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【コテン現代】①伊勢物語「行く蛍」

伊勢物語のお気に入りの部分を
現代を舞台に小説にしてみました。

「母さん、ちょっと来てくれ。蛍が話があるらしい」

「あ、はい、今行きます」

 蛍の好きなりんごジュースを用意していた母の渚は、夫の良一に呼ばれて慌ただしくコップの蓋を閉め、ストローをさした。娘の蛍の部屋に入ると、ベッドに仰向けに寝ている蛍の両目が力なく母を追っている。渚は蛍の口元へ耳を近づけた。

「……い……たい」

「え?」

「会……いた……い……」

「会いたい? 誰に?」

 遅れて入って来た良一も蛍の口元をじっと見守った。

「……向かい……の……マンションの……人……ギター……弾いて……る……」

 渚は上体を起こして蛍の顔を見た。

「蛍ちゃん……その人のことが好きなの?」

 蛍は母をまじまじと見つめて僅かに首を縦に動かした。渚は蛍の瞳の輝きを見逃さなかった。ああ、この子は本気なのね──。
 渚はベッドの脇の窓のレースのカーテンを開け、向かいのマンションを見た。開いている窓もあれば閉まっているものもある。ただ、人影はひとつも見当たらなかった。窓を開けてみた。うっすらとギターの音が聞こえる。

「あ、聞こえるわ。蛍ちゃんも聞こえる?」

 蛍はまた僅かに頷いた。

「母さん」

 良一と渚は目を見合わせた。

「ええ、ちょっと待っててね。呼んで来るわ。真向かいの部屋よね?」

 蛍がゆっくりと瞬きしたのを確認し、渚は急いで向かいのマンションに走った。2 階の右から2番目……インターホンを押すとギターの音が止まり、若い男が出て来た。

「はい?」

「あ、突然すみません。あの、わたくし、向かいの家の者ですけど、病気で寝ている娘が是非あなたにお会いしたいと言うものですから、もし良かったら来てくださらないかしらと……」

「え? 今ですか?」

「ええ、ご迷惑でなければ……」

「あーっと……まあ、今暇だからいいですけど……ギター持って行きましょうか?」

「まあ、いいんですか? ありがとうございます」

 ギターを手に持った成平なりひらは、靴を履きながらふと思い出した。だいぶ前に、向かいの窓に高校生くらいの女の子の姿を2度ほど見たことがあったのだ。確か2度目は目が合ったが、気まずさに、軽く会釈したようなしないような感じで、成平はすぐに窓を閉めてしまった。顔もうろ覚えだ。

「風邪でもこじらせたんですか?」

「いえ……ずっと入院してたんです。体が悪くて……最期は家でと思って、退院させたのが3週間前ですね」

「……すいません」

「いいんですよ。ご近所にいても、家の中までは分かりませんものね。あの子……蛍というんですけど、あなたのことが好きみたいで……ベッドの上でギターの音に耳を澄ませていたんでしょうね……あなたに会いたいってついさっき言い出して……きっと蛍の最後の願いなんです」

 渚は気丈にも笑顔を取り繕ったが、その目からは涙がはらはらと流れ出した。そんな大変な状況にある家に自分が足を踏み入れていいものだろうかと、何の心の準備もないことを成平は恥じたが、ここにきてなす術はない。すぐに蛍の家に着き、母親に案内されて2階の部屋へ向かった。渚が半開きのドアを押し広げると、成平の耳に誰かが咽び泣く音が入ってきた。渚のあとから部屋に入ろうとすると、ベッド脇の椅子に腰掛けた父親と思しき男の背中が揺れていた。渚は駆け足で蛍に近づき、蛍の口元にしばらくの間耳を当ててから、蛍に覆い被さって泣いた。

「……まだ3分も経ってないくらいだ」

 父親の良一は成平に気がつき、側に寄ってきた。

「悪かったね、わざわざ来てもらったのに」

「いいんです……蛍さん……残念でした」

「ずっと苦しんでいたからね……やっと天国で楽に暮らせるさ」

 成平は何も言い出すことができなかった。

「手だけでも握ってやってくれないか」

 良一に言われ、成平がギターケースをその場に置いてベッドに近づくと、良一は泣き崩れている渚を支えて立たせ、掛け布団を捲り、薄いピンクのパジャマ姿の蛍の上半身を露わにした。良一に視線を送られた成平は、床に立膝をついて蛍の左手を両手で握った。まだ温かい。蛍の顔を見つめていた。10秒ほどだろうか、そうしていることが長いのか短いのか分からないままに手を離し、立ち上がって、両親に会釈をした。

「ありがとう」

 良一の言葉を受けてギターを持って部屋を出た。娘を失った家の空気は、大変に重苦しいものに変わった。自分だけがこのまま出て行くことが悪いような気がした。すぐ隣の自分のマンションまでの道のりは、そこだけ重力を増したようだ。
 部屋の冷房を入れた。窓を閉め切っていると、蛍の家とは切り離される。何も分からない。分からなくていいのかもしれない。下手にいろいろな音が聞こえたら、気になってしまうから。気にしても何もできることはないのだから。
 ギターを弾いた。蛍が聞いていたであろう曲を続けざまに爪弾いた。歌も歌った。部屋の中がだいぶ暗くなってきた。窓辺に立って蛍の部屋を見た。電気が消えていた。蛍の体は葬儀屋にでも渡ったのであろうか。冷房を消して窓を開けた。暗くなったのに合わせてほんの少し涼しい夜の気を含んだ風を僅かに感じた。そのまま窓辺のベッドに身を横たえた。

「あっ」

 星の瞬き始めた群青色の空に、一瞬黄緑色の蛍の光がふうっと飛んだように見えた。今までこの付近で蛍など遭遇したことはない。目で追ったが、再びその姿を捉えることはできなかった。

(了)

 『伊勢物語』第45段「行く螢」を、舞台を現代に移して書いてみました。この段は物語的な誇張がなく、書いた人間の実体験を在原業平の物語に織り込んだのではないだろうかという印象を受けます。文庫本で10行ほどの短いエピソードです。どんなに工夫してリメイクしても、この原文に勝るものはないでしょう。


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