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「クシュナーに顔が似ている」と他人に言うのは失礼?

ジャレッド・クシュナーという名前を聞いて顔が思い浮かぶだろうか。アメリカのトランプ前大統領の娘、イヴァンカ・トランプ氏の夫であり、要するにトランプ前大統領の娘婿にあたる人物だ。

彼の容姿を簡単に言えば、長身で端正な顔立ち、年齢も40代前半とまだ若い。

私はアメリカに住んでいるが、とある週末、同僚との飲み会の席である共通の友人の話題になった。そこでその共通の友人について私は「そういえば前から思ってたんだけど、○○ってジャレッド・クシュナーに顔似ているよね?」と発言した。

すると隣にいた同僚は、私の発言を聞いてホラー映画でも観たような表情をしている。そして、「そんなこと言うのはひどい。すごい意地悪だよ。」と言ってきた。
「え、なんで?」と反応する私に、その同僚は、
「人のことをヒトラーに似てるって言っちゃいけないでしょ?」
「……」
ここで私は理解した。また、あれか、と。

ポリティカル・コレクトネス

あれ、とはつまり、近年のアメリカで保守と革新を分断している「ポリティカル・コレクトネス」である。

辞書によれば、ポリティカル・コレクトネス(略してポリコレ)とは「政治的妥当性」、「人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない、中立的な表現や用語を用いること」とされている。

つまり人種や宗教、性別などの個人が持つアイデンティティについて偏見・差別をなくし、社会のなかでより寛容に多様性を認めていく手段として、発言や表現方法に気をつけていこうとする動きだ。

わかりやすい例を挙げよう。そう遠くない昔、飛行機の客室乗務員はスチュワーデスと呼ばれていたが、これは女性蔑視的な言葉として、より性中立的なキャビンアテンダント、CA、日本では客室乗務員と呼ばれるようになった。黒人はブラックではなく、アフリカン・アメリカン。これらはかなり社会に浸透し、一般的になってきている例だ。

しかし政治の分極化が進み、保守と革新の分断が深刻化している現在のアメリカでは、このポリコレ自体が大きな政争の具となり、社会の分断をさらに深めている。

大まかにいえば、政治左派、進歩・革新主義、リベラル、プログレッシブと言われる人たちは、社会の多様性を認めようとするこのポリコレの広がりを支持する。一方、政治右派、保守主義、コンサバの勢力はこうしたリベラルがもたらそうとする変化に反発する。分断が深まれば深まるほど、ポリコレの動き、それに対する反発も激化し、さらに分断が深まるという悪循環である。

英文法を変えてまで…

極端なポリコレの動きをいくつか紹介しよう。

まず近年、進歩・革新主義者のなかで、She やHe という三人称の代わりに、Theyを使おうとする流れがある。それは対象が単数であっても、だ。

私たちが中学で教わったのは、

She eats apples. 彼女はりんごを食べる。
She loves oranges. 彼女はオレンジが大好きだ。

といったように、三人称単数が主語となる場合は、動詞の後にSがつくという英文法のルール。しかし最近では、たとえその三人称が単数であっても、勝手に性別を決めつけHe やSheとラベリングするのではなく、Theyを用いるべきであり、ただしTheyの示す対象は変わらず単数なので動詞の後のSは残すべきだという主張がある。つまり、こうなるのだ。

「アンジェラはりんごを食べる。彼女はオレンジも大好きだ。」という表現ならば、
”Angella
 eats apples. She also loves oranges.”という従来の英文法の表現ではなく、
Angella eats apples. They also loves oranges.”
と書くべきだという。ここでもちろんTheyはAngellaを指す。そしてこの理由は、Angella が自分の性別をどう認識しているかわからず、He かSheかわからないから、というのだ。

私が個人的に「いきすぎ」と感じた例は他にもある。

たとえば、私のとあるアメリカ人の友人は30代後半か40代前半の女性で、当時3歳の息子がいた。彼女がある日私に真剣に話してくれたのは、自分の息子に彼が男の子であるということを伝えるか迷っているということ。

これには私もびっくりした。

一瞬意味がわからなかった。

生物的に男だということを親として伝えるべきかどうか迷っているというのだ。理由はもちろん、彼の意思を尊重し、彼自身に性的な自認を持たせたいから。

このような進歩・革新主義の議論を「いきすぎ」と感じ、ついていけないと嘆く人はアメリカにももちろん多くいる。そして保守勢力はこれを進歩・革新主義を批判する政争の具とする。保守と革新の分断はさらに深まる。

「クシュナー≒ヒトラー」という論理の展開


冒頭の話に戻ろう。

今回、私が友人の容姿がクシュナーに近いと言ったことは、ヒトラーに似ていると言うのと同じくらい「ひどい」とする同僚の認識はおそらくこうだろう。

1.クシュナーはトランプ政権の中枢にいた人物だ。
2.トランプ大統領は女性蔑視主義であり、白人至上主義であり、政策も反移民であった。
3.こうした人種差別的な政策は、ヒトラーと共通するものがある。
4.よってクシュナーに顔が似ていると言うのは、ヒトラーに似ていると言うのと同じである。
5.ユダヤ人大虐殺などの暗い歴史からも、誰かをヒトラーに似ているとは断じて言ってはいけないことであり、よってクシュナーに似ていると言うのも断じていけない。
(*これはあくまでも彼の思考回路を私が推し量ったもの。内容が正しいかどうかは横に置いておいてほしい。*)

これに対し私は、クシュナーはヒトラーではないし、クシュナーの顔に似ているかどうかはトランプ政権の政策とは全く関係ないと反論を試みたが、結局その飲み会にいた周りの同僚たちも私の味方はしてくれなかった。おそらく私の味方をすることはポリコレではないからだ。

理解ができないという顔をしている私に、周りの同僚たちは「クシュナーの顔はパンチを喰らわせたくなるような顔だしな。」と笑って言った。

一切フォローになっていない。

「パンチを喰らわせたいかどうか」は個人の主観の問題だ。

それは「パンチを喰らわせたい人・A」と「喰らわせられる人・B」の間柄で成り立っている話であり、たとえある第三者・Cが偶然Bに容姿が似ていても、Aが自動的にCに「パンチを喰らわせたい」と思うわけではないだろう。もしそうだったらAによほどの問題がある。それこそ容姿差別である。

しかし何を言っても無駄だと言うことを私はそこで察した。

トランプを支持しない多くのアメリカ人、そして民主党派、左派、進歩・革新派の人々にとって、トランプ政権に関わっている人たち全ては憎む対象であり、その誰に顔が似ていると言っても、それはヒトラーに例えているほど失礼、なのである。そうしたアメリカの分断された政治的な空気のなかで、私が何を言っても仕方ない。クシュナーに似ていると言ったこと自体、ポリコレではないのである。

クシュナーがどんなに端正な顔立ちをしていても、 だ。

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