存在自体は構造的に虚しくても、存在している時間と、そこで生まれる繋がりや感情は尊い

 基本的に全ての倫理観や道徳観って
「生きていることは尊い。自分も他人も」
という、生への肯定感が基礎となって構築されているのだから
生きているということへの感謝が微塵もない人間に通じる筈がない。
心の底から人生なんてどうでもいいと感じている人間には、倫理や道徳は手出しができない。
抑止力にもならないし、最後の歯止めにもならないのだ。
「他人に迷惑をかけるな」
的な物言いも効果はない。
全てがどうでもいい人間にとっては、他人が迷惑しようが、それによりどう思われようが、それだってどうでもいいのだから。
その辺りを全く考えず、やらかした人間に対して倫理的&道徳的な批判と啓蒙をぶつけようとする方をたまに見かけるが、何を勘違いしているのかと不思議に思う。
多分それ、全く効果ないよ。
もうそうなってしまった人間に対しては何も効果がない。
そもそものパラダイムが異なる。
その齟齬に気づかず、無視して、こちら側の在り方を押しつけたって受け入れられるわけがない。

 先に生まれて先に死んでいく大人たるもの、後からやってくる後輩たちを導かなければならない。
社会やら他者との関わりやらにそれほど重きを置かないぼくですらそう思う。
そこから生まれる繋がりやシステムありきで今こうして生きていられるし、それなりに幸福であるので、それに対しての恩返しと、維持するための努力はしなければフェアではないだろうから。
そして個人として何ができるかといえば、しっかりと言葉で、日々を生きる上での態度として
「生きているのは基本的には楽しくて幸福だぞ。いろいろあるかもしれないけど」
と、表現し続けることだけだよな。
それがいわゆる善なる嘘だとしても、それを続けることには絶対に意味がある。

 弱音を吐くなとは言わない。
個人的には全く理解できないが(働いて自分の力で食い扶持を稼ぐという在り方よりも満ち足りることなどこの世にないので)仕事が嫌だとか、そうした呪詛をカジュアルに撒き散らすのも構わない。
どうしたって死んで終わってしまうという構造からは逃れられないのだから、生きるというイベントは確かにクソかもしれない。
ただ、最近あまりにも、そんなことを気軽に口にする大人が多くないかなと感じる。
言葉は簡単に呪いになるぞ。
繰り返すうちに発した自分の内側に染み込んでいく。
そしてそれを目にしたガキどもにも染み込んでいく。
日々の生活は苦しいだけだ。
大人になると毎日が辛い。
そんな呪いを無意識に撒き散らしているうちに、見ず知らずのガキどもを蝕んでいるかもしれない。
それ嫌じゃね?
本当に望んでそれをやりたい?
やりたいのなら別に止めはしないけれど。
 
 祝いも呪いも同じことなら、先人の役割は、世界にも、これからそこを歩いていく奴らにも、祝福を与えてやることだよな。
生きているのは楽しいぞ。
大人になると基本的には自由でいられるぞ。
きちんと働けばメシを食えて、好きなものを買って好きなことに金を使えるぞ。
人間関係は基本的には面倒臭いけど、そこからしか得られない幸福は確かにあるぞ。
他人のことなんて絶対にわからないけれど、それでも大抵の他人は優しいぞ。
俺みたいなクソ野郎でも何とかなっているんだから、おまえらなら絶対に大丈夫だぞ。
心配すんな。
だから焦らず慌てず、自分の人生を肯定して大切にしていきなさい。
その後に余裕があったら、他人の人生も在り方も許容して肯定してやればいい。
無理しなくていいぞ。
俺は死ぬまでおまえとおまえの世界を祝福し続けてやるから。

 こうしたウザい関わり方だとしても、そうした繋がりで保たれる何かはあると信じている。
職場のガキどももみんなも、幸せになりなさい。
できる限りでいいから。

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