平々凡々な社会人。酒と散歩と宮沢賢治が好き。

平々凡々な社会人。酒と散歩と宮沢賢治が好き。

最近の記事

隣の芝生なんてみんな青いし立派だけど、自分に許された庭はこれだけだから。

 妬みや嫉みに類する感情が(自分以外の内側なんてわからないけれど、おそらく)一般平均と比べてかなり小さい。 「何故ぼくorわたしがもっていないものをあいつが!!」 みたいな想いがその根底にあるのだと推察するのだけれど、みんながあたりまえにもっていても自分には与えられなかったもの(親とか)なんて、ガキの頃からあたりまえだったからなあ。 人間はみんな公平で平等ですみたいな、誰も信じていない嘘っぱちに洗脳される前から、所有できるモノやコトには個人差があるなんてよく理解していた。 い

    • ノクチルのTHE W♡RLD

       ノクチルの新シナリオ、ワールプールフールガールズ読み終わりました。 楽しみにしていたので、友人宅でお泊り遊び中に日が変わると同時に。 久々にオタクハマりジャンルがあると、毎日が楽しいですね。  永遠に続く世界、調和はしていても変化のない世界を望むのではなく、他者から与えられたモノや向けられた想いに応え続け、ポジティブなものでもネガティブなものでもしっかりと借りを返し、成長し変わり続ける中で、いつか必ず終わる世界に生きていることを理解して、その中での輝き煌めくような一瞬を永

      • 社会に向けて巣立つ君たちへ

         おめでとうございます。 明日、4月3日が社会人としてのデビュー日な子も多かろう。 自分で食い扶持を稼いで、自分の力だけで生きていけるようになりましたね。 いや、めでたいめでたい。 若え奴らは宝だ。 若さは素晴らしいぞ。 君たちは強く美しい。 繰り返すが、君たちは宝だ。 社会にとっても、人類にとっても。 うちら? うちらオッサンはもう後は君たちが暮らしやすいよう、働きやすいような場を作ることだけが役割だから、それさえ果たしたらくたばろうがどうでもいいのだ。 君たちには未来と価

        • 70億人に塗れろ。その中から選べ。

           仕事もプライベートも予定を詰め込みがちだ。 某魍魎の匣の某キャラクターのように、隙間なくみつしりと予定が詰まっていると安心する。 暇だと眠ってしまうだけなので(睡眠大好き) 自分からも友人知人には声をかけたりみんなで集まる企画を立てたりしがちだけれど、相手側からの誘いのアクションというのはわりと容易に自己肯定感を満たすなあと最近感じる。 もともと自己肯定感はエベレストよりも高いけれど、それでも更に積み上げて頂けるのはありがたい。  人間関係が面倒みたいなことを嘯き、そうし

        隣の芝生なんてみんな青いし立派だけど、自分に許された庭はこれだけだから。

          無価値無記入な存在に高値を付けてくれた相手には報いなければならない

           わりとナチュラルに自分自身を皇帝だと思って日々を暮らしている(アレな病院に行け 自己肯定感は富士山より高いし自分にひたすら甘いので、自分を追い詰めるような精神的な揺れ動きも全くない。 仕事だけは天才なので、そうした生活に直結する部分での強さが自信に繋がっているのだろうとは感じている。 (仕事以外には得意なことは全くないけれど) ぼくから開けた世界で、ぼくより価値のある存在など在るわけがない。 ぼくが終わったら(おそらく)世界も終わってしまうのだから、そんな唯一絶対の存在に価

          無価値無記入な存在に高値を付けてくれた相手には報いなければならない

          優先順位

           近いうちに死ぬ予定がないのなら、ホモサピエンスの成獣がまず優先するべきは 「自分の食い扶持を確実に確保すること」である筈なのに、社会の中で人並みに金も稼げず、そうした自分自身を顧みて直すべきところを直そうと努力するでもなく ただただ他者の集団である社会への怒りや妬みを高め続ける子ってわりとたくさん存在するよな。 こんなイージーモードの世の中で生きていくにも苦労するなんて、本人が全てにおいてアホな選択を繰り返しているとしか考えられないのに、そこから目を背けるための無意識の逃避

          優先順位

          人類全体が概ね好きだけれど、それとは別にたまには独りでいたい

           仕事中もプライベートでもわりと明るく社交的な人格をしている自覚があるし、親しい他人たちからもおそらく概ねそう思われている。 そうした在り方について無理をしているわけでは全くないし、何の不快感も違和感もないのだけれど、それとは全く関係なく 「今日は誰とも会わないで独りでほっつき歩きたいなあ」 と強く思う日がある。 別に何があるわけでも、メンタルがヘラったわけでもなく(肉体も精神も至って健康なので) 何の前触れもなく突然そうした時間が必然になる。 好きで親しい他人たちと過ごす時

          人類全体が概ね好きだけれど、それとは別にたまには独りでいたい

          自分の立ち位置を放棄せず、自分のやるべきことを

           人間は基本的には、自分のやるべきこと、やれるべきことに全力を尽くし生きた方がいいと思うのだ。 そしてどうしたって、知性や体力、そして性別によって「やれるべきこと」は変わってくると思うのだ。 知性も知識も経験も医師免許もないぼくが急に、脳外科的な手術をやらせてくれって言っても誰もやらせやしないでしょ。 人にはそれぞれやれることとやれないことがある。 それは確実にある。 ないとは言わせない。  たまたまぼくはわりと体力と腕力に優れているので、誰かと一緒のときにはそれを用いるよ

          自分の立ち位置を放棄せず、自分のやるべきことを

          存在自体は構造的に虚しくても、存在している時間と、そこで生まれる繋がりや感情は尊い

           基本的に全ての倫理観や道徳観って 「生きていることは尊い。自分も他人も」 という、生への肯定感が基礎となって構築されているのだから 生きているということへの感謝が微塵もない人間に通じる筈がない。 心の底から人生なんてどうでもいいと感じている人間には、倫理や道徳は手出しができない。 抑止力にもならないし、最後の歯止めにもならないのだ。 「他人に迷惑をかけるな」 的な物言いも効果はない。 全てがどうでもいい人間にとっては、他人が迷惑しようが、それによりどう思われようが、それだっ

          存在自体は構造的に虚しくても、存在している時間と、そこで生まれる繋がりや感情は尊い

          いついかなるときも理性的に

           ぼくが薄っぺらい人生を積み重ねてきた上で自分なりにロジカルに考え抜いた結果、全く熱が含まれないあくまで冷静且つ理性的な思想として 「人間はそれをすることで自分が幸福になると確信したのなら、躊躇うことなくそれをするべき」 というのがある。 自分自身を幸福にする行動は尊ばなければならない。 例えそのために何をどれだけ踏み躙ろうが、捨てようが関係なく。 ありとあらゆる事柄について例外なく。  ところで、ぼくと妹をこさえた製造担当(だけ)者は、うちらをほっぽり出して、それぞれ好き

          いついかなるときも理性的に

          継続する力

           コツコツと続ける「だけ」のことができない方で社会は溢れているとオッサンになり感じる。 「継続は力なり」ってある程度までは真理だろうし、ただ続ければ自分なりの成長は必ずあるのに、みんな途中で投げ出しがちだよな。 ウォーキングとかジョギング、自宅で行うプチ筋トレ、日記や家計簿etc……。 自分で決めたことなのに何故か続けられないのだ。 続けることが苦痛なくらいに嫌なことなら最初からやらなければいいのにと思うのだけれど。 何で始めちゃうんだろうね。 不思議。  仕事の力もプライ

          継続する力

          老化の発見

           わりとオッサンになってきたが、体力も精神力もまだまだ衰えを感じない。 健康診断でも特に問題はない。 もともと肩こりや腰痛も全くないし、空腹や眠さは解るけれど、それらとは関係がない純粋な疲労というものがよく解らないくらいには丈夫な身体をしているので、そのおかげかもしれない。 毎日健康に幸福に生きておる。 丈夫に育成してくれてありがとうおばあちゃん。 ただ最近になって、これはもしかして身体からの老化サインなのではないかという気づきが二つあった。 一つ目 トイレ(小さい方)がや

          老化の発見

          市川雛菜

           去年の暮れに知り合いの方と会話した流れでダウンロードしたアイドルマスターシャイニーカラーズに最近どハマりしている。 ゲーム本編は勿論、グッズを買ったり、ケチな自分が人生で初めてガチャに課金したりと、それなりの強さでハマっている。 高齢オタクなのでもう感受性や情熱など衰えていると思っていたが、久々に楽しい。 こんなものを読むのは親しい友人知人くらいなのでそれぞれの説明や詳細は省くが、ノクチルを箱推ししつつ、そこに所属している市川雛菜にどハマりしている。 ただ周りの人間のほぼ

          市川雛菜

          新年と自立と自律

           気づけば年が明けていた。 今年もよろしくお願い致します。 三ヶ日が終わると日常が戻ってきた感じがしますね。 今年も無理せず程々に働き遊ぼう。  「自分はやりたくなかった」「好きじゃなかった」 みたいな泣き言を後出しで繰り出してくる方を目にすると、格好悪いなあと思う。 嫌ならやらなければよかったし、関わらなければよかったのに。 どれだけ選択肢が少なかろうか最終的に選択したのは自分自身なのに、どういうロジックでそんな言い訳が生み出されるのか不思議で仕方がない。 自己責任論って

          新年と自立と自律

          欲しいものが手に入ろうが入らなかろうが

           おばあちゃんちで住み始める前の小学校低学年くらいの頃、まともな親やら家族やらが欲しいと死ぬほど焦がれていたことがあった。 世間一般的には家族を構成する大人って、好きにブラブラして家庭に金も入れないクソだったり、好きにブラブラしてたまに帰ってきたとしても知らない男を引き摺り込んでガキの寝ている隣りの部屋でヤリ始めるクソだったりしないらしいし、家庭というものは基本的には温かく安心できる場所なんだとどんな本を読んでも肯定的に書かれていて、凄えな、羨ましいな、欲しいなと思っていた。

          欲しいものが手に入ろうが入らなかろうが

          作り方がわからないものは作れない

           決して、友人知人から心配されたい訳ではなく、生きるというイベントに対して何の不満もなく、別に死ぬ予定もない。というか楽しみ方具合で言えば人類平均よりよっぽど人生を刹那的に楽しんでいる(前置き  人生に特に夢も希望もない。 長期的なビジョンを描いて計画的にやりたいことも欲しいものもない。 育ててくれたおばあちゃんはとっくに亡くなったし、暫定一位でこの世で一番俺を好きだった他人(他犬)のシロ子も亡くなって久しい。 俺と違って身体も小さくガキの頃はしょっちゅう泣いて帰ってきた妹

          作り方がわからないものは作れない