📖中島敦『山月記』を読む

誰もが知っているであろう作品を読んでいく。中島敦の『山月記』だ。

中島敦 山月記

簡単なあらすじ

地方官吏に甘んじていた李徴りちょう。詩作で名を上げたいという夢を捨てきれず、李徴は辞職する。しかし夢破れる。友人は出世街道まっしぐら。若くない自分が戻ってきてもいいのか……。臆病な自尊心と尊大な羞恥心。それらに苦悩した末に、虎になってしまった李徴。

そこに、袁傪えんさんという友人が訪ねてくる。偶然にも山中にて懐かしき声を聞き、李徴りちょうだと気づいたと言った方が正確だ。叢くさむらの裏から、李徴は答える。姿は見せない。友を怯えさせぬためである。

李徴りちょうは言う。日に日に虎の思考に変化していき、詩作の才能が尽きようとしている。どうか私の詩を世間に広め、置いてきた妻子に私の死を知らせてほしい、と。

李徴りちょうは最後に自分の姿を示す。故人ともの袁傪えんさんに対して。再会はしまい、その意思を示すために。そして李徴は叢くさむらへと戻っていった。

では、じっくりとこの作品の中を散歩していこう。

中島敦の文体の漢文らしさと読みやすさ

中島敦の文体は、膨大な漢籍の知識に裏打ちされた格調高いものとして知られている。しかし我々は中島の作品を抵抗なくスラスラと読める。漢文らしさと読みやすさとを、どのように両立しているのだろうか？

秘密は対句にあると思う。二つ以上の句の表現形式を統一して、対照的に見せる技法である。この『山月記』にも、対句表現がしばしば用いられている。有名な部分を引用しよう。

己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍ごすることも潔いさぎよしとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為せいである。
――『山月記』青空文庫　引用者太字

正確に対句として構わないのかは分からないが、〈形容詞＋名詞＋と〉という形に統一している。ここに我々は、対句表現の快さを感じるのだ。

※閑話休題―――――――――――――――――――――――――――――
しかし「臆病な自尊心」あるいは「尊大な羞恥心」のみを取り上げても、強烈なパンチラインだと感じる。用意した名詞に対して、反対の意味を持つ形容詞を重ねているからだ。

中島敦は強烈なパンチラインを、対句という形でさらに並べている。だから、フレーズを覚えようとしなくても覚えてしまうのだ。なんて高等技術!!
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他の部分も引用してみよう。李徴りちょうと袁傪えんさんが再会するシーンより。

「その声は、我が友、李徴子ではないか？」袁傪は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かった李徴にとっては、最も親しい友であった。温和な袁傪の性格が、峻峭しゅんしょうな李徴の性情と衝突しなかったためであろう。
――『山月記』青空文庫　引用者太字

「温和な袁傪の性格」と「峻峭しゅんしょうな李徴の性情」とで対句を成している。表現としても快い。だがこの表現には、それ以上に、李徴と袁傪の性格の相違を端的に示すという効果がある。

こうして中島は、難解な語彙ごいを用いずとも、文体から漢文らしさを醸かもし出すことに成功しているのだ。

島崎藤村批判とも読める部分

島崎藤村が『破戒はかい』の執筆最中に、娘を栄養失調で死なせてしまったことは有名な話であろう。『山月記』には、そんな藤村への批判をほのめかす（？）ような文章がある。

本当は、先まず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。

話の流れとしては自然だ。『山月記』の中にこの文章が入っていても、筋は通る。むしろ、入って然るべき文章であろう。

ただ、藤村の事情を知っていると、藤村批判のようにも読めてしまうのだ。中島は藤村のことをどう思っていたのか？　この点について、私は調べたことがない。時間があれば、ぜひ調査してみたい。

余談

　そうして、附加つけくわえて言うことに、袁傪えんさんが嶺南からの帰途には決してこの途みちを通らないで欲しい、その時には自分が酔っていて故人ともを認めずに襲いかかるかも知れないから。

『山月記』では、故人に”とも”というルビを振っている。中島敦が執筆していた当時に、「故人」の意味はどのように捉えられていたのかは分からない。もしかしたら「旧友」という意味も残っていたのかもしれない。
※漢文において「故人」は「旧友」の意で用いられることが多い。

しかし、このルビの振り方、お洒落である。そうは感じないだろうか。しっかりと漢文の雰囲気を残しつつ、相手に分かりやすく表現している。このような巧みなルビの使い方は泉鏡花を彷彿とさせる。