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「えも言えぬエモさ」って、めっちゃ嫌味

私は、いつスマホがこの世に出てきたか知らない。親がガラケーを使っていたのは知っているけど、今はスマホを使っているし、私もスマホを使っている。スマホを手にしていなければ、知らなかったことも、できなかったこともたくさんある。きっとこれからもそうだ。そういう世代だ。

でも、たまに、私はスマホがない世界に生まれていたらなと思う。スマホがない世界というのは、スマホが現れる前の、過去の事を言っている。

スマホが現れない世界線は無いと思う。私は「スマホの前にガラケーがあった」ということを知っているから、「ガラケーの次はスマホしかないでしょ」と思うわけであるが、どんな世界線でも、結局、人類はスマホのようなものを必要としてしまうのではないかということだ。

もし、今、世界がガラケーで止まっていて、「ガラケーが無い時代を生きたい」と思ったなら、私は、同じように「○○の次はガラケーしかないから、いずれガラケーも発明されるだろう」と思い、ガラケーが現れない世界線は無い」と言うだろう。だから、スマホがいずれ現れるのは前提として、その前の過去の時代を生きたいのだ。

※ガラケーの前は知りません。ポケベル?

これを繰り返して、私は今現在、「会えない恋人と連絡をとる手段として、手紙か家の固定電話(黒電話?)しか選択肢がない時代を生きたかった」と思っている。

実は、こういった「スマホが発明される前の時代に生まれたかった」風のコメントを、YouTubeで(何の動画か忘れたが)何回か読んだことがある。

何を求めているのだろう」と思う。

(私は恋愛のプロフェッショナルではないが)恋愛に限って言えば、私は、愛を求めているのだと思う。今ではLINEで愛の告白をすることが珍しいことではなく、靴箱に「放課後、体育館裏で待ってます」なんて書かれた手紙が入っていることはない。手書きの文字ではなく、同じフォントの文字で伝える、伝えられる愛はどこか冷たく感じる。

※「放課後、体育館裏で待つ」系の告白の元ネタって何なのでしょうか?来ないかもしれない相手を信じて待つ、ってなんか良いですよね。LINEだと、「私のメッセージだけ未読してるの?」もしくは「告白を既読スルーするなんて最低」のどちらかで、「信じて待つ」行為なんて存在しません。あくまで偏見です。

だから、スマホが無ければ、熱く、愛が伝えられると思っている。実に浅はかである。

「スマホがあればすぐに相手に伝えられる愛だけど、スマホが無い時代だから、どうにかして、なんとか機会を狙って、相手に愛を伝えないといけないのだけれど、焦ってしまい、どうすればいいのか分からないからもどかしいんだよね、スマホがあったらすぐに伝えられるのにさ、それが今を生きる私達にとってエモいよね」と言っているのと同じである。

スマホが無ければエモいの?

ジェネレーションギャップ」という、大人が私に向けるその言葉が嫌みったらしく聞こえるように、私の「エモい」という言葉は、大人にとって、嫌みったらしく聞こえるのだろう。

告白手段について、スマホがある時代とない時代を比べて考えたが、そもそも、直接相手に告白すれば何も問題はないのだ。

2021年まで、あと271日。

いつも最後まで読んでいただきありがとうございます。また明日お会いしましょう。

雑費として使わさせていただきます。何に使ったかを記事のネタにするかもしれません。