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村上春樹「一人称単数」読書メモ【ネタバレ有】

村上春樹「一人称単数」の読書メモを残す。(ネタバレ有)

単行本全体ではなく「一人称単数」という短編のみを掘り下げる。断らない限り、引用先は村上春樹『一人称単数』(文芸春秋単行本第一刷)とする。

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これは読書メモでしかない。論理的な整理はしない。全ての解釈が面白い・説得力のあるものになるとは限らない。あくまで実験的な読解である。最終的に感想記事としてまとめるには、適さないものも沢山ある。誤読も拡大解釈もあるだろう。

ただ、その過程を見せることで、読解の助けになれば幸いだ。

① スーツを着たときの身体感覚

本作は〈私〉が語り手となる一人称小説である。最初はスーツを着る場面から始まり、その後もスーツを着脱した際の感覚がときおり挿入される。

 普段スーツを身にまとう機会はほとんどない。あってせいぜい年に二度か三度というところだ。私がスーツを着ないのは、そういう格好をしなくてはならない状況がほとんど巡ってこないからだ。(p.219)

スーツを着てネクタイを締めていることに疲れ、首まわりもむずむずして息苦しくなってくる。(p.220)

全身鏡の前に立ち、スーツを着てネクタイを結んだ自分の姿を映してみた。悪くはない。少なくとも目に見えるような落度は見当たらない。
 しかしその日、私が鏡の前に立って感じたのはなぜか、一抹の後ろめたさを含んだ違和感のようなものだった。(p.222)

後ろ指をさされる要素は何ひとつないはずだ。なのにどうしてそのような罪悪感、ないしは倫理的違和感を抱かなくてはならないのだろう?(p.222)

ここから把握できる〈私〉の状況は以下の通りだろう。

○〈私〉は今までスーツを着る必要がほとんどなかった。
○ スーツを着る機会は年に二度か、三度程度(今までは)。
○ ネクタイを締めていると息苦しい。
○ ネクタイを締めていると、首回りにむず痒さを感じる。
○ スーツ姿を鏡に映したとき、後ろめたさを含む違和感を覚えた。

論理は飛躍するが、こうして取り出してみると、マスクを着用したときの感覚と重ならないだろうか

パンデミック以前でも、冬や花粉症の時期にはマスクをしていたかもしれない。ただ、年がら年中着用することはなかった。しかしパンデミック以後は誰にとってもマスクが必須となった。

また、マスクを着用すると息苦しい。短時間ならともかく、長時間になると肌が痒くなったり、息苦しさが顕著になってきたりする。これは読者の日常的な感覚としても理解できるだろう。

加えて、スーツは外出するための服装である。マスク関しても基本的には外出の際に用いる。スーツの着用で感じた〈私〉の「倫理的違和感」や「後ろめたさを含んだ違和感」は、”外出することに対する”後ろめたさ・倫理的違和感ではないか?

特に2020年前半の雰囲気は殺伐としていた。パンデミックがどれほどの規模に拡大するのかも完全に未知数だった。不要不急ではない外出であり、マスクなどをしっかりと着用していても、そういった”後ろめたさ・ためらい”を感じた方は多かっただろう。

著者が本当に描きたかったかは別として、こうした身体感覚のオーバーラップを個人的に感じてしまった。

② 結末に関して~「蛇」のモチーフ

〈私〉が入ったバーでひと悶着あった後に、彼はバーを出ることになる。そのときの風景描写が示唆的だった。一つ引用してみたい。

そしてすべての街路樹の幹には、ぬめぬめとした太い蛇たちが、生きた装飾となってしっかり巻きつき、うごめいていた。彼らの鱗がすれる音がかさかさと聞こえた。(p.234)

ビルの地下にあったバーから出たときの様子である。すべての街路樹に蛇たちが巻き付いているという異様な光景が描かれている。

この「蛇」は何をモチーフにしているのか? 考察が暴走しかねないきらいもある。それでも、ひとまずやってみたい。まずは候補を箇条書きでおこしてみよう。

🐍 ラヴクラフト的・クトゥルフ的な怪物
🐍 知恵の実を与えた蛇(旧約聖書・創世記)
🐍 日本神話の蛇信仰(諏訪信仰)
🐍 アスクレピオスの杖(ギリシャ神話)
🐍 ヨルムンガンド(北欧神話)
🐍 アペプ(エジプト神話)

「蛇」に関して、描写がラヴクラフト的だと指摘する方もいた。たとえば鱗の描写が似通っているのだろうか。が、この点に関して詳細な言及はできそうにない。

イヴに知恵の実を与えた蛇も候補になるかもしれない。だが「一人称単数」の本文中では「蛇たち」と複数形で示されている。知恵の実を与えた蛇は単数で想像されるだろうから、その点とはあまり合致しない。

諏訪信仰においても蛇は出てくる。複数形で想像することも不可能ではない。また、街路樹を御柱おんばしらに見立てれば、そういう解釈も可能だろう。白蛇であればこの解釈の蓋然性がいぜんせいも高くなる。「蛇」の色が不明であることがもどかしい。

「アスクレピオスの杖」は医療・医術のシンボルマークとして用いられる。出典はギリシャ神話から。街路樹を杖と見立てれば、そのような解釈もあり得るのかもしれない。

ヨルムンガンド(北欧神話)は、街路樹に巻き付く蛇として大きすぎるし、複数形の存在でもない。なにせ人間の住む世界を単身で取り囲むような蛇神らしいからだ。これも蓋然性は低いだろう。

アペプはエジプト神話において、闇と混沌を象徴する悪の化身として知られている。本作との描写ともマッチしているようには思う。ただし、これも単数/複数の問題がある。エジプト神話には詳しくないので、「複数形で書いても良いのか?」はよくわからない。

結局、どんな神話をモチーフにしているのか、その点は絞り切れない。メタファー考察は別の機会にまわすことにしたい。

一つ注目したい点を挙げるとすれば「蛇」については「蛇たち」と複数形になっている。「蛇たち」は一人称単数と反対の存在なのだ。

③ 結末に関して~「真っ白な灰」と「硫黄のような黄色い息」

これも最後の方にある一文である。

歩道には真っ白な灰がくるぶしの高さまで積もっており、そこを歩いて行く男女は誰一人顔を持たず、喉の奥からそのまま硫黄のような黄色い息を吐いていた。(pp.234-235)引用者太字

個人的に気になったのは「真っ白な灰」と「硫黄のような黄色い息」である。

私はこの2つの表現を見て、「ソドムとゴモラ」の話を思い出した。ソドムとゴモラは、神に滅ぼされた退廃的な都市として有名だろう。直接的には、火山の噴火と硫黄によって滅んでしまった。この話は旧約聖書『創世記』に記されている。

特に【退廃的な都市が噴火と硫黄によって滅ぶ】という構図が、本作でうまく利用されているように思う。

ただ「ソドムとゴモラ」と明確にはつながらない点や異なる点もある。

①「真っ白な灰」の正体は不明
まず「真っ白な灰」の正体がわからない。これが火山灰であるのか、それとも何かの燃え殻であるのか。その答は不明である。

②「硫黄のような黄色い息」の妙
また、本文中では「硫黄のような黄色い息」と記されている。(1)街中で男女が黄色い息を吐きだしていること(2)それは「硫黄のような」黄色い息であること――この2点に注意したい。

【街中の男女(人々)が黄色い息を吐きだす】という構図は、一種、自己破壊的である。ソドムとゴモラの滅亡の要因となった硫黄(のような黄色い息)を自ら吐き出している。

一方で【硫黄そのものでもない】という点も注意したい。あくまで「硫黄のような黄色い息」である。この点は作品全体と照らし合わせないとわからないが、硫黄だと確定させないことで、メッセージ性をうまく削いだのではないか。作品にメッセージ性を出すと、ある種の説教臭さが出てしまう。著者はそういうことを嫌い、「硫黄のような」と直喩によって表現しているのではないか。もちろん、これらの推論は憶測でしかないが。

さらに断っておくと、このアナロジー自体が間違っている可能性も十分ある。

最後に

このメモは、本作の読解のほんの断片でしかない。触れていない部分も数多い。別の部分を語っている内に、作品全体の見方が変化していくことは大いにあり得る。その点、ご容赦いただきたい。

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