見出し画像

何のために働くのだろう?

最近ようやく感じたこと、考えたことを文字にして残しておくことの大切さに気付くことができました。気づいただけで残しているかどうかは別問題です。
ただ、今回のこのノートは、留学に来てここまでの集大成にもなりえるもの、そして最近の僕の頭の中のメイントピックそのモノです。期末テスト前でヤバいですが、今絶対に残さなきゃ!と思って描き残します。
ズバリ

働くって何?

ってことです。この問いを中心にここ少なくともここ2か月は頭の中がグルグルしています?
というわけで、今の時点で考えていることを文字に起こしたいと思います。まだ自分でも完全に消化して自分のモノにできたわけではないので、ちぐはぐなところや論理がグラニュー糖になっている部分もあるかもしれませんが、ご了承ください。
特定のサイドをけなすつもりは無く、あくまで一個人の意見です。そして、2022年4月末時点での意見にすぎません。

予め言っておきます。超大作なので。読む際は時間を取って読んでもらえると嬉しいです。

これまでの自分の価値観

日本を出発する前の自分は、とにかく忙しかったです。これは他人から見てもそうだったのだと思います。
大学に通いながら、学生団体を2つでうち一つは副代表を2地域で行い、その他にも複数の役職をかけもちし、1つの一般社団法人のメンバーを務め、インターンを1か所で行い、バイトもしている。そしてその片手間で写真活動なんかを行っていました。更には金沢で開かれた展覧会の英訳を担当したり、映画の撮影を手伝ったり、映画祭の運営をしていたりもしました。
正直、今思うとクレイジーです。
友達からご飯に誘われても

「ごめん、その時間ミーティングあるわ。」
「ごめん、その時間インターンだわ。」
「ごめん、その時間はやらないといけないこと終わらせるのに使いたい。」

この3つが決まり文句のようになっていました。個人的信条として忙しそうな人に見られることが嫌だったため極力予定を入れていましたが、そのしわよせは必ずどこかでやってきていました。睡眠時間が削れる、とか、締め切りギリギリに取り組んで見直したりフィードバックを貰う時間がない、といった形で。
けれど、その時の自分は何が正解かなんてわかっていなかったし、これでいいと思っていました。何せ締め切りギリギリでフィードバックなしで何かを成し遂げても、誰も何も僕に言ってこず、「完璧です」とか、「最高!」とか「いいね!ありがとう!」と言われるだけ。だから、「あ、自分って別にこれだけのタスクをこれだけの時間で改善点もなく(つまり完璧に)仕上げることができるんだ」と思っていました。そして何よりこの状況は自分が望んで創り上げたものであり、そこに不満はありませんでした。そういった環境に身を置いていると、自然と自分の周りにも同じように考える人たちが集まってくるわけです。そうすると、自分は忙しいことが好き、世間一般で言うワーカホリックと呼ばれる人種なのだ、と思っていました。

しかし、そんな生活をしていたら当然ツケが回ってきました。僕の場合はこころからまず崩れていきました。
何が起こったかと言うと

  • 自分のやっていることに関係のない遊びなんかの連絡がくるだけでイラつく

  • 何かしている時に話しかけられると内容に関わらずイラつく

  • zoomを開いたり、zoomで喋ろうとすると吐き気がする

  • 睡眠の質の低下

が起こり始めました。特にひどかったのはzoom関連です。開くだけで吐き気を催し、喋ろうとするとまた吐きそうになる。逆流性食道炎になっていました。そして、10月末にはタスクが溜まりすぎて何をどうすればいいかが分からなくなり、全てを放り出して一人で福島・東京旅を展開してしまいました。(これは今振り返ると自分でも大英断だったと思います)

現実逃避をずっとしておりました。
この東京訪問が自分の人生を大きく変えたことは別の話

一番恐ろしかったのはそれだけ体が壊れていてもそれでもなお辞めようとしなかったことです。だって、この生き方が正解だと思っていたのですから。大学2年生まではどちゃくそに乱れた飲み会なんかも経験したり、遊びでオール上等みたいな環境にいましたが、そういった環境を完全に下に見ていました。そういったや勉強とバイトだけで終える学生生活が不正解で、学生団体やインターンで自分を高める学生生活が正解だと思っていました。その価値観を持っていたからこそ「クレイジー」な生活が出来たのだと思うのです。

友よ、ありがとう

そして諸々が落ち着き、あと一か月でアメリカに行くよ、となった12月のある日、久しぶりにいわゆるウェイ系の同級生の友達と飲みに行き放たれた一言が深く刺さりました。

お前のやってることは凄いと思うんよ。俺絶対できんし。けど、お前がそういった課外活動的な?ことを始めたときからクソおもんなくなったわ。

こう言われました。その時は日本酒をグビグビ飲んでいたのですが、一瞬で酔いが覚めたことを覚えています。今覚えば、そこから僕の価値観は変わっていったのかもしれません。

(後になった知ったのですが、同級生の友人は2022年には社会人で僕はアメリカ留学、そうなるとこのことを伝えることはできないと思い、これを伝えるためだけに飲みに誘ってくれたそうです。ありがとう!)

今の価値観

友達の一言でハッとさせられ、思いました。「忙しい」が好きなのではなく、「忙しい自分」が好きだったのだと。だとするのであれば、本当の自分はどこにいるのだろうと。それを探すため、私はアマゾンの奥地へと向かった・・・のではなく一旦やっていることを全て辞めさせてもらって、肩書も役職も捨てて「自分」になってみようと。
というわけでやっていることをバイトもインターンも一般社団法人も学生団体も全て辞めて、しかし「留学生」という肩書だけは立場上捨てることができないのでそれだけを残して、アメリカ留学へと挑戦しました。

現地でアメリカ人や他の国からの留学生と交流したり、記事を読むことで、本当の自分が見えてきました。

パートナーや家族との時間を大事にしたい

色んな働くことや生きる上での価値観に対する記事や、アメリカ人と話していて自分がこれだな、と思ったことはまずこれです。第一優先です。
働くことに関してはたくさんの意味がありますし、それは人それぞれです。働きがいの定義もそれぞれでしょうし、ワーカホリックと呼ばれる人達やワークアズライフと捉える人たちも存在します。僕もワーカホリックだと思っていた人間の一人です。しかし、アメリカに来て、課題に追われる中でも過去の自分を振り返ろうとして、昔読んでいた世界一周をしている人のブログを読んでいた時に感銘を受けた言葉が思い出されました。

でも僕は、大切な人の笑顔すら守れないやつが世界中の笑顔を撮るだなんて間違ってると思う。
理想や夢ばかり追いかけて、身近にいる大切な人の存在を忘れたくない。

http://hiromasakondo.com/futaritabi/

この言葉です。理想や夢ばっかりを追いかけて、一番近くにいてくれる人の存在を忘れたり、笑顔にできないのは人として失格だと思う。もちろん、生き方が多様化している現代において必ずしもパートナーがいないといけない、ということは間違いだと思うけど、少なくとも僕は結婚して家庭を築きたいと思っているし、そうなった時に「仕事が…」となって家族やパートナーを笑顔にできないまま外に対して笑顔や幸せを届けたり、成果を出して自分が笑顔になるのは違うと思う。自分の一番近くにいてくれる誰かと一緒に人生を共にするわけだから、時間も笑顔も共有したいと思う。そして、誰かと一緒にいるということを選択したからこそ、一緒にいる意味に値する「何か」をパートナーや家族に届けていきたいと思う。今の自分はそれが時間や笑顔だと思う。他方、仕事がものすごく多くの人を笑顔にすることができたり、人と人の繋がりを作ったりすることもあると思うし、すごく魅力的だけれども、それによって時間が奪われるのならばやりたくないな、と思う。

関連記事


働くの意味

パートナーや家族と幸せになりたい、時間を共有したい、それが自分にとっての幸せの形。けれど、その時間や笑顔の共有もお金がなければ続けていくことはできない。だから、自分にとっての幸せを実現するための手段としてお金を入手するための手段として「働く」が位置しているイメージだと思う。
もちろん、働くことによって先にも述べた人を笑顔にするとか、あたらしいつながりを生むとか、そっちにも興味があるし、そういったことに取り組んでいきたいけれど、それで時間が取られてしまい、パートナーや家族と一緒に過ごして笑顔になれる時間が奪われてしまうのであれば、やりたくはないです。

「なに」をするか、じゃなくて「誰と」するか

これもそうです。正直、自分には分野や業界といった軸での判断基準は無いに等しく、人で選んでいる側面があります。昨年まで行っていた活動もヘルスケアに始まり、飲食や農業、アートなど、分野が様々で自分でもどういう風に説明していけばいいのか一切合切分かっていません。ただ、一つ確かに言えることは誰とやるかがわかっていない事、なんか、この人、人間臭くないな、と思った人とやることには手を付けていないことと、誰とやるか、「誰」がものすごく自分にとって面白い人であればジャンルを問わずに飛び込んでいっているということです。極端に言えば、その人と棺桶まで一緒に行くことができるか、です。僕にとってその「誰」は人間臭い人でないといけないようです。人間臭い、の定義はまだまだ上手に言語化できていませんが、例えで言うならば、「この人とビジネスしたらおもしろい、だけでは留まらずに、例えばこの人とパソコンを置いて行ったりとかして一切ビジネスの話をしないことを前提に一か月旅行しても楽しそうだな、って想えるような人」だと思っています。また、そう思った人には積極的に旅行やご飯に誘うようにしています。(日本にいたころは)
言い換えてみれば、ビジネス系などではないTwitterやブログに載っている様な俗的な価値観も持ち合わせていないといけないよね、といった感じでしょうか。
実際、一緒にやる人たちが違うな、と思ったことが今年に入り一度だけあり、関わっていたお仕事を辞めさせていただく決断もしました。

あとは自分がやりたいかやりたくないかだけ。自分の心があまり燃えないなと思ったら、一旦抜ければいい。一度抜けたらもう失格ということもない。
一時期でも経験したことは、次になにかやるときに絶対活きてくる。そのくらいに考えたらいいと思いますよ。

ボーダレスジャパン代表取締役社長田口さんの言葉。先にあげたNewsPicksの記事より。


山を上り続けるだけじゃいい景色は見えない

自分のようにやっていることを全て手放す、までとは行かずとも、時にはスローダウンしてリラックスすることも大事だと思います。誰が誰が言ったかは忘れてしまいましたが、「山を登り続けるだけじゃいい景色は見えない」という言葉が心に残っています。登山では特に標高が高くなればなるほど酸素も薄くなり、視界が狭まり、登山中は足元とこれから先の登山道だけを見るようになると聞いたことがあります。ふと足を止めて周りを見渡せば自分の知らない美しい世界が無限に広がっているというのに、山を登り続けるだけなのはもったいない、ということのたとえ話なのでしょう。これと同じことがキャリアや働く、といったことにも言えると思っています。自分の成長やキャリアのためにインターンや学生団体にコミットすることも大事ですが、時にはコミット量を減らして周りを見渡して、この登山道で合っているんだろうかとチェックしたり、通ってきた道を確認したり、自分のまだ知らない絶景を愉しむことも大事だと思います。きっと通ってきた道・これから通る予定の道だけが自分の将来ではないと思います。
トヨタの労使協議会で放たれた言葉である、「意志ある踊り場」を設けることが大事だと思いました。足踏みをしているように見えますがそうじゃない、やっていること、これからやろうとしていることを整理する時間も大事だと思います。

実際に自分も山を登ることを辞めて、「意志ある踊り場」を設けることで自分の本当に大事にしている軸(パートナーや家族との時間を大切にしたい・働くことの意味・「誰と」が大事)について考え、気付くことができました。

必然的偶発性

これは1年前くらいから自分自身大切にしている考えの一つですが、必然的偶発性という言葉があります。簡単に言うと、その人にとって人生を変えうる偶然的な出会いは必然によってもたらされる、という理論です。この言葉についても最近考えてみました。意図的に行動することが大事であったとしても、所詮偶然なのです。街中で偶然友達と遭遇する確率は当然外出頻度が高い人の方が高くなりますが、友達と街中で出会いたいということを目的に外出する人はそう多くはないでしょう。それと同じで、コンサルタントになりたいから、と思って行動を起こし、それを必然的偶発性と呼ぶのは少し違うのかな、と思ってしまいます。ゴールを曖昧にしておいて行動することをそう呼ぶことに対し、既に明確なゴールが存在してしまっているように感じるからです。個人的には、人にアドバイスすることが好きなんですよね~くらいが必然的偶発性のゴールにふさわしいと思います。だからこそ、ゴールをクッキリと定めずに柔軟に動くことが大事であり、逆にゴールを定めてそこに向けて一つ一つ階段を上っていきたいのであれば、それは必然的偶発性とは呼ばないのかな、と思います。

僕はキャリアを描いてそのために一つ一つ階段を上っていくことが苦手なので、これからもあいまいな目標を描き続ける必然的偶発性信者でいたいと思っています。こう思うようになった原因はここで書いていると又長くなりそうなので省略します。

生産性の担保

休めば生産性が上がることもアメリカに来て感じたことの一つです。嘘だと思う方、試してみてください!こればかりはペラペラと説明するのではなく試していただけると速攻で効果が分かると思います。
僕の例で言うと、週に2日完璧なオフを作るだけでも自分の体感で明らかに分かるレベルで生産性が向上しました。

おわりに

こんな感じが今の働くことやキャリアに関する価値観かな、と思います。冒頭に重ねてになりますが、あくまで僕はこう思う!ということであって、違う考えの人を否定するわけではありませんし、様々な考えの人が存在しているからこそ、この世の中が成立していると思っています。ただ、一方で、ワーカホリックやワークアズライフとされている人、そう思っている人たちにはその人たちなりの価値観があるとは思いますし、逆にそれは聞いてみたいと思います。しかし、だから休みの日に何をすればいいか分からない、仕事道具を持っていないと落ち着かない、といった考えは少し無理をしているようにも感じられます。(自分がそうだったからかもしれません)いくら仕事が好きだといっても休むことは生産性維持の観点からも大切です。その辺りについても考えていけたらいいな、と思います。

このノートに書いたことは全て2022年4月末の自分の考えであり、今後変わっていくものです。その変化も楽しんで生きたいと思います。

よろしければサポートお願いします! 頂いたお金はnoteの中で使っている写真の撮影機材の購入や編集ソフトのために使わせていただくほか、本の購入に利用させていただきます!