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恐れの気持ちに向き合う事①~迷惑を掛けてはいけない~




「人に迷惑を掛けてはいけない」と、
親や養育者からそう言われて、その影響を受けて、育った方は多くいらっしゃるかもしれません。
私も、両親や祖父母に、そう言われた記憶があります。
ただ私は、両親達からそう言われて、その影響を受けたというよりも、
持って生まれた気質や生育環境の影響を強く受けた事が原因で出来てしまった思い込みが先にあったから、先に出来た受け取り方の癖があったから、人に迷惑を掛けてはいけないと、思い込んだようにも思います。
(自分のせい、思い込んだ自分が悪いという事ではありません。)



私は気質や生育環境の影響で、幼少期から、自己肯定感を育てられずに成長しました。
幼少期、またそれ以降に、残念ながら受けてしまった虐待(体罰・過度な抑圧・制限・禁止等)によって、のびのびと生きる喜びを失いました。
先に出来た思い込みとは、「私は生きていてはいけないんだ」「私は生きる価値がないんだ」というものでした。
虐待の影響や、条件つきの愛情しか与えられなかった為、子供の頃も、それ以降も、
「自分」という存在そのものも、自分の本当の感情もわからなくなりました。
確立した自分がないので、自分を認めようがありませんでした。ありのままの自分がわからず、肯定出来ずに成長して、色々な負の感情を抱えました。
表面的に顔や態度には見せなくても、内側の自分は揺らぎやすく、不安定でした。
「自分は、無力で無価値」
「自分は、生きていてはいけない存在」
幼い時、もしくはもっと過去、または家系的な遺伝や受け継いだ連鎖など、はっきりとはわかりませんが、何らかで心にそういう思い込みを植え付けていたように思います。
幼少期、またそれ以降、虐待や心を傷つける他の理由で、その後の人生に大きな影響を及ぼす事。精神的にも肉体的にも苦痛を与える結果になる事に、言葉にならない憤りと、深い悲しみを、今も、感じます。


実家から出た後、自分の事は「こんな自分」という位置づけで、極端に自分ばかりを認められない、責める自分になりました。そして、
『こんな自分なんだから、「人に迷惑を掛けてはいけない」』と。
両親、妹、祖母、親戚に迷惑を掛けた、こんな自分は、これ以上、人に迷惑を掛けてはいけない、と。そう強く思い込みました。
人に頼る事や、助けてもらう事、人の力を借りる事、誰かから自分に対して何かをしてもらう事は、全部、相手に迷惑を掛ける事だと思っていました。


という事は、人に頼らず、助けてもらわず、何でも自分でやらなければいけない。
こんな自分なんだから、1人でしっかり生きて、しっかりした大人にならなければいけない。
もしも、そんなふうに出来ない、何でもきちんと出来ない自分ならば、生きる価値はない、生きていてはいけない。
1人でしっかり生きる大人にならなければ、私は生きる事が許されない存在だと。
思い込みの上に、更に重ねて思い込みを作りました。


実家を出た直後は、私は誰にも迷惑を掛けない。誰かに頼らなくても自分1人で何でも乗り越えられる、というような謎の自信や、不安定な自分の上に鎧を着せたようにして持っていたプライドもあったように思います。
それに、捨てるようにして実家を出たんだから、私は1人で何でも乗り越えて生きなければいけない、と覚悟した気持ちもありました。


そしてこの自分の心の奥の気持ちは、誰にも見せずに、1人で抱えて生きて行くものだと。
生きていく事は、修行のようで、なんて辛く苦しい事なんだろうと。でも、こんな自分なんだから、仕方のない事だと思っていました。
特に、実家の祖母が亡くなり、その後、介護職に就いてからは、幼少期育ててくれた祖母に、何も恩返し出来なかったという懺悔の気持ちが加わりました。私はそれを抱えて生きよう。
私の命は生涯まわりの人の為に使い、燃え尽きればいい。
私に出来る生き方はそういう生き方だと、本心で思っていました。(昨年向き合いの途中では、辛く、祖母の事は記事にして書く事が出来ませんでした。)


もしも、誰かに迷惑を掛けてしまったと感じたら、感謝より、「私なんか」の為に申し訳ないという気持ちになりました。自分の無力感、無価値感へと繋がりました。
感じたくない気持ちには向き合わず、忙しく自分を動かして、家族の為に家事をして、職場で働く事が、私が生きる事が許される唯一の方法でした。
体調不良時は病院で点滴を打ってもらって、即回復させて、また動く。そうまで無理してやっと、私は生きる事が許される。
私が生きていていい条件・生きる事が許される条件=家族や職場の人に迷惑を掛けない事。
そう思ってしまっていた為に、
自分が体調不良になる事=家族や職場の人に迷惑を掛ける事=自分が生きられなくなる事。になりました。
今思えば、当時の私にとって、体調不良になる事は、違う意味で死活問題でした。
(体調不良→死活問題)ではなく、
(体調不良→人に迷惑を掛ける→死活問題)
本当に、極端な思い込みをしてしまっていたと思います。


そういうふうに命を削るようにして生きながら、
何度も失敗(特に人間関係の破綻)をして、繰り返す度に、自分の無力感や無価値感を痛感し、同じ思い込みを続けました。
まわりに迷惑を掛け続ける私はダメ、無力、生きている価値がない存在。
私は生きていてはいけない存在。
そう感じたくないから、精一杯頑張っているのに、いつも同じ失敗、同じ結果になり、また同じ気持ちになり、落ち込んでしまう。
その事を繰り返す度に、私の心深くの闇のような思い込みが強固なものになり、どうしようもなく生きづらくなりました。

充分頑張っているのに、そういう自分は全く認められず、肯定出来ず、自分を責めました。
他者に対しては全く、一切、そんなふうに思いませんでした。
自分が少々辛い思いをしても、他者の喜ぶ顔は見たい。まわりの人が喜んでくれるなら、私は嬉しい。それも本心で、まわりに対してはとても優しく接する事が出来ました。
まわりの人・物事は大切に愛する気持ちで、大事に思い接しているのに、自分に対してだけ、本当に、厳し過ぎる私でした。自分ならいいと酷使する、過度な自己犠牲でした。
自分が自分に対してだけ、どうしようもない程、差別していました。
本当に、長い年月、自分が偏っていると気づかずに、無意識にそれで良いと、それが良いと思ってそうしていました。


昨年、自分と向き合っている途中で、その事に気づいて、ショックを受けました。
その後は、まずは自分に優しく、自分を愛して、労りねぎらい、自分に感謝の言葉を掛ける。無条件に自分を認めて受け入れる事を、日々しています。
私が気づくまで、内側の私はどれだけ辛く寂しく心を傷つけ1人で居たのか。苦しみながらも1人で待ってくれていたのか。
謝っても謝りきれない程の長い年月、私は気づかずに、そうしてきてしまいました。
今の私は、内側の私自身(私の本音本心)を優しく守って、これからは一生一緒に寄り添い、1番大切に愛して生きていくと決めています。
そうする事が、まわりの人も同じように大切に愛する事に繋がるからです。



②に続きます。
お読み頂き、ありがとうございました。






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