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中高生のための哲学対話 「年上の人を 敬わなくてはダメですか?」

中高生のための哲学対話
年上の人を 敬わなくてはダメですか?

2020.02.01 開催

 飯山図書館(飯山総合学習センター)にファシリテーターとして呼んで頂き、2020年02月01日に「中高生のための哲学対話」を行いました。5名程の参加者が集まりました、その中には将来学校の教員になりたいと考えられている方もいらっしゃいました。
 今まで、哲学対話のレポートをなるべく早く公開できるようにしてきました。けれども、このレポートは今までで一番書くことが難しく、うまく書けないまま箇条書き状態になり、公開させる事ができずにいました。悩んだ末、次のように記述することにしました。
灰色の枠は、参加者による発言内容です。それ以外は杉原の文です。


 最初は、参加者にとって「年上の人を敬う」ということの身近な例が上がって来ました。なかでも「敬語」についての話題が多く展開されましたように思います。

学校の中で「先輩方を敬う、年上の方を敬うということが当たり前だ」ということが躾けらる。
小学校の時には、学年が上の人とも「〇〇ちゃん」や「〇〇君」と呼び「おはよう」とやり取りしていた関係が、中学校に入ると自然と「〇〇さん」に変わり、「おはよう」ではなく「おはようございます」になる。

「敬語を使う」ことと「敬う」ということは同じなのでしょうか?

尊敬できないと思う人にも敬語は使う。「年上には敬語」が暗黙の了解。
敬語を使っていなくても、敬っている気持ちがある場合だってある。後輩と先輩の関係にある子同士が、タメ口のような口調でふざけ合っていても、いざ試合の時には「あの人は凄いなぁ」と尊敬していた。

言葉の上では「敬う・語=敬語」のように思われるのですが、参加者の意見によって、新しい疑問が浮かび上がって来ます。
敬語を使っているからといって敬っている訳ではない、ということや、敬語を使っていなくても敬っている気持ちがあるとしたら、そもそも敬語って一体何なんでしょうか?

お父さんお母さんに接するような口調で先生に接して怒られた事がある。その時、「先生には敬語を使いなさい」と厳しくい口調で言われた。

「敬語でなければ先生と生徒の関係は成立しないのだろうか?」と質問を投げかけて見ました。次のような意見がありました。

小学校の頃は先生と距離感が近くて生徒はタメ口で話してたようなところもあったと思う。タメ口だから先生と生徒の関係が成立しないとか、タメ口だから授業が進まないということは無いと思う。
敬語が無くても、成立はするのではないか。タメ口だからこそより親密にコミュニケーションを取れるという利点もあると思う。タメ口だからと言って相手を卑下するようなことにはならないと思う。

「敬語」が必ずしも「相手を敬う気持ち」に直結しないことや、「敬語」でなくても先生と生徒の関係や授業が成立したりするとするならば、「敬語」は必要のないものなのでしょうか。
そして「敬語」は表現上の問題なのでしょうか?もしそうだとしたら、そうした「表現」と「心の中の気持ち」はどういう関係性にあるのか気になるところです。
「敬う」ということはそもそもどういうことで「敬語」というのは一体何なのでしょうか?

対話は続きます。

親しい友人間で敬語だと逆に不自然だ。
仲が良いのは良いことだし、仲が良ければタメ口になるということも理解はできる。先輩が後輩を気遣ったり、距離を縮めるために、タメ口に近いやりとりをすることもあるだろう。 
タメ口かもしれないけれども、それでも「親しき仲にも礼儀あり」ではないか。礼儀を挟むことは大切だ。やはり、区切りをつけなければならないと思う。
その区切りは(敬語を抜きにしてなら)一体どこでどうつけるのだろうか?
「親しき仲にも礼儀あり」は日本の文化なのかなと思う。英語には丁寧語はあるが、尊敬語がない。それでも英語圏では文化として成り立っている。
けれども日本には尊敬語がある。そもそも、どうしてそういう尊敬語があるのか、ということを考えてみなければ。

親しき仲にも礼儀ありとは日本人同士だけに言えることなのでしょうか。

海外の人との間でも、「親しき中にも礼儀あり」は言える。それでもやはり、丁寧語は使うべきだと思う。(ファシリの質問に対する応答)

この発言では、礼儀が重要であり、そして、その礼儀は、何らかの「区切り」であるとの表現を持って語られたように思います。
「区切り」をどうつけるのか、という点において敬語の必要性が示唆されたようにも思います。
礼儀が、人間関係において「区切るもの」として表現されたことも非常に興味深いと思いました。「区切る」とは漢字の意味合いから言えば、「区分けして・切る」ものはないでしょうか。
また、日本語に特有の言語の在り方から「文化」としての指摘もあったと思います。しかし、ここでは、当たり前の文化になっていることさえ「何故?/それ自体何なのか?」という哲学的な吟味の対象としたいところです。

さて「区切り」とは一体何でしょうか?

先輩として部活の運営など責任を負っている立場上、後輩と一線を置く必要がある。ここまでは大丈夫だけれど、これ以上は、少し深入りし過ぎではないか、という部分はある。(ファシリの質問に対する応答)

その「一線」とは何なのでしょうか。
「役割」という新しいキーワードも出てきました。

例えば、両親が親としての「役割」を果たさなければならないので、子に対して「一線」を引いているということはあるのでしょうか?

親は自分たちとは違ってお金を稼いで家庭を成り立たせている。自分は、育ててもらっている側であり受け身の側だ。そのような両親の仕事のことについては、子は言える立場にはない。両親が負っている責任を自分が代わりに持つ事はできないので、踏み入れられないところがある。(ファシリの質問に対する応答)

礼儀から「区切り」や「一線」という表現が生じてきました。

「礼儀」は、年上と年下の関係による「役割」によって生じるものなのでしょうか。それとも年齢や役割に関係ないものだと考えられるでしょうか。

部活で1年遅れて入って来た先輩はどうなるのだろう?
先輩後輩に関係なく「大切にする・仲良くしたい」との意味合いで敬語を使おうかなと思う。先輩で後から部活に入ってきた人は、その部活では経験を積んでないかもしれないけれど、他の分野では、私たちよりも経験を積んでいるかもしれない。その部活だけで、その人を判断できない。

「敬う」ということと「経験値」の関係について考えてみたいと思いました。

小学校からバスケを継続している子と中学校から始めた子が、バスケ部に混じっていた。自分は中学校からバスケを始めたけれど、1学年下の子は小学校からバスケをやっていた。経験してきた年数は年下の子の方があったが、そうした経験値に関係なく先生から指導を受けていた。経験年数によらず、また上手い下手に関係なく一プレーヤーとして指導を受けるという事が、一プレーヤーとして敬われていたということに繋がるのではないか。

その逆のケースもあるようです。

陸上などタイムで優劣がつく世界もある。数字とか経験年数が基準になることもある。本当はもっと、その人がどう努力してきたかなど、総合的に評価してほしいなとも思う。
目的とすることが違うとどういう人を起用するか変わってくるのかな。評価基準が変わるのかなと思う。

「総合的に人を評価する」とはどういうことなのでしょうか。
そこから「評価」という話題へ少しシフトして行きます。

通知表では、テストの点数だけではなく、聞いたり学ぶ姿勢含めて総合的に見られていると感じる。
生徒によって態度が変わる先生もいる。
通知表でも、一人の先生が一人の生徒を見て判断するのと、複数の先生が見て判断するのとでは評価が変わってくると思う。評価の仕方が評価する人によって変わってくると思う。そういう評価基準はどういう風に決められているのだろうかと思う。

「総合的に人を評価する」ということが「敬う」ということなのでしょうか?

「評価」と「敬う」との関係性はどのようなものなのでしょうか。

「敬う」ことと「評価」の関係性がどうあるのか、あまりしっくりこない。
どちらかというと年齢や実力などに関係なく平等に人を扱う事が「敬う」ことに近い気がする。 
バスケの話題で出てきたように、年上・年下とか、外国人とか、親しいとか親しくないとか、そういうことに関係なく、一プレーヤーとして平等に扱ってくれるということの方が、「敬う」ということに近い気がする。
それをスポーツの話だけではないものとして考えて、「人を人として平等に扱う事」が人を「敬う」事なんじゃないかと思う。

この意見を受けて、次のような率直な意見が出されました。

(反論)
人を人として平等に扱う事が人を「敬う事」だと言われたけれども、人に迷惑をかける人のことも敬うべきなのでしょうか?やってはいけないことをやっている人も実際にはいる。そういう人を私は敬いたくない。そういう人たちに対して敬うことの必要性をあまり感じない。それをどう考えますか?
(反論に対する応答)
「人と人を平等に扱う事」が「敬う」事なんじゃないかという意見は変わらないが、「敬う・敬まわない」のは個人の自由だと思う。逆にどうして人に迷惑をかけたり、人を殺したりする人を敬いたくないのでしょうか?
やってはいけないことをやっている人からも学べる事があったりする。その人から学べる事があるならば「敬える」かなと思う。NHKの「ねほりんぱほりん」という番組で元ヤクザや詐欺師など、色々な経歴を持った人が出演される。そういう人たちの話はすごく興味深い。そのような話から、いっぱい学べるのは大切だと思う。過去にやったことはいけないけど、もしかたら、今は更生して良い人なのかもしれないと感じる。例えば、過去に詐欺を行っていた人が、みんなが詐欺にかからないようにと、話していたりする。彼らが更生しているように思えるので、彼らの話を聞いて学べたり、尊敬したりできるのかな。
今現在に犯罪組織に入っている人だったら、ちょっと尊敬することは難しいかもしれない。

時間も丁度半ばに差し掛かった頃だったでしょうか。参加者の皆さんがどういう意味で「敬う」という言葉を使っているのか再確認してみることにしました。
そこでは「敬う」という言葉を、何らかの点で自分より優れていると思える時に尊敬する意味で使う、と考えられている方が多数でした。
違う意見としては次のようなものです。

優れているとかだけではなくて、元犯罪者とからの話でも、この人から何かを得られたという意味で「敬う」という言葉を使う。「ねほりんぱほりん」では、詐欺師の方とかもテレビに出られていて、みんなが詐欺にかからないようになど、語っている。自分にとっては黒歴史になるであろうことでも、経験談語ろうとしてくれている点でも尊敬できる。そこで「敬う」という言葉を使うかなと思う。

対話は更に続きます。

自分もその番組を見た事があるけれど、自分の感想としては、色々あったけれどこの人達も同じ人間なんだな、と感じる。ある点では下かもしれないし、ある点では上かもしれないけれど、やっぱり「同じ人間なんだなと思う事」が「敬う」事じゃないかと思う。
相手も同じ人間なんだと思った上で、その人のことを大切にしたいなと思ったときに、何となく敬語とか「敬う態度」が出てくるのかなって思った。先生に対してももっと親しくなりたいし、もっと色々教えて欲しいから、敬語を使うのかな。先輩とも親しく、親しくより良い関係を持ちたいし、「大切にしたいから敬う」のかな。番組に出てる人達も色んな過去を持ってるのはすごいことだと思う。
自分にとって優れているとは、能力が高いという意味ではなくて、何か自分に持っていないものを相手が持っているということ。年下とか年上とかに関わらず、何か自分に持っていないものを持っている。自分はそうした相手から学びを得たいから「敬う」のかなと思う。「同じ人間なんだなと思うから敬いたい」という気持ちは、よく分からないので、もう少しその点について説明を聞きたい。

(問い掛け)
(応答)
学びたい人から学びたいことを学べば良いと思っている。自分には、そんなに誰かから学びたいという気持ちはあまりない。逆に、「相手から学べないから敬わない」というのがよく分からない。
自分にとって何も学ぶところのない人は敬わないということですか?

(更なる問い掛け)
(応答)
もし何も学ぶところのない人がいたら、敬わないかもしれない。けれども、そんな人に今まで会ったことはない。絶対に自分にはないものを、必ず他者は持っているのだと思う。例え、今見えなくても何かあるのだと思う。そこを探そうと思う。

「相手は自分と同じ人間なのだなと思えるから敬う」ということ「どの人も自分とは違うものを持っていて、どんな人からも学びが得られるから敬う」ということ、また、「同じ人間なんだなって思った上で、相手を大切にしたいと思うから敬う」ということ、これら3つの意見は、違う意見のようで、ひょっとしたら同じようなことを言っているのではないかという意見がありました。


何だかとても「良い感じの話」になってきました。このまま終了しても良さそうなモードが漂ってきたところですが、哲学対話は続きます。


全ての人は自分と同じ人間であり、全ての人は自分と同じようにそれぞれに違いを持っており、他者から学べるものは多いということにします。だからそこ、相手を敬うことができるのだという案を採用してみます。

しかし、実際の生活の中で私たちはどうでしょうか?
もしも、敬えないことがあるとしたら、それはどんなときでしょうか?

嫌いな人
目の前で犯罪を犯してる人。この人からも何か学ぶところがあるのではないかと頭の片隅で考えることができたとしても、目の前で犯罪に近い行為をされると否定的な感情を持つ。
自分が嫌いな相手は、敬えないかもしれない。相手の発言に対して疑問を感じたり、自分とは違うなと思ったりしたら、敬えないかもしれない。
ああこの人惨めだなぁと思った時は、自分はその相手を敬ってない気がする。
相手に悪意がなくても自分とはタイプが違う人。
例えば、体育会系の熱血教師みたいな人は私は苦手。その人は生徒に対して熱心な指導をしてくださっていると思う。それだけ考えるとその人の善意かもしれない。だけど、私は相手に対して苦手意識がある。そういう人を敬わなければならないのは気持ちの上では難しい。 
その人の熱心さは私にはないものだから、その人から熱心さを学べると言えばそうかもしれないけれど、私には受け付けられず、否定的に捉えてしまう。その先生は、熱量や圧が強く、雑学も混ぜてくるため、進むべき範囲まで教科書がなかなか進まない事がある。

先ほどまでは、どんな人でも敬えるという意見で落ち着きそうだったのですが、実際のところは、かなり違いそうです。

苦手な人は誰にでもいるのではないでしょうか?苦手な人のことを敬わなければないけないのでしょか?

今回のテーマは「敬わなくてはダメですか?」ということでもあります。

「敬う」には何段階かあるのではないか。ものすごく相手のことを敬うとか、相手のことを理解しようと努めることができるとか、どちらかというと苦手なタイプだけれど、とりあえず相手にも何らかの敬うべきポイントがあるから、ちょっと話は聞いてみようとか。
全体的に相手を敬うというより、敬うポイントみたいな所もあるのかな。

相手に心酔するような敬い方や、崇めたくなるような敬い方もあれば、気は合わないけど、この点では相手のことを敬えるなど、同じ「敬う」にも色々な種類があるのかもしれません。

ところで「相手のことを敬わなければならない」ということは絶対の前提なのでしょうか?
自分と相性の合わない先生がいて、苦手な意識を持っているけれどもその授業から逃げ出せるわけでもありません。それでも「その先生を敬いなさい」と言うのは何だか酷な気もしてきます。最初の問いに戻りたいと思います。

「敬わなければダメですか?」という問いです。

敬いたければ敬えばいいと思う。敬いたくなければ、敬わなくてもいいと思う。自分は、嫌な相手は適当に流しているので、しんどい気持ちにはさほどならない。 先ほどの熱血先生のお話を出された方は、自分が先生から押し付けられていると感じているのではないでしょうか。敬わなければならないけど、敬う気になれないということに苦しみを感じてるような気がする。それは、敬わなければならないという事を前提にしてるからではないですか?


敬いたくないときは、相手にとってあたかも敬っているかのように見えるように振舞う事が大切な気がする。相手を敬っていなくて、敬っていない態度をしたら問題が起きる。


(先の意見を受けて)
自分も同意見です。心の中では敬っていなくてもいいけれど、敬っているフリをする。フリぐらいはしていた方がいい。 
相手が「人を敬わなければならない」という前提で生きてる人かもしれない。
フリをする事で自分に不利益が生じないようにしなければいけない。相手が先生なら、自分の評定や大学の進学など不利益が生じてくるかもしれない。自分に不利益が生じない程度の対処はすべきではないか。敬うというより、手段や対処は自分でとっていくべきではないか。


嫌な人のことも、結局一回はその相手のことを頭の中で考えるじゃないですか。それだけでも、ちょっとは相手のことを尊重しているのかな。自分の頭の中に相手の存在が考えられているだけでも、ちょっとは、ちょっとだけでも、相手のことを尊重していることにはなるのかな。


嫌な人がいて、敬うことができそうにない相手がいるかもしれなません。

けれども、そういう相手であっても、相手が存在していることはしっかりと認識している。少なくとも自分の内に相手の存在を捉えている。そのことだけでも、何か意味があるのかもしれません。しかし、それはどういった意味になるのでしょうか。

参加者から別の気になる疑問が投げかけられました。

今回のテーマは「敬わなくてはダメですか?」ということですが、これは受動的な感じがする。受動的というのは、やれと言われてやること。
「敬う」感情は、そもそも受動的なものではなくて、自分から出てくる能動的な感情ではないだろうか。「敬うという気持ち」は、自分の中からすっと出てくるものじゃないかな。人に押し付けられたり、周りの雰囲気に合わせて、そうすればいいっていうものじゃない気がする。

最初、このテーマで話し始めた頃は「先輩や年上を敬うのは暗黙の了解」という話や、自分たちの身近な生活の中で当たり前になっている事例をあげることから始まりました。
今ここで言われたのは、「敬うという感情」は、周囲から押し付けられるものではなく、能動的に自分の中から生じるものだという意見です。

敬いたいという気持ちは自分の中から沸き起こってくるものだと思う。ただし、敬っていることを相手に示す方法は、社会に決められているんじゃないかな。
私も「敬う」ということは自分の中から自然に出てくるものだと思う。そうだとしても、なぜ、学校の中などで、暗黙の了解のようにして子供達に教えることになっているのか、疑問は出てくる。

参加者の中には将来、学校の先生になりたいと考えている方がいらっしゃいました。そこで、その方にも聞いてみたところ、次のような意見が返ってきました。

年上の人にどう接しなければならないかは、小さい頃から親や先生から教えられていたと思う。「年上の人を敬いなさい」というのは日本の文化だとも思う。
「敬うこと」は大切なことだと思う。さっきの方がお話しされたように、強制してしまうのは良くないと思う。 
状況によって礼儀を尽くさなければならない時には、敬語を年上の人に使わなければならないと思う。ただ、敬うかどうかは自分の判断だと思う。それを周りが決めるのはどうかと思う。

「敬うことは日本の文化」とはどういうことなのでしょうか?

昔ならお殿様に敬う態度を示さないと殺されてたかもしれない。そういう名残があるのかもしれない。自分より上の立場の人は確実に敬わなければならない。今はそうした文化が揺らいできているからこそ、こういうテーマで対話ができるのではないか。
もっと古代だったら、相手を凄いと思う気持ちが自分の中から自然に出てきていたが、時代が進むにつれて、だんだん「敬う」姿勢は強制的なものになってきた。それが今の名残ではないか。文化的なものとして始まったけれど、今は生きるための技として残っているのではないか。
敬語とかちゃんと使える人の方が、生きて行けそうな感じがする。
面接とか。(前の人の意見を受けて)

「敬うということがどうあるべきか」についてある参加者が意見を述べられました。

「敬うということがどうあるべきか」と考えていいなら、自然に能動的に、強制されずに「敬いたいという気持ち」を出せることが、あるべき「敬う」の形だと思う。
自然に敬うという気持ちがあるのが大切だ。
この哲学対話の時間中に、敬う姿勢を見せるのは社会のルールだという意見もあったと思う。社会のルールは生きる術なのではないか。このルールは守ることも破ることも自由だが、生きるためには守った方がいいと思う。 
敬うということを教師や大人が僕たちに教えてるときは、教わる側は受動的な立場におかれる。けれどもそれは「形」から生徒に教えているのではないか。
本当は、自分の心の中から人を敬う想いが芽生えるのが良いが、まずは「形」からということなのかもしれない。
「形」の真似から入れば、自然と心の内側から敬うことができるようになるだろうから、教師や大人は、自分たちに「こうしなさい」と教えるのかもしれない。
 生きる術を教えてる段階でもあるのかもしれない。
ところがそこで、生徒の側では勘違いが生まれて「受動的/強制されている」になっているのではないか。先生が教えている目的と教えられている人との間で、受けとり方に食い違いが生じているのではないか。

複数の事柄が絡み合ってきたようです。少し文面で整理してみます。
まず3つのキーワードを整理してみることにします。


「能動的」とは、相手を敬う想いがごく自然と自分の心から湧き出てくるもの。ここでは、「気持ち/心根」について語られている思います。

「受動的」とは、仕方なく社会のルールに合わせたりすること。そうせざるを得ない環境に置かれること。強制させられること。

「生きる術」とは、社会のルールに従うこと。礼節やマナーなど。敬う表現のあり方など形から入ることがある。


参加者から気になる問いかけがなされました。

人を敬うということについて、学校で「形」から教えると仰いましたが、もしそうであるとしたら、学校に入る前の小さな子は、人を敬う気持ちを持っていないのでしょか?
(先の発言者への質問)
(応答)そうです。心の発達段階がある。次第に社会に慣れてゆく。敬語の種類も沢山ある。そうした発達段階に合わせて教えられていると思う。


参加者の皆さんも私も、幼い頃から目上の方への態度のあり方など身につけてきたと思います。けれども、いざ「敬うとはどういうことか」と話し合ってみると、これだけの意見が出てきたということを、少し考えてみてほしいと思います。

敬語の使い方や礼節はピカイチだけれど、心根の方は誠実さを感じないというケースもありそうな気がします。

形だけは立派だけれど中身はどうなの?ということだって無いでしょうか?

敬う形と心の中に生じてくる敬う気持ちとはどういう関係にあるのでしょうか。


本当は教師は、生徒の能動的な敬う心を育てたいと思っているが、形から教えるということしか難しいのかもしれない。先ほどからの議論にあったように、「敬う・敬わない」は自分次第だということが大きいと思う。他人から相手を変えるのは難しい。学校では敬う気持ちができたときに表現する術を形から作って行くということしか、できないのかもしれない。「形」が無いと、いざ敬う気持ちが芽生えた時に表現する方法がない。

「形」からと仰いましたが、「形」からというのは、相手にとってそのほうが敬っているという姿勢が分かりやすいからではないか。
テレビに出ている「ふわちゃん」は、敬語を使わない。他の共演者の方にも敬語を使わない。けれども、私は彼女に対して嫌な印象を持たなかった。「ふわちゃん」が他の共演者を気遣っている様子は伝わってくるから。「ふわちゃん」が他の共演者への対応の仕方からもリスペクトしていたり、大切にしている想いが伝わってくる。 敬語を使わない「ふわちゃん」の在り方には確かに伝わりにくさもあると思う。家族は一緒にテレビを見ていても「ふわちゃん」のような態度を他の人にしたらいけないと言っている。私は「ふわちゃん」は相手への礼節の心がない訳ではないと思っている。 自分の相手のことを敬う気持ちを、他人から分かりやすくする方法が、敬語や礼儀作法ではないか。それを学校で教えているのだと思う。

(ふわちゃんの話を受けて)
その形が自然と出てくる型にはまってない「敬う」ということなのかな。
学校で型を作って、そこにはめ込んで行って、将来、敬う気持ちが出てきた時に、押し固められた形を、周りに出すというのは「ふわちゃん」の在り方とは違う。「ふわちゃん」は型にハマっていないけれど、その方が「敬う」在り方の自然体なのではないかと感じた。

漫才を見た時、ボケた人に何らかの形でツッコミを入れることも、相手を敬ってることになるかもしれない。ボケた人に何もツッコまなかったら、ボケた人がボケたまま放ったらかしにされるのは可哀想だ。漫才の相方として、ちゃんとツッコんであげること。そういうのも相手のことを敬うことになるのかもしれない。
さっき、外に礼節をわかりやすく見えるようする手段が「敬語」なのではないかと言ったけれど、違う考えも出てきた。 ふわちゃんが、共演者の人の話を聞いて、ちゃんと対応している様子や、漫才師がボケた相手にちゃんとツッコむというあり方だって、分かりやすく見えてくる何かがあるのかもしれない。私は、相手の内面を見たいけれど、結局、外に現れてくるものを見て相手のことを判断しているのかな。

仮に、学校が人を敬うことを教えなければならないのだと考えてみます。けれども「形」しか教えることができないのでしょうか。一方で、学校で教わる形とは全然違う現れ方をしている、「ふわちゃん」や漫才師のやりとりの中にも、相手への敬うあり方があるのではないと議論は展開してきました。

学校に押し付けられた固定観念があるのではないかと感じ始めた。相手を敬うあり方は色々あるのに、まるで一つの型しか無いかのように「敬う」ということを教えられている気がする。その型に押し込んで表現することが分かりやすいかもしれないが、他にもいろんな表現の仕方があるのではないか。それを学べる場所がないと、学校で教えられた型の在り方しか、表現の仕方がわからなくなってしまう時がくるのでは?

そもそも「敬う」の中に、敬語を使うことや礼儀があると思う。今の所はそう考えている。
「敬語が敬うことだ」となって行ったのかもしれない。でも、それは逆ではないかと思い始めた。「敬う」の中に、敬語を使って表現するという一スキルがあって、礼儀作法としてそれを学ぶ場が学校なのかな。学校で「敬うこと」を学んでいるのではなくて、スキルを学んでいるのかなと思う。
信頼は、必ずしも敬語だけ使っていたら得られるものではないと思う。敬語を使って礼儀正しくしておくことで信頼は得やすいとは思う。敬語は、「敬う」あり方の分かりやすい表現だと思うから。
「型」があるとか、ないとかについて。敬語には「型」があると思う。
ふわちゃんなどの話は、礼儀の話ではないか。
違う話が混同されていると思う。
社会のルールとしても敬語など言葉の形には決まりがある。それはそうあるしかない。 
礼儀には色々ある。例えば、大きな声を出すこと、挨拶をすること、感謝の言葉を述べることなど。
そうすると礼儀には、形はないと思う。礼儀に形はなく、敬語には形がある。

確かに、敬語は言語の在りようとして考えれば、何らかの形式があると言えそうです。つまり、形が決まっているのではないでしょうか。国語の試験でも文法などが出てくるのではないでしょうか。(主語述語、目的格とか色々?)

一方、礼儀には形はないのでしょうか?

礼儀にも色んな形があるけれど、でも、形はあると思う。礼儀の示し方も色々ある。ボケとツッコミのように漫才などにも何かしらの形式があるのではないか。漫才師も練習をしていると思う。


敬語は言語の問題として捉えることもできるでしょう。
一方、礼儀作法もテーマになっています。
そして、その礼儀作法と、心の想いの問題は、どう関係づけられるのでしょうか。

心の中の想いとは、相手を大切にしたい、尊敬したい、尊重したいという心からの想いです。

礼儀も敬語も「敬う・敬わない」を表す一つの大きなスキルだと思う。
学校で学んでいるのはあくまでスキルであって、「敬う」ことそのものを学ぶことはできないと思う。スキルは方法であって、気持ちではない。スキルは形として経験には残るかもしれない。気持ちは自分自身の気持ちであり、自分自身の現れだから。


「形」を学ぶことで学ぶのはあくまで「形」だけなのか。そうじゃないこともあると思う。例えば、剣道とか茶道は「形」から入るけど、そこに内面の精神性とかが無いとはちょっと思えないような気がする。


参加者の皆さん(私も含め)いつか父親になったり、母親になったりするかもしれません。人によっては教育に携わるようなお仕事をされる方もいるかもしれません。どういう形であれ、子どもたちを育てていくことに携わる方もいるかもしれません。
私たちは、「形」しか教えられないのでしょうか。私たちは相手の精神性や心根さえも育むことができるのでしょうか。

教育者は、敬う心を教えたいけれど「形」からしか教えることしかできないのではないかという意見がありました。学ぶことはあくまで「形」やスキルであり、「敬う」ことそのものではないという意見もありました。
「敬う」ということが相手を大切にしたい想う能動的に湧き出てくるような心の在り方だとしたら、その心はあくまで個々人のものであり、個々人に委ねられているとの意見もあったかと思います。

第三者が、誰かの心を育むということは果たして可能なのでしょうか。

ここで少し違った視点からの意見がありました。

自分が敬われることをする。相手に敬えというのではなくて。相手が能動的に敬いたくなるようなことを自分からする。

これは、最後の方に出てきた意見ですが、「自分自身がどうあるか」という視点が持ち込まれたと思います。
そもそも自分が敬われるような人間であるかどうか、という問いとしても考えられます。自分の在り方によって、誰かの心を動かすことができるのかもしれません。
他人が相手を変えることは難しいという意見も出てきたと思います。意図して変えようとしなくても、まず自分がどうあるかということに向き合いながら、いつの間にか、自分の在り方が、誰かの想いを変えたり、自分以外の誰かの在り方に影響を及ぼすこともあるのかもしれません。


まとめ

「年上の人を敬わなければダメですか?」という問いを足がかりにして、「敬うとは何か」へ迫ってゆくことができたと思います。
分かっているようで「敬う」ということについて哲学対話をすると、これだけの意見が出てきました。出てきた意見の中には、更に別の問いの形を取ることができるテーマがたくさん含まれていたと思います。

哲学対話の中で引っかかった発言や、納得のいかなかった意見、モヤモヤしたものがあったとすれば、それが一体なんであったのかを考えると、きっと新しい発見につながるはずです。ご自身の疑問や未解決の事柄を大切にしてください。どこか心の片隅に置いておけば、いつかどこかで関連したものに出会う機会が起こってくるはずです。



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