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40歳になりました。

2020年6月17日(水)。
40歳になりました。この旅も半ばを迎えました。
本日はお休みを頂き、過去の人生を振り返り未来の人生を展望する日にしようと思います。

1.少年時代に何をしていたか

幼稚園時代:
  活発な男の子。毎日友達と田舎(群馬県)の幼稚園の広い校庭でサッカーをしていました。

小学生時代:

  勉強も運動も好きで得意でしたが、性格は内気。
学級委員長に推薦され、嫌だが断れないタイプでした。
ジャズサックスをやってる父の影響でバイオリンを始めるものの、
絶対音感が無く挫折。柔道、野球、バスケを始めて活発に。

中学生時代:
  勉強も運動も好き。特に好きな先生の授業は頑張って勉強しました。
野球部へ入り、この頃の友達は未だに親友です。
友達は多かったですが、女子は苦手でした。

高校生時代:
  人生で一番悶々としていた思春期です。

  大学受験の為の授業がとても退屈で、周囲とも馴染めず日々を悶々と過ごしていました。入学時の成績が上位10位だったのに対し、卒業時は下位10位という結果が僕の高校時代を物語っています。
  グレる事は無く、その分毎日地理の教科書で世界地図を眺める事が楽しみでした。日本の小ささを知り、世界の広さにワクワクし、大陸がパズルの様な形になっている事がとても興味深かったと記憶しています。

  高校3年生の折、偶然中国留学の話を知り、親に相談しすぐに申込み。それが僕の人生を大きく変えるキッカケになりました。
  パスポートを取得し、スーツケースを買ってもらい、父親の運転で人生初の成田国際空港へ。人生初の海外。しかも中国、魔都上海。初めて親元を離れての生活。しかし不思議と不安は無く、楽しみでしか有りませんでした。

2.20代の時に何をしていたか


  20歳の誕生日は確か上海のクラブで友人からカウントダウンでお祝いしてもらったと記憶しています。  

   大学時代はろくな勉強はせず、卒業する時に必死に勉強したくらい。とにかく人生経験が全てだと思い、遊びから学んでいた時代です。
  アメリカ、ヨーロッパ、東南アジア、オーストラリア、インド&ネパール。この辺は20代で旅する事が出来ました。
(写真:カトマンズ / ネパール)

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  20代の青春はほぼ中国へ捧げましたが、1年間ロンドン大学ロイヤルホロウェイ校への短期留学を経験しました。中国だけで無く、ヨーロッパもバランス良く見れた事はとても良い経験でした。イギリスに住んでいる時は毎週末ロンドンのクラブ通いの遊学でしたが、そこで知り得た文化や友人は未だに僕の財産です。

   大学卒業後は上海に残り就職。就職した当時の中国は市場として急成長していて、北京オリンピックや上海万博なども決まりスーパーバブリーでした。そんな時代背景もあり、興味を持った広告業界で職を探し、新卒で日系の広告会社へ入社。その後新規事業の立ち上げに参加しましたが上手くいかず、ADKの上海支社へ転職しました。

  当時のADKは日系の広告代理店の中では規模は上位2社には劣るが勢いが有りました。中国事業へも一番力を入れていたと思います。私は中国語を話す日本人というだけで、いきなりHondaのエコランという大きなイベントの運営ディレクターという責任有る立場で仕事をさせて頂き、毎晩遅くまで働いていました。大変でしたが仕事は楽しかったです。中国人のハングリーさは見習うべき所が沢山ありました。それが今の中国の成長に繋がっている事は言うまでも有りません。

3.30代の時に何をしていたか


  30歳の誕生日はまだ上海にいました。誕生日にたまたま吸ったタバコが偽物でマズく、それ以来断煙しています。それまでヘビースモーカーだったのが嘘の様に嫌煙家になりました。

   当時のADKの上司から、

「お前は上海で中国語を使い働いているが、日本人として見られている。だから今後海外で働くにしても、一度日本で日本人としてのビジネスマナーを学んだ方が良い。」

とアドバイスを貰いました。
  
  30歳でまた人生の転機です。帰国。群馬からいきなり上海へ飛び出た僕にとっては東京は日本ですが外国の様な場所。でも、それも有りだと思いました。

博報堂との出会い
  東京で仕事を探し始めていくつか紹介してもらいましたが、博報堂が人員を募集していました。ちょうど、『中国語が話せて広告代理店での経験が有る人材』を積極採用していた頃でした。わざわざ東京へ赴き面接を受け、1ヶ月後に内定の通知を受けて帰国を決意。博報堂との出会いです。

帰国決定後の2011年3月11日 東日本大震災発生
  上海の自宅のテレビで震災を見ていた事を覚えています。本当に日本が大変な時に東京に住む事が決まりました。煌びやかな電飾の上海から、節電ムードの東京へ引越し、東京が暗い街という印象を受けた事を覚えています。

  博報堂での初日。全てに圧倒されました。お洒落で大きなオフィス、シュッとした上司と同僚、それよりも全ての物事が日本人だけで行われる環境が新鮮でした。異文化の壁が無く、意思疎通のスピードも早く、1つの事から10の行動が出来る人たちの集団でした。

  ここで働かせて頂いた約4年の間に、上海時代からお付き合いしていた日本人の奥さんと結婚し、長男の丈太郎が産まれるなど多くの人生イベントが有りました。

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  そして、それと同じくらい大切な仲間と出会う事が出来ました。在職中は上司に迷惑掛けっぱなしでしたが、退職後の今もチームの集まりに誘って頂ける、とても良い出会いと思い出が出来ました。

親友の突然の死
  結婚式を前に上海からロンドンまでを共に過ごした親友の死の知らせが届きました。彼は僕と真逆な性格で、喧嘩っ早く、女性好きなナンパな性格でした。でも芯がやたら強いやつでリーダーシップが有りました。大学卒業後の進路は分かれましたが、ちょくちょく連絡をとり、お互い刺激し合う関係でした。
  彼の命を奪ったのは、MBA留学中のアメリカでの不慮の自動車事故でした。彼の告別式では友人を代表して弔辞をさせて頂き、前日に徹夜で原稿を仕上げた事を覚えています。

Wieden + Kennedy TokyoとNIKEとの出会い
  博報堂での仕事も慣れた頃。やはり異文化環境で働きたい、クリエイティブな環境で働きたい。と思う様になりました。そんな矢先にNIKEの広告で有名な、まさに『イケてるクリエイティブエージェンシーの代表格』Wieden + Kennedy Tokyo(以下、 W+K)のしかもNIKE担当としてオファーを頂きました。
  しかも新たなボスは日本語が話せないアメリカ人、ライアン。ドラマッチックな展開です。僕の英語力で良く面接が通ったと今となってはラッキーとしか言えません。

  入社前にライアンからの紹介でポートランド本社で働いているS君を紹介してもらい、サンフランシスコ、ポートランド、ニューヨークのアメリカ3都市の一人旅を実行。S君にはポートランドのW+K本社を案内してもらい世界のクリエイティブエージェンシーの聖地を訪問。元博報堂でNIKE本社で活躍するTさんを紹介してもらい、ビバートンのNIKEの本社へも訪問。アメリカで活躍する日本人と出会い、とても強い影響を受けました。

  W+KとNIKEの仕事はやりがいが有りましたが、もの凄くハードでした。まず、W+K社内の異文化感が半端なかったです。中目黒のオフィスに入った途端、そこはアメリカです。言葉も仕事は英語がメインで日本語は日本人同士で話すくらい。クライアントとのメールは全て英語。ミーティングでは日本人向けに分かり易い英語なんて話してくれません。それをピックアップする事に一番苦労しました。

  W+Kでの一番のメモリアルワークは、ジョーダンブランド30周年に行われた記念イベント『NIKE AIR JORDAN ‘MUSEUM 23 TOKYO’』そこでのメインのインスタレーションを担当しました。憧れのマイケルジョーダンがその場に来て、作品を賞賛してくれた事が一番の思い出です。

パリでの育児休暇
  W+Kに在籍の間、次男の丈仁郎が産まれ、1ヶ月の育児休暇を取得。家族4人でパリとミラノの友人宅(ミラノは妻のお友達)へお邪魔し、育児休暇をヨーロッパで過ごしました。これは掛け替えの無い、本当に素晴らしい人生の時間でした。
(写真:ベルサイユ宮殿 / フランス)

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TBWA HAKUHODOとの出会い
  どうやら3年というのが僕の周期の様です。NIKEの仕事にも慣れ、W+Kで他にやりたい仕事が有りませんでした。僕の中ではW+K = NIKEと言っても良いくらいNIKEへ強い想いが有ったからです。そんな時にオファーが有ったのが半分古巣のTBWA HAKUHODO(以下、TH)でした。THは博報堂とTBWAのジョイントベンチャー。博報堂とW+Kでの両極端な経験はこの会社にフィットした様でした(実際は日系色が強い会社でした)。再び博報堂グループに戻るという事で、博報堂でお世話になった皆さまへご挨拶。

オールブラックスとプライドジャージー
  僕が入社して担当した仕事が、AIG JAPANのオールブラックスとのスポンサーシップ業務でした。この仕事は特殊ミッションで、THとしてもAIGとしても、国際広告賞を狙う特殊プロジェクトでした。
  これは伸ばすとレインボーカラーが現れる素材のジャージを創作し 、 ラグビー男子ニュージーランド代表チームのオールブラックスと、同女子代表チームのブラックファーンズがこれを着て、差別との闘いを表明するというプロジェクト。

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  このプロジェクトでカンヌを始めとする世界の広告賞をアカウントディレクターとして受賞。ニューヨークのCLIO国際広告祭のグランプリ授賞式でアップルの広告をスティーブ・ジョブスと共に創った広告界のレジェンド、リー・クロウに会い、「Congratulations! Good job!!」と声をかけて頂いた事が最高の経験でした。
(写真:ニューヨーク 右:Lee Clow)

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  上海の小さな広告会社からスタートした僕の広告業界のキャリアはここでピークを迎えた様です。 

ブラジリアン柔術(Carpe Diem)との出会い
  37歳でブラジリアン柔術という競技を習い始めました。一人で打ち込める生涯の趣味(個人競技)が欲しかった事と、小学生の頃に柔道を習っていた事もあり、柔術に興味を持ち調べ始めた事がキッカケでした。
  始めてそろそろ2年が経ちますが、競技自体とても奥深く面白いのですが、柔術を通じて国籍や職業、年齢も関わらず友達がつくれる。そんなコミュニティー感がとても魅力的です。
  去年から長男の丈太郎にも習わせているので、来年は次男の丈仁郎にも習わせ、いずれは家族で練習出来る日が来る事を楽しみにしています。

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30代最後の旅
  昨年(2019年)コロナ前に30代最後の旅が出来ました。オーストラリアのケアンズへ家族で旅行し、アフリカのケニアとエチオピアへ一人旅へ行きました。

  オーストラリアは老後に移住したいと思ってます。自然も綺麗で政治的にも割と中立なイメージなので。
(写真:グリーン島 / ケアンズ)

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  アフリカは、サファリで野生のライオンを見たかった事と、今後仕事で海外と繋がるならアフリカが良いと思ったからです。今のケニアは、1999年に僕が留学した当時の中国に近い印象を受けましたが、一方で意外と皆がスマホを持ち、電子決済(『M-PESA(エムペサ)』)が進むなど、ITだけ3世代くらい飛ばして進化している印象です。
(写真:マサイマラ国立保護区 / ケニア)

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4.40歳の今何をしているか


  大井町の自宅でこのnoteを書いています。30代最後の夜は瞑想にふけり、今までの歩みを丁寧に思い出していました。この文章をまとめながら改めて思う事は、

  人生は『わらしべ長者』的な究極のノンフィクションコンテンツだという事です。今まで起こった良い事も、悪い事も引っくるめて全てが絡み合い、その時に選んだ選択肢が今の自分をつくり出しているという事。

  そして、社会(他者)から多くの事を与えられ、影響を受ける事で人生が変化しながら進化している事。

  高校生の時に感じていた、偏差値教育から外れる(逃れる)事で競争社会から外れ、僕のオリジナルな人生を歩めている事を実感しています。

『迷ったら人と違う道を行く。』を座右の銘として生きて来ましたが、
今回文章で振り返る事で改めて人生の答え合わせが出来た気がします。

5.どんな40代を迎えたいか


  初心に戻り、''0''から新しい事へチャレンジしたいと思っています。そして、そのチャレンジは今まで僕に多くの事を与えてくれた社会へ還元出来る事へのチャレンジであるべきだと考えます。いつか死を迎える時は社会へ全てを還元し、何も持たない''無''の状態というのが理想です。

  今後、子供達の成長、両親の老後の生活、重くなる社会的な責任、趣味、健康維持など、より複雑な問題が絡み合う年代だと想像しています。なので、自分なりのバランスがとても大事なのだと思います。

(TO BE CONTINUED...)

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