オワリはじまり25 「僕がここまでNoteを投稿し続けている理由」

12月4日、僕は今日がNoteを開設して1年が経ったことを通知で知った。
Noteを開設した当初はミニマリズムや遺品整理について書いていこうと思ったが、結果的には僕の記事の多くは祖母の認知症や介護に関するものとなっている。

ちなみに僕が記事を書くときに意識しているのは1つ。
「真実を嘘偽りなく書くこと」である。

本当は祖母の介護や認知症について面白おかしく書いたり、
映画みたいに物事をハッピーエンドで終わらしたり、
Noteでお金を稼ぐためにいいねやコメント、PV数を上げるために
読みやすく、かつバズる記事を書きたいと思ったこともあった。

ただ、それは僕が求めているNoteの使い方ではなかった。
これまで投稿した記事の中で僕はNoteを「備忘録」という言葉をよく書いてきた。

「認知症介護の経験を忘れたくない」
「この経験を誰かのために活かしたい」

という気持ちが僕が記事を書く上でのモチベーションとなっているのだが、
僕をこの気持ちにさせる、ある経験と出来事について今日はカミングアウトしようと思う。その経験は僕の人生を変えるターニングポイントの1つである。

実は僕、小学5年生の途中から中学2年生の途中まで学校に行ったりいけなかったりの日々を過ごしていた。そう、世間一般でいう「不登校」だった。

不登校になった理由は今でもわからない。
友達は多い方だったし、イジメを受けていたわけでもなかった。
小学5年生の夏休み明けからなぜか学校に行きたくなくなったことを覚えている。

その期間、僕は色々な人に迷惑をかけた。
両親はもちろん、当時はもちろん認知症ではなかった元気だった頃の祖母にも迷惑をかけた。

その経験から数年経った大学2年生のとき
僕は不登校だった経験を現在困っている人のために活用したいという一心で山口県のフリースクールでボランティアで英語を教えたり、元当事者として山口県や福岡県で不登校の子どもを持つ家族の話を話を聞いたり、アドバイスをすることになった。

経験してしまったのはしょうがない、せっかくならこの経験を現在困っている誰かのために

この言葉と共に、僕は不登校の人を助けたいと思ったのだが、
不登校の子どもを持つ家族との会話中にあることに気づく。

「あれ、当時の自分ってその状況の時何を思っていたんだっけ?」

家族からの質問では、
「〇〇さんはなんで学校に行けなくなったんですか?」
「学校を休んだ日はどのように1日を過ごしていたのですか?」
「〇〇さんはどのように学校に行けるようになったのですか?」

などの僕がなぜ不登校になり、何を理由に学校に行くことになったのかというプロセスを聞かれることがあり、その質問に対して答えるのは簡単だった。

しかしその一方で、

「〇〇さんのご両親が〇〇さんを学校に行かせようと行動した時、〇〇さんはどんな気持ちになりましたか?」

など、僕が特定の状況下にいる時にどんな気持ちになったのか、などの質問については残念ながら答えることができなかった。

「きっと僕の脳は不登校の経験・思い出を早く忘れたかったんだな。」
「そうだよな、あの頃はただただ辛かったもんな。」
「あの時は辛かったかもしれないけど、日記ぐらい残しておけばよかったな。」

そんな質問タイム以来、僕はずっとこんなことを考えていた。

その経験から数年後、祖母の介護が突然始まった。
約4年間続いた不登校だった日々に比べ、結果的に1年半で終わった在宅での祖母の介護の経験だが、それは不登校の経験の比にならないほど辛いものだった。

「このままだと不登校の頃の記憶同様、介護の記憶も忘れていってしまう。」
「今回こそは、絶対に忘れないように備忘録として何かに残そう。」

そう思い書き始めた「認知症介護日記」や在宅介護が終わったタイミングで書き始めた「オワリはじまり」にて認知症という病の真実を書き残すことで、僕は僕のアカウントが存在し続ける限り、いつでもその頃の記憶や感情を思い出すことができるのだ。

この経験を誰かのために活かしたいという一心で、今後も引き続き認知症について記事を書いたり、将来何かに活かしていくためにこれからも努力いきたい。

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