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[chapter5]ロゴスlogosから抜け出せない

アリストテレスの時代にはよく知られるところとなっていた論理の三法則、すなわち、同一律・ 矛盾律・排中律は、三位一体となり、近代にまで至る過程で、人間の思考のモデルとなり、また、その思考に基づく社会認識を形づくってきた。私たちは、この三法則に基づく思考をロゴスと呼ぶ。ロゴスが動詞レゴーから派生した名詞であり、レゴーは、「よせ集めること」、「話すこと」、「数え上げること」という 3つの意味を持つことはすでに山内得立の『ロゴスとレンマ』(1974 年、岩波書店) において示されている。レゴーから派生したロゴスの視点では、何よりも言葉に基づいて物事の本質を理解し、事物の存在を捕捉せねばならないとされる。ロゴスに基づく事物の本質とは、何よりも事物の諸性質と本質を区別することを第一とし、それはまた、主語と述語、主体と客体などの分別を伴い、この世界を構成する諸事物を類型化することへと私たちの思考を導く。しかし、山内は、古代ギリシアにおけるロゴスとは別の思考のあり方に着目した。「レンマ」がそれである。レンマの思考は、「直観によって全体をまるごと把握し表現する」思考である。

https://researchmap.jp/7000024127/misc/31672967/attachment_file.pdf

私たちは「星座」の網の目にとらわれて生きている.カントが「純粋理性批判」で描き出したように,ヨハネ福音書の冒頭の句「はじめに言葉(logos)ありき」という言葉が象徴するように,人間の思考がロゴス化することは止めようがない.そこで「ロゴスlogos」とは別の思考のあり方として山内得立は「レンマlemma」という思考の枠組み,土方巽は「暗黒舞踏」,福岡伸一は「動的平衡」という言葉と概念を打ち出すことで,私たちがいかに言葉やロゴスlogosの呪縛から逃げられない生物なのかを露呈させた.(だが私たちは’’直感だけ’’で千角形の内角の和を求めることは不可能であり,漫画「Dr.STONE」が物語の中で提示しているように経験を積み重ねることで見えてくる真実もある)千葉雅也「現代思想入門」や國分功一郎「暇と退屈の倫理学」も’’ベストセラーになるべくしてなった’’と言えるのではないだろうか.(「陰謀に対する処方箋」國分功一郎,斉藤幸平

これまではっきりと徹底して考えられずにきたことだが、われわれの時代というものは、 これほど反宗教が薬延しているにもかかわらず、キリスト教が二千年にわたって達成し
てきたところを、いわば重荷のように負っているのである。それは言葉の支配ということである。あの、キリスト教信仰の中心をなしているロゴスの支配である。

ユング著、松代洋一編訳「ユングの文明論』

人間の思考の枠組みは「ロゴス」的なことによって形作られているので,音楽も科学も,それから日常生活まで含めて,僕たちは無意識のうちに,ロゴスによって固定化された方法で世界を見たり体験したりしているんですよね.(福岡伸一)

音楽と生命/福岡伸一・坂本龍一

生物学をほとんど学んでいない学生に膵臓の細胞の写真を見せて「スケッチしてみなさい」といっても何も描き写せない.なぜなら,写真に写っているものをどこでどう区切るのかよくわかっていないから,どれが1つの細胞の単位なのか判別できない.しかし,そんな学生たちも1年かけて細胞の構造を座学で勉強すれば,教科書に載っているような細胞の図を誰にでも描けるようになる.しかし,それと同時に,最初にその写真を見たときの「このモヤモヤした名もない構造にこの細胞の中が満たされている」ということが,学生たちには見えなくなる.

これは「痛み」や「生きづらさ」にも言えることではないだろうか.
心理学や哲学,言語学や歴史学をほとんど学んでいない学生に,「自分の(他者の)痛みを言語化しなさい」といっても何も言葉にできない.しかし,書店や図書館に行って専門書を一冊でも読み通すことができれば「痛みの細胞図」は誰でも描けるようになるだろう.だがそれと同時に,自分が(他者が)痛みを感じたとき,その痛みを「これはモヤモヤした名もない構造だ」とはとらえられなくなる.

そんな日本人は現代において増加し続けている,昔は日常生活の中で知らず知らずのうちに宗教教育が行われていた,と臨床心理学者の河合隼雄氏は言う.そういった「文化装置」が働かない中で科学教育を行うことは「はじめから世界は言葉によって分かれているんですよ」と教えるようなものである.「あなたたちは神の子なんですよ」そう伝えているようなものである.令和の時代に「そろそろ雨が降るよ」と言えるような,内なるphysisを秘めている人間は,あなたの周りにはほとんど存在しない.だから「同じ名前を持っているけどあなたとわたしは違う」とか「もう不登校じゃないから生きづらくないよね」というふうに,モヤモヤした名もない構造を見ることが出来ない人間が増えた.そのせいで,名もない痛みを持った人間が苦しむ構造が出来上がっているのは説明するまでもないだろう.

熊谷晋一郎は病気や障害に関わる偏見を「スティグマ」と名付けている.スティグマとは、唯一無二の心身と背景を持つ多様な人々を、大雑把にグループ分け(カテゴリ化)し、特定のグループに対してネガティブな認識や行動を向けることを指す.スティグマは以下の5段階から構成されると定義される.そもそも人間がなぜ「スティグマ」を持っていくのか.それは「ダウン(=ある一定の人々の価値を貶める)」「イン(=ある特定の人たちを自分たちの仲間に引き寄せる)」「アウェイ(=ある特定の人たちを自分たちから除け者にする)」の3つの欲望が存在するためだと言われている.

1.ラベリング

人が持つそれぞれの個性にラベルを付けてカテゴリをつくることで、その人たちに同一のイメージを持つこと。例えば、「障害者」もラベリングされたカテゴリの一つ。

2.ステレオタイプ

ラベリングしたカテゴリの人たちに対して、しばしば誤った、十把一絡げのイメージを持つこと。例えば、「病気を持つ人は、正社員として働くのが難しい」など。

3.偏見

特定のカテゴリの人たちに対して、ネガティブな価値付けを行うこと。例えば、言葉にするのもはばかられるが、「障害者は、価値が低い」など。

4.隔離

特定のカテゴリの人たちを隔離すること。例えば、障害者を施設に入所させ、周囲と直接的に交流させないなど。

5.差別

「排除型」と「同化型」の2種類ある。いずれも、相手と自分の違いを無視した振る舞いが特徴。

(1)排除型:特定のカテゴリの人たちを排除する行動

(2)同化型:特定のカテゴリの人たちを、多数派に強制的にあわせようとする行動

https://genetics.qlife.jp/interviews/dr-kumagaya-20220221

また,精神科医の中井久夫は「治療文化論」のなかで「精神疾患は文化や個人史といったローカルな特性の影響を受けやすい」と論ずる.「痛みに名前をつけること」は「衣服を着ること」に似てはいないだろうか.各人の個別の症例に即して適切な「衣服」を処方することができれば人は少しの間だけ,気を休めることができるのかもしれない.「死にたい」と言う人は本当に死にたいわけではない.「死にたい」と言う「衣服」を身に纏うことで,生きづらさを表現し気を休めている.だがその「衣服」も次第に着れなくなる.’’着たくなくなってしまう’’.そのため、その都度「修繕」して長く着続けるか「新しい衣服」を購入する必要がある.再び既成のものにならないために「生成しながら消滅」するのだ.われわれは「命がけで突っ立った死体(=生体即死体)」なのだ.

「ロゴス」という言葉は語源的に「目の前に集める」「集めたものを並べる」「言葉を言う」といった意味を持っている.人間は現象する事物に名前(語)を与えることによって意識の中に「集め」,集めたものを線形的な順序にしたがって並べて表現することで,体験を秩序立てる働きをする.
(中略)
このロゴスの知性作用を形式化して,「正しい論理学」の基礎を築いたのがアリストテレスだが,それによるとロゴスは,(1)同一律(2)矛盾律(3)排中律という3つの法則に従っている.「同じものは同じ」(同一律),「肯定と否定は両立しない」(矛盾律),「事物は分類できる」(排中律)という三つの法則を守ることで,正しい言語表現は可能になるというアリストテレスの考えは,その後のヨーロッパでは広く認められるようになり,現在でも論理哲学や科学方法論の基礎となってきた.

レンマ学/中沢新一

「西洋知の中で物事が語られてしまっている(領域を設定するとすぐに細分化される)」と編集者の松岡正剛が言っているように,東洋知そっちのけで,ジェンダー問題も多様性も環境問題もすぐに細分化される現代.「不登校もジェンダーも発達障害もみんな同じ部分があって,違う部分があるじゃない」なんて言葉を漏らしたときには,激しくバッシングを受けるどころか,取り上げることすらしてもらえない.

坂本龍一は,米国の哲学者・美術研究家であるアーネスト・フェロノサに影響を受け,一日中「名詞を使わない」思考実験を行ったことがあると述べている.

やってはみたものの,これはほとんど不可能で,もう1秒も持ちませんでした.もちろん話はできないし,考えることすら難しい,たとえば,空に浮かぶ雲を見て,「あの雲を表現してみよう」とか「あの雲はどうしてあそこにあるんだろう」と考えること自体,いくつも名詞を使っているわけですよね.名詞を使わないとすれば僕たちは思考さえままならないし,一歩も先にいけない.人間がいかに名詞に縛られているかということが,よくわかりました.(坂本龍一)

音楽と生命/福岡伸一・坂本龍一

1970年代に,ロックバンド「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」の一員として活躍し、ソロ活動を展開してからも自身の音楽を単一のジャンルに絞ることなく、クラシック音楽、ポップ、ジャズ、アンビエント、エレクトロニカなど、多様なジャンルの要素を組み合わせ,独自の音楽的な表現を追求していた坂本龍一という人物でさえ,「ロゴスに縛られている」という感覚から抜け出せなかったという.

今日の科学では「因果」は説明できるが「縁起」は説明できない.では,私たちは「ロゴス的な知性」をより拡張された「別の知性」で補完できる可能性はあるのだろうか.そもそもその「別の知性」は本当に,存在し得るのだろうか.

そこで思想家の中沢新一は,現代科学を補完する存在として「レンマ学」という新しい「学」を創り出す必要があるのではないか,と問うている.古代ギリシャでは「理性」という言葉には2つの意味(ロゴスとレンマ)があった.「事物を取りまとめて言説化する」という意味の「ロゴス」という言葉と共に,「直感によって丸ごと把握し表現する」という意味の「レンマ」という言葉が共存していた.この「レンマ的知性」をあらゆる方面で探求しているのが「華厳経」であると,中沢新一は語る.(河合隼雄も日本人の心性を理解するにはこの仏典を研究することが極めて重要であると喝破しており、1980年代の中頃には「華厳経研究会」を開催.ここには養老孟司も参加していた.

中沢氏の詳しい論説は当著を読んでいただくとして,この「レンマ的知性」と「痛み」がどのような部分で関連性を示すのかについて,私の考えを示したいと思う.

私はさまざまな人の悩み相談を受けている中で「なんで動揺しないの?」と何度も問われてきた.「今すぐ死にたいんだ」とか「難病をもっているの」とか「学校で壮絶な仲間はずれやいじめを受けていたの」とか「わたしは男の人をためしているの」とか,何をどんなふうに聴いても動揺しない姿を見て相談相手は「こんなこと今まで誰にも話してこなかったのに」と思わず驚嘆する.河合隼雄のカウンセリングを受けたあるクライエントは治療を受けた際に「この人は’’たましい’’を聴いてくれている」と感じたと言っていたが,わたしも似たような体験をしているのではないかと思った.

華厳経が強調している最も重要な考えは、「無自性」である。ここに私がいるということは、誰かとの関係がある。こういうすべてのものとの無限の関係の総和によって、私は できあがっていると考える。この考えは、通常の意識とは異なる意識状態から生じてくると思われる。通常の意識では、A、B、Cといったそれぞれのものは、それぞれ別々に存在している。しかし、意識のレベルを変えると、AとBとの間、BとCとの間の境界はぼやけてくる。その明確さを失わないで意識のレベルを下げていくと、すべての存在は一つのものになり、それに名前をつけることはできない。この全体は、名前を持たないために 「無」と呼ばれるが、同時に実際にはそれは全存在であるということもできる。この意識の底にまでたどり着いた後、意識のレベルを通常状態へと戻してゆく。その場合、全体は個別の物体、あるいは生物として現れてくる。しかし、それぞれのものは、全体の現れである。私の意識を元へ返してゆくと、その全存在が挙げてこのマイクロホンになる。また 全存在が挙げて私になると仏教では考える。これを仏教では「挙体性起」という。このことを華厳経の中では、空中にある塵の中に三千の仏があると言う。つまり全体が挙体性起するのである。このことを表現すると、存在がコップしている、存在が私しているという ことになる。そして私とコップとの関係は非常に親密なものになる。普通われわれが考えている私とコップの関係などというものをはるかに超えた関係性の中に存在することになる。これを図式で表すと、次のようになる。
A=f(a,b,c,d,.........)
B=f(a,b,c,d,.........)
C=f(a,b,c,d,.........)

意味論的な考え方をすると、シニフィェ(その語が指している対象)は常にすべて(a,b,c,d,.........)である一方で、シンフィアン(あるものを指す言葉)は、A、B、C といったように異なっている。この事実を説明するために、華厳経では「有力」と「無力」 という概念を用いる。「有力」ということは、能動的、明示的、自己主張的、支配的要素を 示し、「無力」ということは、受動的、穏在的、自己否定的、従属的な要素を示している。
この「有力」「無力」という華厳経の「主伴」的存在論理についての理解を深めるため に、井筒の論を続けて紹介する。今、仮に、ABCという三つのもの-具体的には、例えば「鳥」と「花」と「石」があるとする。すでに説明した「性起」と「縁起」の原理によって、ABCが、いずれも、「空」の「有」的側面である絶対無分節者の分節的現起の形で あること、そしてまた、その限りにおいて、ABCが、それぞれ、違うものでありながら、 しかも互いに相通して、円融的に一である。すなわち、ABCは、いずれも、まったく同じ無限数の存在論的要素(abcde...)から成っている。そして、すべてがすべてを映現する、 あるいは一一のもののなかに全宇宙が含まれている、という鏡灯的「縁起」の原則によっ て、これらの存在論的要素(abcde...)は、ABCのどの場合においても、全部が一挙に起り、互いに交流し渉入し合いながら、Aを現成させ、Bを現成させ、またCを現成させている。このような場合に、AはAであって、BやCではないということの説明のために、 「有力」「無力」の概念が導入される。構成要素群のどれか一つ(あるいは幾つか)が「有力」である時、残りの要素は「無力」の状態に引き落とされる。「有力」な要素だけが表に出て光を浴び、「無力」な要素は闇に隠れてしまう。普通の人には、「有力」な要素しか見 えない。しかも、(abcde...)のうち、どれが「有力」の位置を、場合場合で力動的に異なる。つまり「性起」の仕方、無分節者の自己分節の仕方、が場合場合で違う。この存在分 節の違いは、ひとえに、どの要素が「有力」的に現起し、どれが「無力」的に現起するか、 によって決まる。「有力」的に現起したものは主となり、「無力」的に現起したものは従と なる。それがすなわち「主伴」の論理である。AがAであるのは、その構成要素(abcde ...)のうち、例えば a が「有力」で b 以下のすべての要素を「無力」化してしまうのであ る。
すべてのものは、結局、それらの共有する構成要素の、「有力」「無力」的布置いかんに
よって、それぞれのものであるということになり、それはそれらのもの相互間に、「事事無礙」的関係が成り立つことにつながる。「事」とは現象的形態のひとつ一つのものであり、 「無礙」とは障礙(さまたげ)がないことである。AはAでありながら、BでもありCで もある。それでいて、事実上はAであって、BでもなくCでもない。このような存在論的境位では、すべてのものが互いに融通無碍であり、差異はあるけれども、それはいわば透き通しの差異となるのである。日常的経験の世界、すなわち存在の現象的次元では「有力」 な要素だけが浮き出ていて、「無力」な要素は全然目に入らない。また、それだからこそ、 ものがものとして個々別々に見えているわけだが、だからといって、「無力」な要素が不在なのではない。目には見えないけれども、「無力」な要素は、ちゃんとそこにある、現象的存在次元におけるものの深層構造として。このような状態で見られた存在世界の風景を、 華厳はあらゆるものが深い「三昧」のうちにあるという。そして、このように世界を「有力」「無力」両側面において見ることのできる人を、イスラムのスーフィズムの理論的伝統 は「複眼の士」と呼ぶ
と井筒は述べている。以上長々と、井筒の論を紹介してきたのは、この「複眼の士」と呼ばれる人物が、前節で紹介した、『大乗起信論』 を基に説かれた河合の目ざす「治療者像」と通底すると筆者には思われるからである。

https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?contentNo=1&itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F8661914

わたしが「名前のない痛み」でつながるという言葉で示したいものは「華厳経」の「有力」「無力」と言う概念でも説明できると思った.以下の画像は,わたしが団体設立当初に「名前のない痛み」の説明のために作ったものである.これを作った頃は全く哲学や仏教というものに触れていなかったが,驚くほどに似ている考え方である.

ここで河合の文言にもどる。上述の華厳経における「有力」と「無力」という概念について説明した後、河合は次のように述べる。私が心理療法において、積極的な意図を放棄し、何か事柄が起きるのをただ待つだけにした時についてお話したことを思い起こしてください。こうした態度は、人格の変化を引き起こすように、「無力」な要素を活気づけまし た。すべての人々が彼のことを非行少年であるとか、アルコール依存症であるとかいったレッテルを貼るかもしれませんが、治療者の態度が受動的であり、自己否定的であり、穏在的であることによって、十分に興味深い変化が起こるのです.

https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?contentNo=1&itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F8661914

「他者性」や「自己同一性」といった哲学的主題は,このような考え方を理解する上で大事なものであると,わたしは思う.これは,土方巽が『暗黒舞踏』でわれわれに問うたものでもある.身体そのものが,われわれのコントロール下にあるわけではない.そんなことはわかりきっているのに,どうしても「自分の身体」とわれわれは錯誤してしまう。

「この言葉を言うとあなたを傷つけるかもしれないから」そんな言葉に現れているように『痛み』を自分自身でコントロールできると自分に言い聞かせ,自己嫌悪に陥る過程にある人たちを私はたくさん見てきた.このような言葉を聞く度に「傲慢だわ.あなたにわたしを傷つける力があると思わないで」と言いたくなると共に「仏教」が「文化装置」として働かなくなった現代に虚しさが蔓延しているのを,まじまじと痛感するのだ.

完全に自分の体を客体としてモノにまで還元した踊りを,私はそのとき初めて見ました。ダンサーというのはいくらやっても,自分の体をモノにまでするのは,自殺する時くらいでないとできないですよ。それを自殺にやや近いくらいに自分の体を客体化して踊ったのです。手をひとつ動かすにも,普通ダンサーは中から動かすのですが,完全に外から動かしきった。そういうダンスでした。

『土方巽の舞踏』慶応義 塾大学出版会,2004年,61頁


今文章にできるのはここまで,また更新します.

(2023年5月29日投稿)

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