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【旅記】 チェルノブイリへ行く前に

今から遡ること38年前、世は東西冷戦真っ只中。ウクライナ・キエフ州のチェルノブイリ原子力発電所で爆発事故が起きた。
※この後の記載内容に相違点がございましたら、是非ご指摘をお願い申し上げます。大歓迎でございます。

なぜ事故が起きたのか

1986年4月26日午前1時23分、チェルノブイリ原子力発電所4号炉にて、緊急時に冷却水を供給するポンプが停止した場合、タービンの惰性回転を利用してポンプを動かすことができるか検証する試験が行われていた。

その試験の最中、原子炉内の熱出力が急上昇し、原子炉が爆発することになった。その原因は、低出力での制御が効かなかったことである。

チェルノブイリの4号炉は、ソビエトが独自で開発したRBMK型原子炉で、当時の最新型で他の原子炉に比べて大きい構造となっている。

そのため、出力低下を制御できず加速していき、原子炉が停止寸前まで下がってしまった。原子炉が停止してしまうと、完全に再稼働するには約3日間を要するため、莫大な損失が生じてしまう。

この損失を何としてでも防ごうと、試験を実行できる数値まで熱出力を上昇させるため、多くの制御棒を引き抜いた。これで熱出力は再び上昇し、試験を開始できるまで回復したものの、今度は制御棒を一気に引き抜いたがために、原子炉内では核分裂が活発になり熱出力が急上昇し、慌てて職員が緊急停止ボタンを押してしまった。

ここの原子炉は緊急停止をすると、一時的に熱出力が急上昇する仕組みになっており、これが引き金になり原子炉が大爆発を起こしてしまった。

その瞬間、大量の放射線が大気中に放出され、辺り一帯が間もなく大気汚染されていった。原発職員は勿論、この周辺の市民も被爆者となった。

当初は隠蔽しようとしていたのか

市民が避難を始めたのは翌日の昼頃で、さらに身分証と必要なものと3日分の食料を持って避難するようにと、事故についての詳細は知らされなかった。この知らせが届いたのは、原発職員が暮らすプリピャチ市だけだった。

それから事故の1週間後に、原発30km圏内の地域はようやく避難を開始した。政府は当初、チェルノブイリで事故が起きたことだけを発表し、原子炉が爆発した事実については一切声明を出さなかった。

しかし、事故の2日後に事態が一変する。スウェーデンのフォッシュマルク原子力発電所で、職員がいつものように放射線を測定していたところ、職員の靴から高い数値が検知された。

近くのオスカシュハムン原子力発電所に問い合わせるも、問題はなかった。ここの原子炉を調べても、放射線が漏洩している形跡はない。高い放射線量が検知して少し時間が経った頃、隣国のフィンランドからも高い放射線量が検知された。

この一つの疑いとして、この日ここ一帯は雨が降っており、他の地域から風や雨によって放射線が運ばれてきたのではないかと推測した。そして、スウェーデン気象庁が過去数日の気象データから、ウクライナやベラルーシが発生源だと分かった。

スウェーデン当局は、高い放射線量が検知された事実を報道し、その後ソビエト最高指導者ミハイル・ゴルバチョフが正式にチェルノブイリ原子力発電所の4号炉が爆発した事実を発表した。

石棺とその後

事故が起きた直後、炉の中心部では燃料が黒鉛に溶けて、火が燃え続け放射線が放出され続けていた。当局はソビエトの名の下に作業員を半ば強制的に召集し、消火活動のために簡易的な鉛の防護服を纏い、目には見えない放射線が飛び交う中に身を投じた。当然すぐに被爆し、後日多くの作業員は被曝の影響で死亡したとされている。

このような状況の中で、ヘリコプターで上空から砂を蒔いて消火させる意向を決定し、結果的に事故が起きて10日後に消火を終えることになる。

その約半年後、爆発が起きた4号炉をコンクリートで覆う通称「石棺」を建設した。しかし、21世紀に入り徐々に石棺は崩れ始め、再び放射線が漏れだそうとしていた。

そこで石棺全体を覆うシェルターを建設することになった。総工費15億ユーロを欧州復興開発銀行が45カ国から集めた後援金によって賄われ2019年7月に完成した。

今尚復興作業は続く

チェルノブイリ原子力発電所から30km圏内には誰も人が住める状況ではなく、鬱蒼としたゴーストタウンになっている。しかしながら、100km圏内には戻って暮らす人々もいるのも事実。

そして、原子炉自体は既に稼働はしていないものの、安全管理のために作業員達は働き続けている。その証拠に、原子力発電所に隣接する駅があり、職員を送り届けるために電車が運転している。

また、復興都市スラブチチは事故から避難した人々が暮らしている。この街は事故発生から2年後に完成し、その再建の早さは福島復興の鍵と言われた。その理由として、ロシアをはじめとした8カ国の国々が建設に乗り出したことが挙げられる。

今では、市場で自由に食料が売買されるほど復興都市として生き続けている。さらに、政府は定期的に無料で健康診断している。

だが、元々の街に人々が戻って完全に暮らすことができるようになるには数百年かかると言われている。果てしのない数字だ。4年前もチェルノブイリ原発から30km圏内の森林で火災が発生し、放射線の上昇が危惧されたばかりである。

まだまだ語りきれない部分もあるが、現時点で私が把握している内容である。これを踏まえて、5年前の2019年。コロナもまだ存在しない世界で、私は何かに追われるようにウクライナや東欧あたりで旅をした。訪問先の一つに、もちろんチェルノブイリ、はたまたプリピャチもあった。当時まだ22歳くらいの拙い私はその時の感覚をそのまま投影することができた。その様子はまたの機会にお届けできればと。

一旦、こちらで失礼致します。

参考資料


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