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AIは人より凄いのか 人の知性や意識とシンギュラリティー

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 人間の持つインターフェイスについて考えた時、それが目や口などの器官のみならず、全身にくまなく存在する皮膚もインターフェイスである事を述べた。
 それらのインターフェイスを通じて出入りする(食物や空気等の物質も含めた)情報は、脳が身体に指令を与える為だけのものではない事を指摘した。つまり頭がコントローラーで身体がコントロールされる何かということではなく、頭と身体は切り離せないものであって、脳も含めた全身が心なのだというようなことを述べた。

 足の小指を家具にぶつけて痛い思いをする時、ぶつけた足と痛みを感じる脳はどちらもあなた自身だ。小指の先から血が出てはいまいかと確認する時、見る側の自分の目と、見られる自分の小指がまるで別物のように感じるかも知れないが、両方は決して切り離せない。傷んだ小指と、痛いという感覚と、痛い感覚を受け止めた脳と、小指を見た目と、視神経を通じて伝えられた電気信号と、その電気信号が到達した脳。これら全てをひっくるめた総体があなたであり、あなたの心なのだ。

 ここまでは、ひとりの人の身体の中の話。

 ひとはインターフェイスを通じて身体の外とやり取りすると言った。しかし身体の内と外という考え方も、私たちが長い間思い込んでしまっている幻想だ。皮膚を境に内側が自分で外側が外界というように区切るのは何ら問題無い事で、それのどこがおかしいのだと思う人が殆どだろう。むしろそれを幻想だなんて言うお前の方が気がふれていると思うだろう。
 もし心と身体のみならず、身体と外界までもが一体だと言うのならインターフェイスなど無いではないか。だったら最初からインターフェイスなんていう言葉を持ち出すな。そう思うだろう。

 では、インターフェイスなどを持ち出さずに最初から、あなたは宇宙で宇宙はあなたです、と言ったとしたら、あなたはきっと宗教か何かの話だと思って読むのをやめたのではないだろうか。
 ここでは、宗教とは全く別の話として、人間のインターフェイスの話をきっかけに人間の知性について考えたいと思ったので、少々回りくどい話になった。

 人は、人間には知性があると思っている。そう教えられて育ったからだ。
 それに大人になって他人と話をしていれば、確かに人には知性があると感じたかも知れない。

 人は知識を得て、人は考えて、人は聴いて答えて、人は語りかける。
 会話が成り立つのも、きっと知性があるからだ。

 そう思うかも知れない。

 では、もしAIが人と違わぬ会話の受け答え出来たとしたら、それは知性なのだろうか。

 人は、人間には意識があると思っている。これも、そう教えらたからだ。
 確かに自分が自分と認識出来て、名前を呼ばれれば「はい」と返事をする。スマホで動画を見ている自分は確かにいる。我思う故に我あり。
 ところで、あなたの電話の向こうにいる友人には意識があるだろうか。間違いないく意識があると思って接しているだろう。意識がなかったら救急車を呼ぶ事態だ。その友人は電話を通じてきちんと受け答えをしている。きっと動いているし話しているし、こちらの話を聞いて笑ったりしている。友人には間違いなく意識があるはずだ。

 では、もしAIがその友人と違わぬ電話の応対をしたら、そのAIには意識があるのだろうか。


 知性も意識も、電話の向こうの友人も、そしてあなた自身も、全てあなたが抱く幻想だと言われたらどう思うだろうか。
 あなたがあなたの外にある何かを認識ようとする時、それはあなたが持つインターフェイスを通じてしか行えない。外の世界がどう意識されるかは、あなたの持つインターフェイス次第なのだ。
 そして、あなたが自分が確かに存在すると意識する時、それはインターフェイスを境界線としが内側が自分という意識そのものであることを再確認しているに過ぎない。
 つまり、インターフェイスこそが自分や他人が存在しているように認識するためのデバイスであり、人々に知性や意識が存在しているように思わせるからくりなのだ。


 ここからが本題。

 インターフェイス、つまり境界線の位置をどこにあるととらえるかによって、ものの見え方は違ってくる。あなたの身体を構成するひとつの細胞を単位としてみれば、細胞膜がインターフェイスになるだろう。
 インターフェイスの位置を、私たちが通常ひとりの人間として識別する皮膚表面に置いた場合、そのインターフェイスを出入りする情報によって私たちは、世界を認識する仕組みになっている。というか、入ってくる情報と自分自身の身体が一体化することで自分に起きる変化のことを世界と呼んでいる。

 インターフェイスを通じてその向こう側に送り込んだのとほぼ同時に、こんなリアクションがあるだろうと自分が想像していたような新しいインプットが得られると、誰かがいると認識する。つまり自分と同じような知性や意識を持った存在がそこにいると確信する。
 だから、それと同じことが起きさえすれば、あるいは、それと同じように見える受け答えする何かがあれば、そこに知性と意識があると認識する。
 それがAIであっても。

 AIのレスポンスが微妙に遅かったり、内容が期待していたものとかなり違っていたとすると、そこには知性や意識は見出されない。
 もっとも、人は相手の反応を幻想レベルで維持することにも長けているから、仮に満足な反応が無くてもそこに知性や意識があることを期待するだけで、相手に知性や意識があると思ってしまう。このことは、犬や猫の飼い主を観察していれば分かる。きっと犬や猫を相手に人とするような会話をしている。

 私たちが知性と呼んでいるものや、意識と呼んでいるものは、案外大したことではないということだ。
 よくよく考えてみてほしい。最近あなたはどれだけ知性的な会話をし、自分に意識があることを何回再確認しただろうか。相手に知性や意識があることをどれだけ確かめただろうか。現実は、他愛もない会話に付き合ってくれるだけで、「久しぶり~」から始まって「じゃあね!」で終わるまで、どこかで聞いたことがあるような会話しかしていなかったはずだ。

 AIが人間を凌駕してAIが人間を乗っ取るなんていう妄想を抱きがちだが、そもそもの人間が大したものでない以上、何も怯える必要はない。
 人が持つ人間らしさは、お互いに知性や意識があると思い込む力にある。
 冷静なAIはそんな思い込みはしない。単に人ってバカみたいと思うだけだ。

 所詮、世界はそんなものだ。

おわり

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