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【小説】窓際のMadam 2

一話はこちら


 家に帰ってからも私は状況を呑み込めないでいた。

 あのあと、マダムは武田さんに手を振って帰ろうとした。私は自分がやましいことをしているわけでもないのに、とっさにキッチンに戻り身を隠してしまった。

 その後、バックヤードですでに私服に着替えた武田さんと顔をあわせたが、彼は何事もなかったかのように話しかけてきた。

「柏木さん、お疲れ様。今日、ちょっと大変だったね。大丈夫?」

 先輩スタッフらしいそんな声掛けだったが、私は内心それどころではなかった。「ああ大丈夫です」とかなんとか実に不愛想な返事をしたにも関わらず、今日の武田さんはいつもより饒舌だった。

「柏木さんって三年生だよね? 就活始まったよね? いろいろ大変でしょ? まあご存知の通り俺は内定取り消しされちゃったようなヤツなんでなんの参考にもなんないけどさ。まぁ無理しないのが一番だと思うよ」

 ――いやいや、武田さん。私が聞きたいのは就活のイロハではない。あなた、マダムとどういう関係なのですか? あの様子だと知り合い?

 ……コミュ力のある人ならこういう時どうやって切り込むのだろうか……。私は肝心な聞きたいことを口に出せずモヤモヤとしたまま下を向いた。その様子を武田さんはどう思ったのか、さらっと「お先にー」と言って帰っていった。

 帰り道、今日の出来事を遥に連絡しようかと思ったが、悩んだ挙句止めた。武田さんはバイト仲間だ。下手な言い方をするとバイト仲間を疑っているようになりかねない。文字だけではうまく説明出来る気がしなかった。直接会って話したい。

 明日も明後日も遥はシフトに入っていない。今思えば、面接の対策のために空けたのかもしれなかった。ネイルサロンだと技術的な試験もあるのかもしれない。

 何度も遥に会っていたのにそんな様子に気づきもしなかった私は自分の鈍さを哀しく思った。

 翌日、いつも通りバイト先へいくとバックヤードに店長がいた。

「あ、柏木さん。ちょっといい?」

 店長に呼び止められるなんてあまり良いことと思えない。かといって無視するわけにもいかない。

「はい……。なんでしょう?」
「んーっと、明日だっけ? 就活のなんちゃらの日。休んでいいよ」

 一瞬何を言われたか理解出来なかった。合説のことは私の中でとっくに話が終わっていたのだ。

「え、大丈夫なんですか? あの……すみません、代わりは見つけられなかったので、シフトには出ようと思っています」
「ん? ああ、聞いてないのか。武田くんが代わりに出られるみたいだから。今日のランチのシフトで彼から言ってきたよ」

 武田さんが……? 武田さんは何故私が休みを取りたがっていることを知っているのだ? 合説の件で休みたいと話したとき、その場には店長しかいなかったはすだ。

 私は昨夜の場面を思い出して武田さんに不信感のような感情が噴き出してくるのを自覚した。その一方で自分の代わりにシフトに出ると申し出てくれた人にそんなことを考えるなんて自分はなんて恩知らずな人間なのだ、という思いも湧き上がってきて頭の中が混乱した。

「あの……店長から武田さんにシフトの件、話してくれたのですか?」
「え? そんなわけないだろ。シフトに入れなくなったら自分で探す、これ基本だよー? 柏木さんこれから就職しようって言うなら少しはそういうこと考えたほうがいいぞ」
「すみません……」
「友達の彼氏に助けられてるようじゃなー……」
「え?」
「え?ってなに? 付き合ってるんだろ? 武田くんと山本さん」


 いらっしゃいませ、何名様でしょうか、こちらの席へどうぞ……いつものトークを繰り返しながら私の頭の中は忙しなく動いていた。心臓は時折バクバクとした。

 遥かと武田さんが……?
 付き合っている?
 そんなバカな。
 店長の勘違いではないのか?

 でもそれが勘違いではないことは私自身が証明出来る。私は土曜のシフトを就活で休みたいことを店長以外は遥にしか言っていない。遥がバイト仲間全員に「萌花を助けてやってくれ!」とでも連絡したならまだしも、そんな可能性はかなり低い。

 遥は昨日も今日もバイトに来ていない。バイト中たまたま話題になって……の線も消えるとなると、二人が少なくとも私が思ってるよりは親しい関係にあることは間違いない。

 「ねー、萌花カレシは?」
 「そんなのいると思うか?」
 「や、萌花可愛いし……」
 「そんなの言ってくれるの遥だけなんだけど?」

 バイトを始めたばかりのころ、一度だけそんな話になったことがあった。「女子同士は恋バナばかりしている」とおじさん達はよく言うけど、私たちはほとんどそんな話をしなかった。バイト中の出来事や日頃の些細なこと、好きなアイドルのこと……。遥とは話のテンポが合ったのでいくら話していても楽しかった。初めて学校以外の場所で知り合った友人で、私は遥との関係が心地よかった。
 
 バイトが終わって、遥に連絡をしてみようかと考えてやめた。

 明日は大事な面接という相手に聞くようなことではない気がした。代わりに武田さんへシフトを代わってくれたことへのお礼の連絡をした。バイト先のグループに武田さんがいたので連絡先はわかった。

 武田さんからは短く「OK」のスタンプと「気にしないで」と来た。

 武田さんは昨日の時点で私が合説の日のシフトのことで悩んでいるのを知っていたのだ。だからわざわざ「就活始まったよね?」などと話を向けてきたのだ。マダムのことで頭がいっぱいだった私は、「明日ホントは合説があって」と相談する事すら思いつかなかった。

 自分で相談してもこないやつのことなんて放っておけばいいのに、武田さんはわざわざシフトの代わりを申し出てくれたのかと思うと、自分の至らなさと情けなさと恥ずかしさが混じり合い私はぐちゃぐちゃになった。何度か大声を出したい衝動に駆られた。
 
 私の中にある〝理想〟と〝現実〟はいつも仲が悪い。双方を歩み寄らせる努力を私がしないからだ。



「あれ? 萌花?」

 ビッグサイトのだだっぴろい会場で、どこから廻ればいいか悩んだあげく、端っこで出展企業一覧を眺めていた私に裕子が話しかけてきた。

 裕子に今更行くことになったとも告げにくく、特に連絡をしてなかった。

「ああ……裕子。結局バイト休めたんだ。連絡しなくてごめん」
「そうなんだ。よかったじゃん」
「話を聞く企業、もう決めてるの?」
「うん、私、基本金融系しか考えてないから」
「そっか……」

 それならば、元々一緒に来ていたとしても、業界さえ絞り込めていない私とは話も合わなかっただろうな、と内心思ったが口には出さなかった。

「ま、お互い頑張ろう。じゃ」

 そういうと裕子は人だかりの出来ている都市銀行のブースへ向かっていった。

 ……せめて数社は廻ろう。いろいろな人に背中を押してもらってやっときたのだ。そう思って私もいくつか気になる企業の前まで向かってみることにした。

 コミュニケーション能力に自信のない私は、企業の人と積極的に会話しなければならない合説にしんどいイメージばかりを抱いていた。ところが実際は企業の人はどこも優しく向こうから声をかけてくれたし、説明時間が決まっていてブースに掲示してあるところもあり、その時間に合わせてブース前に立ち寄ればあっさりと中に誘導されて資料を渡された。

 一日が終わるころには、入口で渡された袋に企業の資料がいっぱいになり、すっかりやり切った感で満たされた。


 家に帰り久しぶりに夕飯の時間に母の料理を食べた。母はリクルートスーツ姿で出かけ、資料を抱えて帰宅した娘を何故か嬉しそうに出迎えた。私はほとんど合説のことは話さなかったが、機嫌が良かった母にデザートまで出されお腹がいっぱいになった。

 食後、今度こそ遥に連絡をしてみることにした。他愛ないやり取りのあと、面接がどうだったかをまず聞いてみた。手ごたえがあったような返事があり、私は自分の今日の出来事について返した。

 その後、武田さんのことを聞いてみることにした。

『武田さんに今日のシフトのこと話してくれたの、遥だよね?』

 打つ瞬間に少しだけ指が震えた。面と向かって話したほうがいいような気がしたからだ。でも合説の話をした以上今日のシフトを代わってもらったことには繋がってしまうので触れないのも不自然に思ったし、お礼は伝えたかった。

 遥からは既読になったあとしばらく返事がなかった。

 30分くらいそのまま経過し、私は次第に不安な気持ちに支配された。連投しようか悩んでいると間抜けな着信音が鳴り、スマホを見た私は背筋に冷たいものが流れた。

『うん、そうだけど。それがどうかした?』

 ――どうかした? という言葉の中に若干ではあるけど、こちらを拒否するようなニュアンスを感じる。

 なんか私はまずいことを聞いてしまっただろうか。
 単に「実は言ってなかったけど、武田さんと付き合っててさ」と返ってくるか、もし付き合ってくることを伏せたいなら「私の面接のことで相談乗ってもらってて流れで……」とかさらっと誤魔化した返事がくるか、どっちかのような気がしていた。後者だったら、遥の話したくないことをこれ以上無理に触れないつもりでいた。

 こんな返事がくるのは想定外で、日中やりきった感を得て上昇していた私のテンションは再び急落した。

 いや、もしや遥はすでに武田さんと付き合っていることを私が知っていると思っているとか……。そこまで考えて、ないな、と思った。仮にそうだとしても「どうかした?」という返事を返すとは思えなかった。

 硬直したまま思案していた私は結局

『おかげで合説に行けたからさ! ありがとう』

 とレスした。既読になったが、それにはスタンプも返ってこなかった。


 月曜日、シフトに入るとランチから入っていた遥と武田さんがいた。そう言われてみると二人は時折目で合図をしているし、恋人と言われたらそうとしか見えない。自分がいかに鈍感なのか……と思う一方で、謎の疎外感が自分を支配した。

 武田さんはともかく、遥は何で教えてくれなかったのだろう。

 寂しい……。でも寂しいなんて感じるほうが間違っている。
 そう思っても、寂しい。

 いっそ店長から〝ドンクサイ〟と言われているほうがマシだ。そう思ってせっせせっせとオーダーを聞きにいき、バッシングして、料理を提供した。
 こういう時に限って、店長は私を貶さなかった。

 休憩に入るタイミングで遥はあがりだったようで、バックヤードで会った。

「おつかれ」

 そう声をかけたが遥からは返事がない。しばらくの沈黙ののち私は思い切ってこう言った。

「ごめん。なんか私、遥の気に障ること言ったんだよね?」

 遥の瞳にはくりっと綺麗なカールがかかった長いまつ毛がある。瞬きするたびに、そのまつ毛がいつも以上に目立って見えた。

 しばらくの沈黙ののち、遥はこう言った。

「武田さんとのことびっくりしたでしょ」

 遥の質問の意味がすぐには理解出来なかった。

「びっくりした、といえばびっくりしたけど……」
「萌花、武田さんのこと嫌いでしょ?」
「……」
「武田さんに萌花が合説なのにバイト入れちゃったって言ってたこと連絡したら、『俺が代わってあげられる。あとで話してみる』って。でも、就活の話したけど、柏木さん黙っちゃって何も返事してくれなかったって言ってた」
「あの……それは、そんなつもりはなくて」

 そんなつもりはなくて、の後が続けられなかった。マダムと話しているのを見て不審になって、とは言えない。

「でも結局店長と話して代わることにしたって次の日連絡があった」
「あの、別に武田さんのこと嫌いとかそういうのじゃなくて、あのときは何て返事したらいいかよくわからなかったの。武田さんが次の日に店長と話してくれたことはホント感謝してる」

 その瞬間、遥が小さくため息をついた、ように見えた。

「武田さん、前は萌花のことほんのり好きだったと思うんだよね、きっと。でも全然相手にされてないって言ってた。私、最初は相談に乗ってたの」

 予想外の台詞に言葉に詰まっていると、遥は唐突に話題を変えた。

「私、結局ネイルサロンの面接落ちちゃった。面接のときはさ、向こうの採用担当者の人も明るい感じで話聞いてくれて『お、これはいけるんじゃね』って思ってた。けど今日メールがきて『採用を見送る』って。見送るってなんだよな、まだチャンスあるみたいじゃない?」
「そうなんだ……」
「前の会社辞めた時の話、いろいろ聞かれたんだよね。適当にごまかせば良かったかな……」
「そ、そんなことないんじゃない? 先輩が性格の悪い人だったんでしょ? ヘタに嘘つくより正直に話して良かったんじゃない?」
「正直ねぇ……。でも結局、私も篤史……武田さんも、ただ正直に生きてるはずなのに、こんなことになってるんじゃん。篤史も入社前に内定取り消されるとか、どんだけクジ運悪いんだって感じだよね。
 私も1社目の性格悪い先輩とのことが、いまだに次の就職の足を引っ張るとかさ……」

 遥は自嘲気味にそう言った。

「でも萌花は、就活真面目にしてなくてもトントンといいとこ入りそうな気もするね。昨日の合説もうまくいったって言ってたもんね」

 遥が武田さんではなく篤史と呼んだ。今までの遥と私の他愛もない会話なら、真っ先にツッコミを入れるところだ。
 合説にしたって、うまくいったわけではない。ただ、この私が想像してたよりは入りやすい空間だった、というだけだ。
 ……でも今この会話はそんなテンションじゃない。

 結局私は遥になんと声をかければいいか分からなかった。

 自覚が全くなかったわけではない。前から武田さんの視線は感じていたし、少なくとも悪意は向けられていないと。
 ただ私自身は自分に自信がないのも手伝って、あまりそのことを深く考えないようにしていた。話しかけられても、あたり障りが無い返答しかしないできた。

 なにが正解だったのか正直よく分からなくなった。


 次の日も遥と同じシフトだった。けれど、遥はほとんどこちらを見ようとしない。
 21時になって、いつものようにマダムが来店した。
 けれど、マダムのサイドメニューがなんだったか、私たちは話題にしなかった。


 年が明け3月になる頃、私の就職活動は本格化した。「シューカツしたくない」などともう言っていられない。私は合説で気になった企業を軸に他の企業の説明会などにも参加するようになった。その中でいくつか、社風や仕事内容が自分に合いそうな企業にエントリーシートを提出して面接も受けた。

 私は就活をメインとするために、年明けからほとんどバイトに入らなくなった。土日などはバイトを入れたが、遥とはシフトが被らなくなった。シフト表を見ると、どうやら遥もほとんどシフトに入っていなかった。正社員の道を模索してまた面接を受けているのかもしれないと思ったが、私から連絡するのは気が引けた。

 武田さんは以前と変わらずしょっちゅうシフトに入っていたが、なんとなく遥が元気にしていますか? とは聞きづらかった。


 ある日、店長から携帯に連絡があった。

「あ、柏木さん?! ごめん、悪いんだけどさ、明日バイト入れない?」

 店長の声は少し緊迫していた。明日は面接が入るかもと思って空けていたが、結局一次で落ちてしまったので空いていた。

「あいてますよ、入れます」
「ホント?! 助かる。頼むよ、武田くんが入る予定だったんだけどさ、連絡がつかなくなって」
「え……?」

 店長によると、武田さんは今日もランチから入る予定だったが、突然連絡もなく来なかったらしい。携帯も繋がらないという。

 ざわざわと嫌な予感がした。

 久しぶりに遥に連絡を取ろうと思った。
 そう思ったが、単刀直入に「武田さんがバイト来てないけどなんか知ってる?」と打ちかけて、はたして遥はそのことを知ってるのだろうか? と考えた。

 知らなかったとしたら、私からの突然のそんな報せに彼女は動揺するかもしれない。
 まずは、「最近武田さんとどう?」とか……? いや、私がその話題を出すことを彼女は嬉しくなさそうだった。これはダメだ……。

 あーーーー!

 私はいつだってこうだ。あーだこーだ、動かない理由を必死に探して、消極的でいい状況をあえて生み出している。

 この性格に自分自身が何よりイライラしているのに、まだそんなことをしている。

 そんなんだから、ダメなんだよ!

 ――私は自分に喝を入れスマホを手に取ると、遥に電話をかけた。



 今晩も私は、きっかり夜の21時に入店した。
 店員さんはいつものようににこやかに「いらっしゃいませ」と声をかけてくれたが、気恥ずかしさもあって軽くそちらを向いた後、いつもの幹線道路に面した窓際の席に向かった。

 私はこの店のアルバイトを大学卒業とともに辞めて、企業に就職をした。

 あの日、私からの電話に遥は出なかった。すぐにメッセージも送ったが、既読にはなったが返事はなかった。

 翌日バイトに入ると、店長はこう言った。

「武田くんから、連絡があった。迷惑かけてすみませんって。このまま辞めるって。まいったなぁ……」
「辞める? どうして?」
「いやぁ……実家の親父さんが急に倒れて、とか言ってたけど。本当かどうかは分からないなー。『動転して電話できませんでした』って言っててさぁ……。で、山本さん、彼女も一緒に辞めるってさ。武田くんについてくんだって。まいったなぁ。
 とりあえず他店から応援頼んだけど、バイト増やさないと。柏木さん、今後も就活空いた時は急でもいいから連絡くれない?」

 店長が私に頼み事してくるなんて珍しい。そのくらい緊急事態なんだろうと思った。
 そして、動転して電話が出来なかったというその理由は、本当なんじゃないかと思った。武田さんはそういうところで嘘をつかなそうな人だった。


 その日の21時、マダムが来店した。窓際の席に向かったマダムに、お冷とおしぼりを持って向かうと驚くべきことにマダムはこちらを見て微笑んだ。

「今日待ち合わせなの。後からもう一人くるわ」

 驚きのあまり私はそのあとなんと対応したかあまり覚えていない。ただ、マダムは「グラスワインではなくデカンタで頂戴」と言い「メニューは後からまた頼みます」とつけ加えた。

 そのうち遅れて白髪の男性が入店すると、マダムを見つけて向かった。

「店長……。マダムが……」
「え?」
「今日はおひとり様じゃありません」
「マダム? ああ、あの毎日来る人?」

そういって店長は客席をちらりと覗いた。

「ああ、ご主人だね。そっか、帰ってきたのかな」
「店長、あの男性のことご存知なんですか?」
「うん、知ってるよ。2年くらい前まではああやって毎日夫婦できてたもん。昔からの常連だよ。なんか、ジャカルタ? だったかそのあたりに、ご主人単身赴任になったって言ってたな。そっか、柏木さん一人でいるとこしか見たことないのか……。あれ、他に知ってる人……、そっかけっこう入れ替わっちゃったからあんまりいないか。武田くんくらいか、ご主人見たことあったの」

 武田さん……、だからあの時……。私は思わず笑いだしてしまった。

 遥とこのことを分かち合いたかった。でも武田さんが〝真相〟を知ってたなら、遥も知っていたのだろうか?
 バックヤード裏でマダムを発見したときの話は、本気で怖がっているように見えたのだけど……。

 マダムはご主人が帰国してから毎日の日課を止めた。その代わり週末のディナータイムにご主人と来店するようになった。


 季節が変わり私はある文具メーカーから内定を得た。自分なりに最大限の準備をして得た内定は私に少しだけ自信をもたらした。

 入社して新入社員研修が終わるころ、会社の帰りにお店を覗くと幹線道路沿いの席がちょうど空いていた。私は思い切って入店してみた。店長も異動になったらしく、私を知る人は誰もいなかった。

 そこから毎日、私は会社の帰りにふらりと寄って、一杯のグラスワインを飲んで帰るようになった。この席に座ってさまざまなことに想いを馳せると、少しだけマダムの気持ちが分かる。

 私の勤め先である文具メーカーは海外との取引もあり、その中にはジャカルタの支社もあった。
 ジャカルタとの時差は日本より2時間遅い。日本の21時頃は現地の19時だ。マダムはきっと、一杯のグラスワインで、海外にいるご主人と繋がっていた。

 私はこのことを、どうしても遥に伝えたくて、今も窓際の席で彼女を待っている。


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