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「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由(ワケ) を読んでみた。

Amazonの「あなたへのおすすめ」で「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由(ワケ)でてきたので購入して読んでみた(Kindle版)出版されてからもう3年半も経過しているんですか…つい先日書店で目にして「買おうか買うまいか」を悩んでいたような気がするんですが…

「進む方向性は間違っていなかったけれど、進むべき場所は間違っていたんじゃないか」って思えてしまうこれまでの仕事人生。客観的な立場になって自分が置かれていた状況を分析して見れば「進むべき場所は間違っていなかったから、進む方向性は正しかった」と言えるのかもしれない。

けれど、「自分が取り組んできたことに対して(取り組まざるを得なかったことに対して)把握をしている(よくわかっている、経験のある、知識のある、判断のできる)人がいなかったから、ほぼ全てのことに対して1人でやらざるを得なかった。相談をできる人がいなかった」現実がある。…自分でそう思い込むことで面倒くさいことに関わらないようにしてきただけなのかもしれないけれど、「相談をしようにも回答がでない→どうしていいのかわからないから答えを出せない」状態では…自ずと相談も普通の会話もしなくなっていくもの。これは私だけに限ったことじゃない。誰にでも言えることではないだろうか。

それでも会話をすることは必要なことだったと思う。会話をしないことが「相談しづらさ」を生み「回答のしにくさ」を生んでしまった感は否めないから。

「自分が取り組んできたことに対して(取り組まざるを得なかったことに対して)把握をしている(よくわかっている、経験のある、知識のある、判断のできる)人がいなかった」状態を利用して「生きる糧」を得てきたことの代償。「何かを得ることは、何かを失うこと」なんだから、そうやって自分を追い込む結果になってしまったのは「自業自得」「自己責任」「自助が足りない」ってことなんだろうか。

激務というほどの労働時間は費やしていない。そんな人間が「職場の苦しさ」を訴えては駄目だと思う自分がいる。でも、苦しいものは苦しいわけで。それでも苦しさを吐き出しては駄目なんだろうか。

「自分の身体や心がおかしくなったとしても」

ずっと1人でやって1人で完結していて1人で…という状態で、「貴方がいなければ回らないことが増えたんだから」なんてことを言われて「俺がやらねば誰がやる」なんて圧をかけられているような気がして、こんなことが「当たり前に」なってしまっている状態。こんなことを当たり前にしてはいけない。「当たり前にしてはいけないことを、当たり前にしてしまう」ことで人は自分が追い込んでしまう。

>理不尽な仕打ちを受け入れると、相手はどんどんつけあがる

そんな一文が「死ぬ辞め」にあった。つけあがっているとはいわない。多分、「貴方がいなければ…」とは本音なんだろうし信用されていることの証なのかもしれない。いや、多分ではなく、間違いなくそうだと思う。けれど、私はそうは思えないのは、「それだけの扱いを受け続けてきたから」なんだと思う。こんなことを考えてしまう自分自身が情けないし悲しいけれど、それが事実なんじゃないだろうか。「今の自分が置かれている状態の」

「死ぬ辞め」の「自分の身は自分で守る」章のおかんの言葉には「ドキッ」とさせられた。

当たり前のことを言っているだけなんだけれど、改めて突きつけられると…

・会社の指示通りに仕事をした結果身体が不自由になって会社は責任もとらんとクビにしてでも身体不自由やし次の仕事も決まらなくて

・自分の身体がおかしくなってるかもって思ったら我慢したらあかん

・会社はいちいちあんたが本当に大丈夫かなんて考えてくれへんよ自分で注意しとかんと

それであんたがほんまにおかしくなっても自分で気をつけなかったのが悪いって言われて終わりなんよ

・全部我慢して身体壊して仕事しても誰も感謝してくれへんし責任もとってくれないんよ

「当たり前にしてはいけないことを当たり前にしてしまう」ことで身動きが取れなくなり(〇〇にくさ、〇〇づらさが生まれる)自分を追い込むことになる…世界は1つだけじゃないのに。人間はそんな風になりがちだってことが当たり前のように認識される世の中になればいいのに。

読了後、そんなことを改めて感じました。

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