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中高生のための哲学対話 「本当の自分とは」

中高生のための哲学対話
「本当の自分とは」

主催 丸亀市飯山総合学習センター
ファシリテーター 杉原あやの

2020/07/03開催


オンラインZoomを使って、4名の中高生の皆さんと哲学対話を行いました。今回のテーマは「本当の自分とは」です。

対話が始まるきっかけは何でも構いません。ひとまず、参加にいたった動機を伺いました。箇条書きのところは、参加者の言葉です。

・自分に良い所が見つからない。自分に自信がない。何か見つけられたらいいなと思って参加した。
・自分にあまり自信が持てない時があった。知らない人と話すのは得意ではないが、そういう力が身につけばいいなと思った。
・以前からSNSで中高生のための哲学対話をやっているのを見かけていたが、その時は参加する勇気がなかった。今回は、勇気を出して参加してみた。Zoomを使うのも初めてだった。

 「自分に自信がない」という言葉が印象深く残りました。こうした会に参加する行動力も勇気も大変なものだと思います。そして何かを真剣に考えてみようとすることや、全く知らない相手と共に一緒に対話しながら考えてゆこうとすることは、決して当たり前のことでも、慣れ親しまれた習慣でもないと思います。皆さんお一人お一人が、誰かに促されるわけでもなく、自らこの場に参加されたこと、それ自体が何て凄いことなのだろうと思わずにいられません。


 さて本題に入ります。難しいことを言おうとしなくても構わないので、「本当の自分とは」というテーマについて、はじめは思うことを何でも言って欲しいと、お伝えしました。そうは言っても、何をどうして言っていいのか戸惑われたかもしれません。

 対話のきっかけとして次のような疑問を投げかけてみました。
例えば、SNSなどをみていると、アカウントごとに自分自身を使い分けているように思えることがあるのですが、このテーマと関連させてどう考えることができるでしょうか。


・沢山の自分があって、どれも本当の自分だと思っている。SNSなどでアカウントごとに使い分けていても、自分から発信するものに関しては、全て本当の自分だと思う。他人に思われている自分については、本当はそうではないのに、と思う事がある。
・SNSでは、文字だけなので、表情とかが伝わらない。その点、学校や友達や家族の方が本当の自分を分かってくれてると思う。
・本当の自分は実は居ないと思う。行動の全てが他に影響されて変わってゆくから。
・自分のことがよく分からない。だから、他人から思われている自分が本当の自分なのかなと思う。

 自分発信は全て本当の自分だけれども、他人に抱かれている自分のイメージには違和感を覚えることもあるようです。
 一方で、自分のことが自分ではよくわからないから、他人の方が本当の自分を知っているのではないかという意見がありました。けれども、自分が自分のことを分からないとしたら、他者が捉えている「自分」が「本当の自分」により近いのだと、何を基準に判断すればいいのでしょうか。 自分は他から影響を受けるので、変わってゆくのかもしれません。しかし、その都度、他からの影響によって何もかも変わってしまうのでしょうか。すると以前の自分と今の自分は全く別人でしょうか。自分が、沢山の影響を受けつつもなお同一人物としてあり続ける「変わらない自分」もいるのでしょうか。


自分の「核」


ファシリテーターからの質問について、皆さんから更に意見がありました。

・自分は周りの影響によって変化し続けると思う。影響を受けつつも自分の中に核が形成されると思う。

自分の中の「核」という言葉が出てきました。これについてもう少し詳しく意見を聞いてみました。

・核は本当の自分が好きだと思っていることや、こういう人になりたいと思っているようなもの。それを核として、周りに影響を受けつつも成長していく。


 他の参加者から「核」はいつ形成されるのだろうか、という質問がありました。一人の参加者がある特定の参加者から受けた発言によって発した質問であっても、誰がそれに答えても構いません。参加者たちの意見は次のようなものでした。

・いつの間にか形成されている。いつの間にか一緒にいる。
・年がいくにつれて自分を省みるようになる。そういう頃に形成されるのではないか。
・恩師に出会うなど、何らかの転換期などではないか。

 自分が変幻自在に全くの別人に変わってしまうわけではなく、何かしらの「核」となるものがあるという意見です。けれども、その「核」自体も何らかの影響(年月・出会いなど)を受けて形成されているのでしょうか。また、人間の成長過程と何か関係が深いのでしょうか。


「アイデンティティ」と「本当の自分」

 参加者のなかからアイデンティティという言葉が出て来ました。これについて、別の参加者から「アイデンティティ」と「本当の自分」は同じ意味なのかという問いかけがありました。言葉の定義について考え始めると、少し複雑になって来ました。

参加者が考える「アイデンティティ」の意味


・他人から見ても自分から見ても自分を形作っているもの
・自分らしさ
・自分をひとつ形作るものであり、それは、出身国や名前、好きなもの、理想など。
・自分の取り柄


参加者が考える「本当の自分」


・自分は、こういう人間だと自分で思ってはいても、全然あらぬ行動をとってしまうかもしれない。そう思うと本当の自分というのはなかなか捉えにくい。
・それぞれが持っている感じ方や性格。


 「アイデンティティ」と「本当の自分」という言葉の違いを問うことで、どのようなものが見えてくるのでしょうか。少し考えてみたいと思います。

 この対話の最中に、「自分はこれが自分のアイデンティティだと思っていても、他人は、これがあの人のアイデンティティだと思っているかもしれない」という意見がありました。アイデンティティの問題に限らず、他者が思う「私」と、私が思う「私」が一致していないことがあるという内容については、今回の対話の中で何度か出てきた発言だったと思います。


「本当の私」について考えるのはどんな時?

 言葉の概念から少し離れて「本当の私」について考えはじめる背景に迫ってみたいと思いました。私たちはどんな時に「本当の自分」について考えるのでしょうか。

・自分自身について見つめ直したり、深く考えるとき。他人から何か言われたりした時。
・あなたってこうだよねって他者から言われた時に考える。
・友人に色々突発的に言ってしまったとき。あの時はなぜあのような言い方をしてしまったのだろうかと思う。今の自分ならば言わないだろうと思う。

 他者が思う「私」を何らかの形で知らされた時、自分が思っている「私」について考える機会ができるのかもしれません。例えば、他の人たちに自分は明るい人だと思われているようだと感じたとしても、本当は違う姿もあるのに・・・と思ったとすれば、「本当の私とは」と自分について見つめ直したり、考えたりするのかもしれません。
 もし、他の人たちが抱いている自分のイメージと、自分が抱いている自分のイメージが一致していると思えた時は、どうでしょうか。ほとんど気持ちに引っかかることもなければ、問題にもなってこないのでしょうか。「本当の自分」について考える時、他者の存在がどのような形で関わってくるのか気になります。
 三つ目の考えでは、既に出てきた発言にもあった「変化してゆく私」について触れられている意見だと思いました。「今の自分なら」という言葉も出てきました。過去の自分と今の自分が変化しているとして、一体どんな部分が変化したのでしょうか。逆に、変わりたくても変われない自分の例については考えられるでしょうか。

自分らしさ

 後半は、参加者に考えたい疑問や問いを出してもらいました。複数の問いの中から、後半対話の中心としたい問いを、参加者とファシリテーターが投票をして決めました。
決まったのは「自分らしさとは?」というものです。

 参加者から「自分らしさ」と「本当の自分」は同じ意味なのか質問がありました。これについての参加者の発言をまとめておきます。


自分らしさとは


・自分の性格や行動、出身国
・自分らしさには、良い部分と悪い部分がある。
・自分が思っている自分らしさと、他人が思っている自分らしさが異なっていることが良くある
・他人が触れることのできるもの
・アイデンティティと自分を形成させる要素の一つ
・本当の自分よりは比較的明確で分かりやすい
・自分らしさは本当の自分を見つけ出すためにあるかもしれない
・他人からも自分からも言葉にできるのが自分らしさ。これが自分らしさなのだなと自分でも理解できる。
・自分らしさは、他人からも自分自身からも影響を受けやすい。
・自分らしさは、例えば「優しい」とか「明るい」とか。


本当の自分とは


・他人からは触れられない
・他人からも自分からも触れられない。理性で捉えることはできないし、言語化することができない。
・押し込められているようなものかもしれない
・本当の自分に近いのが「自分らしさ」だと思う。本当の自分と自分らしさには重なる部分もある。でも、自分らしさの方が移ろいやすい。
・本当の自分に触れているかもしれないけれども、自分では触れていることに気がつけないかもしれない。


 全ての参加者が同じことを感じているのかどうかは分かりませんが、この二つの言葉の使い方についての対話から何か特徴として感じ取れるものがありました。それは「本当の自分」の方がより捉えにくいというものです。 

 本当の自分が理性では捉えられず言語化することができず、触れているかもしれないけれど、触れていることに気づけないのだと考えてみます。すると、何だか「本当の私」は在るのかどうかさえ証明しにくいゴーストのようなものに近づいてきた気もします。もちろん、理性で捉えられず言語化できず、証明できないからと言って、それがただちに「本当の自分が無い」ということにはなりません。捉えられない在り方として在るのかもしれません。


捉えられなさ

 参加者のお一人が具体的な例を出してくださいました。

 友達に遊びに誘われて約束をしたのだけれども、今日は家に居たいな、行きたくないなと思っている自分がいる。相手に悪く思われたくなくて、断ることはせず、楽しく振る舞う「本音と建前」がある。でも、それは単に楽しそうに振る舞っているだけかというと、決してそれだけでもなく、実際に楽しんでいる自分もいる。楽しんでいながら、今日は家に居たかったという思いも無くはなかった。行くときは行きたくなかったけど、帰りは楽しかった。複雑な心境になっている。本音と建て前の間でこんがらがっているのが本当の自分で、そこで楽しめたりするのは性格で「らしさ」なのではないか。

 何が本当に自分の感情なのか、何が本当の自分なのかがはっきりと捉えられない。本音と建て前と言う表現がありましたが、どこまでが本音でどこまでが建て前なのかさえも、よく分からなくなってきそうです。自分が本当に望んでいることさえ自分にとってはっきりしているのだろうか、と考えさせられてしまいます。「本当の自分の捉えられなさ」を感じさせられました。


本当の自分が見えなくなる

参加者の「本音と建前」という言葉を受けて、別の参加者から次のような意見が出てきました。

本当の自分は言語化できないと言うよりも、言葉にすることで不利になることが多い。本音を言うと不利になる。本音と建前の関係が崩れてしまうから、本当の自分を抑え込んでいるのかもしれない。そのために、本当の自分が見えなくなってしまうのかな?

 「不利になる」とは、本当の自分の想いが明らかになってしまうと他人にとってだけでは無く、自分にとっても良いことにならない、ということでしょうか。本当の自分に気がつかないフリをして居なければならなくなり、そのうちに「本当の自分」を見失ってしまうのでしょうか。先ほどの「本当の自分」と「自分らしさ」についての対話で出てきた発言を足がかりにすると「本当の自分」は抑え込まれていて、「自分らしさ」でその片鱗に触れることができるということでしょうか。


まとめ


 実際の生活に根ざした具体例を挙げるという方法は、みんなで考えるヒントになると思います。「例を挙げる」ということの大切さを感じました。本当の自分を知ろうとすれば、自分の感情や望んでいるものさえ矛盾していることが見えてきて混乱してしまう。自分のなかには、沢山の感情や想いがあり、それらは自分自身の中で矛盾しながらあるのかもしれません。
 
 「常に様々なものから影響を受けつつ変化してゆく私」というお話もありましたが、実はこれも「自身のなかにある矛盾」と関連するものがあるのかもしれません。自分以外の誰かの想いが自分を揺さぶっているのでしょうか。「影響」のうちには、そうした他者への気遣いや良好な関係を維持したいがための行動も含まれるかもしれません。他者からの影響を受けながら、けれどもどこまでがその影響なのか、どれが「本当の自分」の気持ちや望みなのか、ハッキリとしないこともありそうです。あるいは、どこまでも全てが他者や自分以外の何かからの影響によるものなのでしょうか。もしも「私が私であるために」変わらずにあるものがあるとしたらそれはどんなものなのか、どうしたらそれを知ることができるのか気になります。

 哲学対話を終えた後に、主催者(飯山総合学習センター)の方から尾崎豊さんのお話が出てきましたので少し触れさせてください。若くして亡くなってしまった歌手に尾崎豊という人がいます。彼の歌詞にこのようなフレーズがあるので一部を紹介します。

僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に分かるまで
僕は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に 歌い続けている

 「本当の自分とは」を考えられた皆さんは、彼の歌詞をどのように捉えられるでしょうか。尾崎豊さんは、自分が自分であるために何と戦っていたのでしょうか。


 さて本題に戻りたいと思います。「本当の自分は理性では捉えられず、言語化することもできないのではないか」というお話もありました。私たちは、「本当の私はこういうものだ」と言うことができるのでしょうか。それともそのように言えない在り方をしているのでしょうか。
 もしも、「本当の自分」を理性で捉えることができないものだとすれば、なぜ理性で捉えられないのかを考えてみることができます。同じように、言語化することができないということが真実だとしたら、何故「本当の自分」については言語化することができないのかを考えることができると思います。
 思考によって捉えることや言語化することだけが全てではないのかもしれません。「本当の自分」は理性によって捉えられないということを仮に正しいものとして仮定してみます。思考によって捉えることができない理由を自分で哲学した上で「本当の自分」については思考以外の方法で向き合うということと、ただ訳も分からずに考えないでいることは大きく違います。前者は、自分自身で問題に向き合い、思考によって捉えられないことを理由や根拠について哲学しつつ自分を生きようとしているからです。後者は、それの放棄でしょうか。
 
 「本当の自分は存在しないのではないか」という発言が対話の中で出てきましたが、これもまた興味深い問いだと思います。それさえも、なぜ存在しないと言えるのかを哲学することができるのではないでしょうか。 

 これからも自分について考える機会は幾度となくあると思います。どんなに年齢を経ても向き合う身近なテーマではないでしょうか。こんなに身近な存在でありながら、自分自身について知るということがいかに難しいかを考えさせられてしまいます。

 初めて哲学対話に参加された方のなかにはとても緊張された方もいらしたのではないでしょうか。初めての経験、初めての場で、一緒に哲学してくださったことがとても嬉しいです。大変に勇気のいることだと思います。自身への問いを抱きつつ自分を生きようとする皆さんと、また一緒に哲学する機会が持てたら大変嬉しいです。皆さんが良い時間にしてくださいりました。ご参加ありがとうございました。

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