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ハードワークな人だと思っていた

 人と一緒に住むことが心地よいと思う日が来るとは思っていなかった。かといって、心の底からひとりでいることが好きだったかというと、そうではなかったのだけど。人といると居心地が悪いのにひとりでいられないのは、自分で自分自身を抱き留められていないからだ。でも、自分で自分自身を抱き留めるなんていうのは幻想で、きっと誰もそんなことはできない。だから人は、あらゆる想像力をつかって自分の輪郭を作る。そんな方法でしか、人はひとりでいられないし、誰かに触れることはできない。記憶にある限り、いろ

    • 芥子、

      芥子、 生まれたい 地に張り付いた贄は古びて笑み のような汁を垂らしながら照る かつて海だった頃の土が匂う 身を広げたら泳げるだろうか 虚空に漂う飢えの粒子を含んだ ねばつく気流に浮かされて 「     」 音として発するに耐えうるには あまりにも臆病な声帯を 剥ぎ落としながら軽くさらに 軽く、肺に満たされる体温で 整えられた気体ごと削いで 逆行する肉体を懐かしむ 「     」 花はすでに開いている それが 芥子、であって うるわしい高台から 手を振るひとが見えるよ それ

      • もっとも美しい頃

        もっとも美しい頃 湖にはとうとう靴は浮かばなかった みている間に音という音が 腐敗する私の体内を祝福しているようだった あるひとつの古い記憶の終わり 邪悪なこどもだったときの私の顔は もっとも美し頃の母に似通っていた 砂糖がさらさらと涼しい響きをたてて 平されたクリームへ落ちていく そのどうしようもなく素晴らしい 完璧な法則のように人を 幸せにも不幸せにもせず 不可逆な時間に漂っていたかった いま私の顔は軽蔑を欲しているだろうか あの新しい橋を清々しい目をして 渡り切ること

        • 俳句三十句抄

          これまでに書いた俳句の三十句抄です。 読んでいただけたら嬉しいです。 つちふるや頭良くなるとの神社 やどかりをゆっくりさせて聖歌かな 干すふとん蝶吸い寄せてやすみやすみ やさしさや若葉と手話で云うような 自転車のサドルを全て薔薇にせよ シャワー終え鏡に吸われないで去る 好きだったオクラも見えていた星も 巡礼や迷路に蜂の巣があるよ 固く固く木を縛りつけ日焼けする 六月の現地の人の釣日和 扇風機かなしい夢をみてる顔 メーデーの製氷皿へ水踊る 木は静かなりハンモックに生きもの 生

        ハードワークな人だと思っていた

          朝も、昼も、夜も。

          何事にも関心が薄くなっていると気がついたときには、もう取り戻せないほど、自分のなかの受容可能な領域(私はそれを感受性と呼びたくない)がだめになってしまっていて、ある種の特殊な環境におかれた生き物のように、明るいか、暗いか、しか刺激として受け止められない。 もはや朝か、昼か、夜か、一日の移り変わりの明暗くらいにしか関心がなくなってしまった。それでも時間という絶対的なものに縛り付けられている心地よさが残っているのが、私と空間、そこにあるものごとをつないでいるようで慰めになっている

          朝も、昼も、夜も。

          たそがれどきの帰路

           日々眠りは訪れる。それには意志を伴う。今日も、眠るために眠るためのことをする。いつから祈らなくなったのだろうとふと考えても、そもそも眠るための祈りなどした試しがないのかもしれないという気になってくる。もしかすると忘却の中に、その時はあったのかもしれないのだけど。  日が暮れるのが早くなって、帰るとき車を運転するのにヘッドライトをつけるようになった。時たま、晴れ渡っていて、時間や空気がちょうどよい明るさをもたらす時、何もかもが日暮れの色を持って薄ぼんやりと浮かび上がるときがあ

          たそがれどきの帰路

          霧に似て

          ラジオで最近よく流れる歌を覚えてしまって、それは決して好きな歌ではないという確信があるのに頭の中で響き続けている。何かを考えようとしている時、あるいは何も考えていない時に、その歌は降りてくる。何度も聞かされた冒頭のメロディと、音としてしか知らない曖昧な歌詞が、前触れもなく再生される。霧を見た。遠くの木々に薄くかかっていた霧は、気がつかないうちに密度を増していて、あっという間に十メートルほどしか周囲が見えなくなった。私は、ひと目で濃霧だと分かるまでそれに気が付かなかった。聞くこ

          霧に似て

          五月十三日

          書こうと思っていたことを忘れた。必ず書こうと思っていたのに。もう跡形もなく思い出せない。一人きりで生きていくことを考えていた気がする。もしくはそうでなくても、そのことを考えてみたい。いつから考えなくなったのか、思い出すには私は歳を取り過ぎた。 平日がつづら折りのように過ぎていく。私にはそれを振り返る術がない。深い折りの谷間に、記憶は滑り落ちる。そしてそれが閉じられたとき、折り目の山しか目に入らないように、ふと目にした景色、風のにおい、ぼんやりと何かを待っているときの思考、啓示

          五月十三日

          朝に

           眠りは得意ではないけど大好きで眠り始めたらずっとそのまま目覚めずにいたいと思う。地球上の永久凍土が全て溶けきって世界が水浸しになったとしても、想像もつかないような威力の兵器によって地形が変わるくらいの破壊があったとしても、太陽の膨張がいよいよ極まり惑星を次々と呑み込んでいったとしても眠っていたい。夢さえみないくらい深く。眠るのが下手なわりに早起きは得意、といっても「出来る」だけでなるべくならしたくない。毎日朝に寝て朝に起きているから時間感覚も平衡感覚もめちゃくちゃで、三半規

          私が元気になったお話

          雪が降っているよ。 外は明るいよ。 あなたは、暖かい家の中にいて 眠りについている。 起きるのには、まだ早い。 ここにある太陽は一日中沈まないのだから。 空は、降りしきる雪のために ぼんやりと明るさが行き渡っている。 私は眠るあなたの耳に、 そっと言葉をかける。 何を言ったのか、 あなたにはわからない。 けれどかすかに、 あなたのまつ毛が震え、 安らかな息が聞こえてくる。 「太陽は、もう沈まないと決めたんだ」 私は眠っているあなたに、 今度ははっきりとした声で言う。 もう三週

          私が元気になったお話

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          くたびれた布が一枚 黒い土に覆いかぶさって 吐く息の動きで染み込んでいく 馴染んでいく 朽ちていく はじめから通うことのない血が干上がって この地表が現れるよりはるか前の 光が まだ太陽の向こう側にとどまっていたころから 生まれることを望まなかったそれぞれの 使い古された母語が 鏡に落とされる流星に紛れて消える もはや崩れさろうとする布が 飛ばされてふたたび 新しい土を覆う

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          ショート・トリップ

          1990年 宇宙探査機ボイジャー1号が初めて太陽系を60枚の連続写真として収めてから三ヶ月後、ノースカロライナでキャンピングカーが大型車と衝突し、無線ラジオ、インスタントカメラ、それからクーラーボックスに入った氷と一緒にいくつかのグレープフルーツが駄目になった。 1995年 五人兄弟の末っ子が息をひきとるとき、鮮やかな紅葉がいっせいにさざめいた。彼はかつて、アリゾナの砂漠を走る列車の中で欠けた歯を飲み込んだことがあり、それを生涯にわたって思い出した。 1997年 人間にチ

          ショート・トリップ

          暗いところを出て

          暗いところを出て 地下鉄はこんなにも 暗いところを走るから 駅についたとき 紙吹雪で迎えてあげたい プラットフォーム、その奥の空洞から押し出される 無意の空気を巻き上げて 気のふれたまま足を向ける街が それだけで奇跡みたいに、輝くのは 出口がこんなにもしっかり 開いているからなのかもしれない。 祈り それだけではままならないことを 詰め込んだ電車が駅を去る震え けだるく、粉っぽい。使い古された風が。 身体を包んでゆく、光を目に 数字があてられた出口へ。 たんに上昇していく。

          暗いところを出て