いついかなるときも理性的に

 ぼくが薄っぺらい人生を積み重ねてきた上で自分なりにロジカルに考え抜いた結果、全く熱が含まれないあくまで冷静且つ理性的な思想として
「人間はそれをすることで自分が幸福になると確信したのなら、躊躇うことなくそれをするべき」
というのがある。
自分自身を幸福にする行動は尊ばなければならない。
例えそのために何をどれだけ踏み躙ろうが、捨てようが関係なく。
ありとあらゆる事柄について例外なく。

 ところで、ぼくと妹をこさえた製造担当(だけ)者は、うちらをほっぽり出して、それぞれ好きな別な相手と新しい居場所をこさえていなくなってしまった。
虫唾が走るレベルのクソ人間だなとしか感じないが
それでもぼくが理性的に築き上げた
「人間は自分が望むことを選択するべき」
という価値観から眺めたら、その行動を肯定するしかないのだ。
だってガキを捨てるのも、自分の母親にそのガキを押しつけるのも、幸福になるために必要だったんでしょ?
なら躊躇う必要なんて全くない。
それしか方法がないのならそうするべきだし、我慢して不幸を抱き続けて死ぬまで耐えろなんて誰に対しても絶対に言えない。
それが唯一の道なのだとしたら、むしろ積極的にやれ。
感情的には見下げ果てたクソ野郎だとしか思えない相手だとしても、理性が築き上げた尊ぶべき行動を個人的な感情に基づいて否定することはしたくないし、できない。
それは自分自身が積み重ねたロジックと思考の全否定だ。
たかが個人的な恨みつらみや感情如きにそんな真似はさせない。
理性は動物的な感覚や衝動よりも優先する。
それが自身を幸福に至らせるための手段だったのだとしたら祝福してやる。
脳味噌を働かせて熟考した選択だとはとても思えないが、そこの愚かさはぼくの関与するところではないので。
愚かな幸福を求める自由を尊び祝福しない理由が、ぼくの築いた思想の中にはない。

 この感情的な嫌悪感や軽蔑と、自身が理性的に築き上げた価値観との齟齬って、世の中にわりとありふれていると感じるんだよな。
そしてそうした場面で、個人的な感情に基づいて判断し断罪してしまう方々も山のように存在していると感じる。
自分の感情だけで構築された個人的な恨みなんていうちっぽけなものよりも、自分がしっかりと時間をかけて練り上げ築き上げた理性に基づく価値基準&判断基準の方が大切だし、何よりも尊ぶべきだと思うけどなあ。

 「感覚的には嫌いだし許せないが、自身の価値観や法律に則っても別に間違ったことはしていない」
のなら、その相手に敵意や悪意を抱く必要もないし、抱く権利もない。
感覚的に嫌いだというだけの他者に対してみんな異常にイライラして攻撃しがちなんだよな。
そもそも法治国家において人を裁けるのは法律だけだ。
法を犯した相手なら粛々と罪を償うように告発し裁いて貰うしかない。
正義感やら道徳観やらでジャッジしてはいけないのだ。
そんなものは結局ただの好き嫌いでしかないのだから。
個人的な好き嫌いを他者に押しつけてはいけない。

 偉そうなことを書いているけれど、自分がかなり感情的になりやすい性格だと自覚しているし、それに則り選択や判断をしがちなのも解っている。
おそらく愚かな自由を選択してしまうタイプの人間なのだ。
遺伝って怖いよな。
だからこそ同じようなクソには絶対にならない。
何があろうと理性的に、今まで導いてくれた善い人たちが育んでくれた善性的なものをその上に乗せてありとあらゆることに対峙していたい。
理性を尊び善性を築いていれば、きっと愚かな自由に手を伸ばさなくて済む。
カラマーゾフ的な遺伝によるクソさが本当にあるのだとしたら、それを理性でねじ伏せることが生きる上で果たさなければならない復讐なんだと信じている。

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