その新型コロナウイルスのせいで面会時間が三十分以内に制限されているからである。
「病院駆り出されてるのか?」
「いや、もう半分看護師じゃないから断ってるわ。学部生は夏休みでも、院生の修論見ないとだし、あっちこっちの学会で喋らなくちゃいけないし、介護施設とかで講演も頼まれてて、もうね、それどころじゃないのよ」
「介護施設の講演とか、母さんの他に人いないの?」
次男の問い掛けに、妻は気難しそうに溜息を洩らした。
「なんか、企画したその介護施設の職員さんが、うちの大学卒業してて、かあさんの講義を取ってたことがあるらしくてね、その繋がりで声かけてくれたんだってさ。こっちとら面識もないわって感じで、もう」
「しんどいねぇ」
「かあさんも六十で早期退職だな」
「ほんと、こんな働き方はもう嫌。あと・・・・・・五年か。あと五年で絶対辞めてやる」
そんなことを言いながら、生真面目で断れない性格の妻は周りから惜しまれて引き留められて、なんやかんやずるずると定年まで、そしてそのまま再雇用されてまで勤め上げるような気がした。
三幸みつゆきのやつはイギリスで元気にやってるのか? 写真全然送られてこんけど」
三男は今、日本の大学を休学し、語学留学をしている真っ最中だ。おれが入院する直前に日本を発ったはいいが、それっきりチャットアプリの家族のグループに近況報告はない。
「さあ、何も言ってこないし、楽しくやれてんじゃない?」
次男は肩を竦めて言うし、妻も把握してはなさそうだ。
「たぶん、やつなりに罪悪感あるのよ」
「罪悪感?」
「ええ。とうさんが治療で苦しいときに、自分だけ親の金で海外生活を満喫してていいんだろうか、みたいなさ。写真いっぱい送りつけると、自慢してるふうにこっちが捉えるんじゃないか、って思って、充実してはいるけど大人しくしてんだと思うよ」
「なんだそれは」
「あいつらしいでしょ」
「ほんとよね。こっちは無事にやってるよって、ただ知らせてくれればいいだけなのに」
妻と次男は三男の性格と心理に納得しているようだ。そんな変に考えすぎる人間だっただろうか、とおれは三男の人柄を思い出そうとした。でも、三男と接した瞬間を振り返ってみればみるほど、おれの中の三男は妻と次男が抱いている人物像とはまったく重ならなかった。
「写真溜まったら送ってくれよ、って一言言ったらすぐ返信来るっしょ」
「そうね。こっちから言わないと絶対送ってこないわよ」
聡一そういちは? 毎週釣りに行ってるようだが」
長男からは毎週のように釣果の写真が送られてくる。息子たちが小さかったころから幾度も、おれの趣味で釣りやキャンプに連れて行ってやったものの、中でも長男は趣味も性格も若いころのおれにそっくりに育った。おれもよく週末に一人で釣りに行っては実家に持ち帰って父親にさばかせていた記憶があるが、今ではおれが、息子が釣り上げてきたイカやシーバスを捌く立場になっている。
「兄貴は彼女と別れてから釣り三昧だね。金曜日に仕事から帰ってきては日曜の夜中まで帰ってこないよ」
次男が苦笑して平然と言ってみせる。
「もうよく行く漁港なら、おとうさんより穴場のスポット開拓してるんじゃない?」
妻も。
おれが一人で釣りに奔走していたあのころから、もう二十年、三十年と時が移ろいでしまったのだ。そんなふうに思っても、いまいちピンとこない。
「そうかぁ。退院したら案内してもらわなきゃな」
「父さんが退院したその晩はうなぎでも食べ行きますか?」
次男の提案に、妻がグッと唾を飲んだ。
「ああ、いいわねぇ。お寿司でも良いかと思ってたんだけど」
二人の視線に、主役は何が食べたいのかと問われていた。
おれはベッドに寝転がってうなぎと寿司を思い浮かべ、顔をしかめて口を開いた。
「まあ、任せるよ。とうさんは、家でビール片手にちくわと枝豆が食べれたら満足だから」

その日の夜に採血をして、翌日の午後に返ってきた結果は至って良好とのことだった。
抗生物質だけは続いているが、栄養剤と解熱剤の点滴は外された。さらに眠って日を跨ぐと、自分でも体内の癌細胞が死滅しつつあることをひしひしと感じるほど、心身ともにみるみると調子が戻ってきた。イルリガードル台を引き摺ることからも解放され、病院内を動き回りたくて仕方がなかった。

病室を出て、身体が跳ねそうになるほど心を躍らせて廊下を歩いた。

でも、エレベーターの前で立ち止まって、おれは不意に怖くなった。
振り返る。背後には廊下が伸びている。病室からエレベーターの前まで、薄暗く無機質な、でもそれほど長くも狭くもない廊下が。

おれの親父は、病院の廊下で、全裸で死んでいた。
そのことを、ふと思い出した。

もう何年前の出来事になるのだろう、晩夏の、丑三つ時のことだった。
おふくろが言うには、一階でバーンと大きな物音がして飛び起きて、階段を降りて駆けつけたときには、親父は風呂場で昏倒していたらしい。その夜は蒸し暑くて、寝苦しくて起きてしまったから、シャワーを浴びて汗を流そうとしたところで、脱衣所と風呂場を隔てる段差につまずいて浴槽に頭を打ち付けたのではないか、とのことだ。
意識は混濁としていたが息はあり、すぐに救急車を呼んで救命処置が施された。そして、意識が戻ることに賭けて即座に入院させ、個室のベッドで救命器具に繋いだまま寝かせていた。
すると、付きっきりで傍にいたおふくろがトイレに立った一瞬の隙を突くようにして、それは起こったという。
カテーテルはすべて外れており、病衣も着ておらず、親父は身体ひとつで個室から数歩離れた廊下に倒れ込んでいた。宿直の看護師がそれを発見して、そのまま親父は息を引き取った。訃報ふほうを受け取って妻と幼かった息子三人を叩き起こして病院へ急行したときには、すでに親父は硬く冷たく、過去になっていた。

真相は定かではない。ぜんぶ聞いた話だ。
だが、親父ならやりかねない。そう思った。
親父は自分の死期を悟ったのだ。ここで自分の生命活動は停止するのだということを、人生が終わるのだということを、よく理解していたのだ。

そして、親父は強かった。

あと、二十年。
あと二十年でおれは、親父の享年に達する。
到着したエレベーターには乗らずにひとつ深呼吸をして、おれは一歩ずつ、一歩ずつ、リノリウムの床を踏みしめて個室へと戻った。
じっとりといやな汗をかいていたが、シャワールームには入らなかった。

週末、CTをって確認し、異常なし、なんと二日後にはもう退院することが決まった。
長患いしていた癌は、あっけなく完治した。
「よしよし、これでひとまず安心だわ。二日後ね、分かった」
妻は柔らかく微笑み、ほっと胸を撫で下ろした。
「当日に大荷物になってもしんどいから、着替えとかタオルとかもうおおかた引き上げてくれるか」
「うん。退院の時間分かったらラインして」
文机に手を突いて、手帳とスマートフォンを交互に見ながら妻が言う。
「休みか?」
「それが厳しいのよねぇ・・・・・・あっ、でも誠二せいじが車出せるって」
「ありがとう。すぐ知らせる」
おれが妻の横顔を見つめて礼を言うと、すぐに手元のスマホに次男から『何時でも迎えに行けます』とグッドサイン付きでメッセージが届いた。おれが万が一危篤に陥った場合に備えて、緊急連絡先は実家で暮らしている次男の電話番号にしてあるらしい。通知をオンにして即座に対応できるようにしてくれているのかと思うと、紆余曲折あったものの、なんとなく、おれと妻は子育てという所業を上手いことって退けたのではないかと思う。
「どうしたの?」
不意に妻が問う。その視線は手帳のページに落ちたままだったので、おれは反応が一息遅れた。
「何が」
枕を腰に当ててベッドの座り心地を直し、問い返す。
「何か言いたそうな顔して」
「別に」
「そう?」
妻は流し目でこちらを窺うと、なにやら不敵な笑みを浮かべて、また視線を手帳に戻した。スマホからペンに持ち替えたその手先の動きを追うと、カレンダーの二日後の欄に走り書きしてある『9pm~新型コロナ対策講演会@市立図書館』の下に新たなスケジュールが書き加えられていた。『夫退院!』と、エクスクラメーションマークまでついているのが見えると、手帳がさっとすぐに閉じられた。
「息子たちのこと、真澄ますみはどう思う?」
「どうって?」
「いや、まあ・・・・・・」
「すっかり大人になったな、って思うわよ?」
「そう、そうなんだけど、そうじゃなくて。小さかったころから成長を見守ってきた母親としてさ」
「別に、産んだからと言って、特別感慨深くもないわ。最初はそりゃあ可愛かったけどさ。所詮、みるみる身体が大きくなって、人間社会とは何たるかをなんとなく知って、少しずつ心も打たれ強くなって、ある部分では楽勝で適応できたり、別の部分ではまったく不適合だったりして、そうして気づけば衰えているものなんだし。あたしたちだってもう初老じゃない、心なんて二十代のころから一ミリも成長してないっていうのに、びっくりよ」
「そうだよなぁ」
相槌を打ちながら、おれは内心狼狽うろたえていた。昔からこの女は達観していると思っていたが、その鷹揚おうようぶりを改めて目の当たりにすると、自分がひどく窮屈に縮こまった小心者に思えてならなかった。
「光陰矢の如しってやつね。『月日は百代はくたい過客かきゃくにして、行き交ふ年もまた旅人なり』ってほら、あれ、これは誰だったかしら」
「おれに訊くなよ」
「まあいいわ。最近の若者はこうこうこうでけしからん、なんて思っても言わないようにしないと、どんどんババアになる一方だわ」
妻はそのババアという存在になる過程を心底楽しんでいるように、少女のような笑みを弾けさせて呟くのだった。
「息子たちに恨まれてないといいんだが」
口からつい本音が零れると、妻は眼を見開いてハッと息を呑んだ。かと思えば、またカラカラと大きな笑い声をあげた。
「何それ? 恨んでるように見えるの? あの子たちが?」
「いや、見えない見えない。見えないけど、親に対してそういう感情をひた隠してる可能性だって、ないとは限らないだろう」
「考え過ぎよ。あんた昔っからそういう悲観的なとこあるわよね。ねぇ、三幸が生まれたときのこと、憶えてる?」
「そりゃあもちろん」
「あたし、三幸の顔を初めて見たときのあんたの顔、忘れられないんだよね」
妻の口から出る初めての告白に、おれは一瞬たじろいだ。自分がどんな表情を浮かべていたかなんて、自分で憶えているわけがない。
「おれ、どんな顔してた?」
「なんかね、人殺して、警察に自白しようかどうしようか迷ってる人みたいな顔してたのよ」
「うそ」
「ほんとよ。もうね、ああ、やっちゃったな、これどうしたもんかな、みたいな顔だったわ」
「記憶にないなぁ」
「そりゃあそうでしょうよ。聡一のときは世界で一番幸せ者の顔してたのに、誠二のときで雲行きが怪しくなって、三幸と対面した途端、今にも泡吹いて失神するんじゃないかってぐらい、産んだこっちの疲れが吹き飛ぶほどの狼狽えようだったんだから。まあきっと、三人も子供つくってしまって、おれは全員を真っ当な人間に育て上げられるんだろうかって、父親として物凄く不安だったんだと思うわ」
妻に笑われても、おれは当時の心境をいまいちはっきりと思い出せはしなかった。
「おれは、良い父親だったかな、その、息子たちが誇りに思うような」
「さあね。退院日迎えに来てくれるんだし、誠二に直接聞いてみればいいんじゃない?」
「聞けるわけないだろ、そんなこと。上司からの評価より怖ろしいよ」
「そうね。なってみて思うけど、親ってずるいわよね」
「ずるい?」
「そう思わない? 自分のこととなると言い訳しか出てこないのに、それを棚上げして我が子には勉強しなさいだの不純異性交遊はするなだの、かと思えば結婚はいつだの早く孫の顔が見たいだの」
「きみの両親は何も言わないでいてくれたよな」
「あんたのお義母かあさんが特にしつこかったわよね。あんたは一人っ子だし、悪く言うつもりはないけど、家族じゃなかったらあたし、あの婆さんのことぶん殴ってたかも」
妻はおれのおふくろを悪しざまにこき下ろすことに躊躇ちゅうちょがない。正月に顔を合わせるときによく波風立てずに上手いこと立ち回っていたなと未だに感心するほどである。
「きみの親御さんほど強くなかったんだよ、おれのおふくろは。この言葉を声に出したら、相手はどんなふうに呪われるのかを考えることができなかったんだ。自分を死なせてしまわないように親父を捕まえて、生きる理由付けにおれを産んだようなもんだったんだろう」
「あたしたちだって、半分ぐらいはそうでしょう」
「ああ、まあな。だから、おれたちの息子であることを、あいつらが卑下していなければ良いと、少しだけ思ったんだ」
「じゃあ、あんたはどうなのさ?」
妻の問い掛けに、おれは首を傾げる。
「どうって?」
「あの両親の一人息子であることを誇らしく思っているの?」
「黙秘権は」
「使ってもいいわよ。あまり重要ではないし、はぐらかして逃げたと見做みなされるだけだから」
「じゃあ少し考えようか・・・・・・うーん・・・・・・、そうだな、あの二人の子で良かったと胸張って断言することはできない、かな。母さんは過干渉気味で鬱陶しいと思うこともあったし、父さんなんて典型的な昭和の頑固オヤジだったからね、理不尽に晩飯抜きにされたり暴力を振るわれたりしたこともよく憶えてる」
「うん」
「でも、まあ、憎んでた時間のほうが長いとは思うけど、心のどこかでは感謝もしてるんじゃないかな」
おれが答えるのを、妻は淡々と荷物をまとめ始めながら聞いていた。もう面会時間の三十分を過ぎてしまっているようだった。
「そう。そう思えるように育てられたんだから、きっと息子たちもそう思ってるわよ」
「だと、良いんだけど」
「あんた息子たちがいないとこだとほんとうに冴えないわね」
「息子たちの前でも冴えてないだろう」
「癌も治ったんだから、もっとしゃんとしなさい。先に死んでいった代々の親族や友人たちに誇れるようにね」
看護師として、おれよりも遥かに多くの患者の最期を看取みとってきたであろう妻は諸々の入院用品を回収して紙袋に仕舞うと、「じゃあ、退院日の夜はちくわと枝豆でお祝いしますからね」とだけ言い残して、スタスタと病室を出て行った。

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