人類全体が概ね好きだけれど、それとは別にたまには独りでいたい

 仕事中もプライベートでもわりと明るく社交的な人格をしている自覚があるし、親しい他人たちからもおそらく概ねそう思われている。
そうした在り方について無理をしているわけでは全くないし、何の不快感も違和感もないのだけれど、それとは全く関係なく
「今日は誰とも会わないで独りでほっつき歩きたいなあ」
と強く思う日がある。
別に何があるわけでも、メンタルがヘラったわけでもなく(肉体も精神も至って健康なので)
何の前触れもなく突然そうした時間が必然になる。
好きで親しい他人たちと過ごす時間は本当に楽しく満たされているのだけれど、独りじゃないと埋められない部分って自分の中にない?
これがどうしても理解されず想像もしてもらえず、険悪な雰囲気になったことが人生で何度かあるのだけれど。
嫌いだとか、顔を見たくないだとか、そんな重苦しい話じゃないんだ。
今日は独りがいいってだけの話なんだ。
特別なのっぴきならない理由があるのならつきあうけれど、そうでないのなら誰にもつきあいたくないんだ。
今日は。
少なくとも今日一日は。

 何をするわけでもなく、ただ独りでひたすら好きな音楽を聴きながら、ひたすら考えごとをして歩き回る。
誰のことも気にせず考えず(普段からあまり気にしないし考えないが)自分の好きな神社を巡ったり好きなものを食べたりする。
季節の草花が目についたり、空が春っぽかったりしたら、自分の好きなように立ち止まれるし、飽きるまでいくらでも眺めていられる。
風の匂いとか、土の匂いとか、気になればいくらでも嗅いでいられるし、楽しそうな脇道や知らない店にも自分の思うままに入っていける。
その間もずっと最近読んだ本のことを考えたり、生きるためには何の役にも立たないことを考えたりしていられる。
こんな時間が全くなくて丸一年も過ごしたのなら、自分の内側から何もかもがこそげ落とされてしまう気がする。
そしてそれは不可逆的で、落とされたものはもう取り戻せないのではないかと心配になる。
どうしても耐えられない。
我慢できないし、我慢するつもりもない。

 ぼく自身はそうした独りの時間を絶対に確保するし、独りの日にお誘いを受けても断ることにしているので、他人からそうされても何とも思わない。
むしろみんなもっとカジュアルにお誘いを断る文化になればいいなと思うし、誘って断られても傷つかず、誘いを断っても罪悪感を抱かないメンタルを育んで欲しい。
「別にあなたが嫌いなわけじゃないし今後もおつきあいはしたい。誘って頂いたイベントも楽しそう。でも今日(その日)は独りで過ごしたいし、その時間は私の存在にとって絶対に欠かせない。だから今回はパスで。また誘って。こっちも誘うから」
という理由で断ることが自然であればみんな楽なのになあ。
わざわざ嘘の予定やら都合の悪さを創り上げるなんて、誰のためにもならないだろ。
群れを構築するためには協調性は大切だけれど、まずは個の充実だ。
衣食住は勿論、魂も満たされるように生きていかなければ。
ある種のタイプの人間にとっては孤独な時間は魂のために絶対に必要なのだ。
常に他人が恋しく、四六時中何があっても誰かと一緒にいたいと考える方は、そうではない価値観がこの世には存在するとだけ記憶していて頂けたら助かるし、そうした理由でお断りしても勝手に背景を想像して傷つかないで頂けるとありがたい。
嫌いじゃないんだ。

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