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私たちは幸せになりたかった

冬には雪に凍える、田舎の小さな町に、私たちは生まれ育った。

二十歳を超えて、たまたまネットで知り合った私たちは、あの小さな町でそれぞれ別の学校に通っていたせいで、ずっと互いのことを知らずに大人になり、わざわざ池袋なんていう、故郷の町とはえらく離れた大都会で、初めてリアルに会ったのだった。

子どもの頃はビール瓶がおもちゃ代わりだったという彼女と、母親とうまくいかずに一緒に暮らすのを諦めた私。互いに帰ることの叶う「家」は無く、自力で生きてゆくしか無かった。とくだん学の無い私たちは、時には食べることにもやっとなほど追い詰められもしたけれど、お互いどうにかして小銭を稼ぎ、東京の片隅でひっそりと呼吸をしていた。

私たちは共に、軽くは無いメンタルの病を抱え、時々死にたくなりながら、濃いつけまつげを熱心にまぶたに重ねていた。2019年、とうとう原宿からリズリサのお店が無くなるそうだけれど、あの頃の私たちはとにかくリズリサを愛していた。帰る場所の無い二人は、薔薇柄の乙女ちっくなリズリサのお洋服に惹かれた。なぜだったのだろう。けれども「お姫様」になりたかった気はする。あの頃「小悪魔ageha」を広げたらば、お金持ちの女の子達は皆、お姫様みたいに輝いていたものだ。

死にたくなっても、私たちは生きたかった。好きな人に心底愛され、毎日華やかなお洋服を着、食べるのに苦労しないほどのお金を得て、大都会の片隅で幸せを享受して生きることを望んでいた。

何故なら、私たちはあまりに不遇な子ども時代を過ごしたのだ。大人になって幸せに暮らすのが、本当の望みであるはずだった。死んでしまっては、何も叶わない。ずっとずっと不幸せな儘死んでゆくしかないなんて、私たちには残酷すぎる。

それをきっと、私たちは無意識に感じていたのだ。自らのなかに小さく灯る、生への執着を。幸せへの、執着を。

だから私たちは死なずに済んだ。気づくと彼女は、当時の恋人(だと、彼女は言っていたけれど、その発言にはいささか疑問も残ったのも事実だ、)との間に子どもが出来た。男は認知をしなかったらしい。彼女は行政を頼りつつ、母子寮なんかを転々とし、やがて私たちの生まれたあの町へ帰りたいとぼやくようになった。

彼女は東京の行政と話をつけ、私たちの故郷の隣街に、どうにか家を借りられたようだった。それ以来、ゆっくりと時間を掛けて、私たちは疎遠になっていった。嫌いになったとかそういう類の離れ方ではなく、物理的な距離が心の距離をも離していった、というのが正しいように思う。

母となった彼女は、雪に埋もれるあの故郷に、何を求めたのだろう。誰も頼れずに育児をせねばならない寂しさが、郷愁と重なったのだろうか。本当なら幸せに子ども時代を過ごすべき場所だった、あの町への郷愁と。


私の好きなバンドマンが、歌舞伎町でライヴをする。それを観に行く度、私は新宿の摩天楼を目の当たりにする。神々しいほどの灯り。雪なぞめったに降らない、乾いた街。けれども私は、ここに居ると安心するのだ。東京は、異邦人たちに優しい。どんな過去を持っていようと、ビルの灯りが照らしてくれる。寂しくなれば繁華街に出れば、いつでも人が溢れている。我を忘れるほど酔った人の楽しそうな奇声。同じく寂しいであろう人が、お金で買った相手の腕を離すまいと掴む姿。大丈夫、皆、寂しいけれども生きている。


最後に電話した日、彼女は、共通の知人だった同い年の女の子の死を教えてくれた。本当かすらわからない。彼女は既にその頃「太りすぎて強制入院させられた。その間、子どもは児相。」と話していた。入院が真実だとして、太りすぎ、はきっと理由として正しくないだろう。彼女にはたぶん、現実と空想の判断がつかない部分があった。恐らく、精神を蝕んだそれを理由に、彼女はあちらの行政によって入院させられていたのだ。

生きてさえいてくれればいい、と思う。もうきっと二度と連絡の取れないであろう、私の友達。携帯電話すら自分では契約出来ず、他人の名義でひっそりと古いガラケーを持っていた。そこまで追い詰められても、生きることに必死だった、そんなあのコ。

でももし「輪廻転生」というものがあるのなら、今度こそお互い、あたたかな家庭で何不自由なく生きられたらいいね。まったく普通の女の子みたいに、両親に愛されて、明日の心配なぞ、ひとつもせずに。




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