文学の読者
小学生や中学生に、大人の書いた小説を読ませて読書感想文を書かせるといふことをいまだにやってゐると聞いて驚いた。
大人の書いた小説といふのは、漱石とか芥川とかいった人たちの作品。
渡部昇一といふ学者が「小学校の頃に芥川とか谷崎とかいった文学を読んでゐた同級生たちは、おとなになってみんな変態になった」といふ意味のことを書いてゐた。
そんなバカなと思ふかもしれない。
渡部昇一氏の言はんとすることは、子供のころに、文学をほんたうに面白いと感じて読むやうな子供はどこかおかしいといふことだとわたしは思った。
親などは、自分の子供が漱石や鴎外といった文学作品を読んでゐると、幼くしてバイオリンの名手である子供を見てゐるやうな気分で、「将来は、作家になるかも」とわくわくするのかもしれないが、わたしだったら、ちょっとゾッとする。
こんな考へは、「文学、とくに小説とは何か」といふ、わたしの文学観から出て来る。
小説といっても近代小説のことだ。
近代小説の定義は次のとほり。
近代科学による都市化の中で、それまで伝統的に引き継がれていた生き方、暮らし方、価値観などがどれもこれも役に立たなくなった。さうした中、どうにもかうにもならなくなった人たちは、精神分裂病などの心の病ひといふ表現方法を見出した。
心の病ひは、自分の中の誰にも伝へられない生きづらさを、時代の共通の言葉、つまりは医学的な症状として認定されている形式を通して、世の中に訴へることだ。
(表現としての心の病いと脳由来の心の病いは線引きできると思ふ。
まあ、境界線上といふ例もあると思ふけど。このボーダーラインが境界線とも思へないくらい、幅広くなってしまってゐるのも、やはり、時代の表現形式かも)
今なら、何をもって大人といふのか、子供から大人になるとはどういふことか、人が心身ともに発達するとはどうなることか、などといったことに社会的な手本は無くなってゐる。
そこで困った人は、発達障害といふ言語によって自分の当惑を世間に語ることができる。
他者との関はり方も難問だ。だから、自分はなんらかの程度・自閉症だと感じる人のはうが、さう感じない人より、今では多数派だ。
誰もがなんらかの精神障害を抱へてゐる。嘘だと思ふなら、心理カウンセラーや精神科医のところに行って自分の生きづらさを語ってみてほしい。
どんなに自分ではささいなことだと思ってゐることでも、専門家のお墨付き、つまり、なんらかの障害名がもらへる。
約束します。
大人の発達障害なんです、自閉症スペクトラムですと言はれると、世間の人たちも、なんだか、その人の苦しみがわかったやうな気になる。
同じやうに、自分だけの苦しみを「みんな」に分かってもらふために、文才のある人は、詩といふ形式を捨てて、近代小説といふ物語形式を採用するやうになった。
近代小説とは、それぞれが関連の無い、その作家だけの生きづらさを言葉にすると、読んだ側が「それこそ私の生きづらさだ」と勘違ひして読者ができるといふ文学形式だった。
では、この近代小説の読者とは何者だったのだらうか?
「文学がわかってゐる」と思ってゐる読者に関しては、わたしは、次のやうな人たちだと思ふ。
人間がどういふことを考へてどんなことを感じて、そしてどんなふうに行動するかを、その読者は文学によって知った。
そして、「人間のことはわかった」と思ってゐる。
要するに、社会の道徳とか友情とか真実とかいふものは、みんな嘘で、生きることにはなんの意味も無い。
よい文学を読めば読むほど、たしかに、その確信は固まっていく。
もし、人生や社会になにかしら希望をもたせるやうな作品だったら、それは児童文学に分類される。
子供に読ませたい文学である。
ただ、文学としては二流どころかニセモノである。
社会の仕組みも、本物の文学の読者には、透けて見える。経済も政治も法律も、その背後に人間の狂気や虚ろな希望が渦巻いてをり、その読者には、そんなことはお見通しとなる。
彼ら彼女らは、人間と人間社会を見おろす、どこかの高みに昇る梯子を見つけたのだ。それが小説だった。
今は、映画かもしれないが、ともかく、見下ろす場所までアセンドしたのだ。
そこにゐて、彼ら彼女らは何をするでもないが、下界で蠢く人間たちの思はく、願望、けちなプライド、不安や恐怖、なにもかもお見通しである。
社会はまったくクダラナイ、バカの集まりだと彼ら彼女らは呟いてゐる。
読者自体は、何かといふと他人の評価に傷つく心の弱い人であり、不正を見ても何もできない卑怯者であるが、小説の読者としては、神のやうに人間たちを見下すことができる。
さういった・文学のわかる読者は、独りのときは、いつも口元に冷笑を浮かべてゐるはずだ。
けれども、いったん文学から下界に降りて実生活に戻ると、利発で礼儀正しい男女である。
たぶん、たいていの人には、一般の人とさうした文学の読者たちの見分けはつかないと思ふが、わたしは、会って話せば、「ああ、この人は文学のわかる読者だな」とあたりをつけられる自信がある。そして、それを確かめる質問も持ってゐる。
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