第2章 境界と全体 固有名から離れて

唯物論-観念論の闘争

唯物論と観念論は基本的に認識論の次元に属すが、それが社会思想に反映されると、ホッブスとヘーゲルの対立に相当する、と「西洋政治思想史」に、特に強調するわけでもなく書いてあったのだが、私はそれ以前から唯物論みたいな人と観念論みたいな人、いるよね、という思念がその頃(去年ぐらい)渦巻いていて、それはもしかしたら、左翼と右翼とかもその図式に適応可能なのかもとか思っていた。
唯物論は物を信じ、観念論は観念を信じる。柄谷行人の本に「ヒューモアとしての唯物論」という本があり、まだ読んでいないが、唯物論のヒューモア性はなんとなく分かる。では観念論は「アイロニー」なのかと言われてたら、それはどうか、知らない。
私の直感的なイメージではソクラテス以前は唯物論、プラトンは観念論、アリストテレスは唯物論、中世は基本観念論で、デカルトは絶妙、カントは絶妙、ヘーゲルは観念論、ニーチェ以降は基本唯物論、という感じ。
デカルトとカントがある意味常識的かつ特殊(背理)で、フラ現は、観念論-唯物論という対立に加え、「時間性」も追加しているように感じる。
そして基本的に、考えつつ(主観)、ある(客観)、という背理から、この両極端が生まれる。

唯物論-観念論は、前回まで扱ってきた「鏡像フィードバックシステム」という概念とも関係している。
両者を”唯物論的に”細かくみてみると、おそらく、唯物論とは視覚.触覚.味覚的イメージで、観念論とは聴覚.嗅覚的イメージなのだろう。
さっきからフィーリングで物を語っていることはご了承ください。

ついでに言うと、ヤンキーとオタクの対立も観念論と唯物論の対立と同様かもしれない。

そして、唯物論-観念論とは経済的なものと政治的なものとの対立とも並行していると考えており、ここに、認識論が社会思想に接続する地点であると考える。

そして現代は急激に、唯物論的なもの-経済的なもの、へと接合していることは前回も述べた通りである。

テキストの誤配

前回二つの章では普段からなんとなく「全体性」について考えていること、その「全体性」から、今世紀において潜在的.顕在的に問題化していると思われる事象を言語化し、それに対して私はテキストを書いている、その自分は果たしてなんらかの正義に値するのか、を自己言及.再帰的に問うていた。
哲学は趣味-批評に陥りざるを得ないみたいなことをリチャード.ローティは言っているようだが、少なくともこのプラットフォームで呪詛を並べているようでは届いて欲しい人-宛先にメッセージが届かないことは間違いがない。メディアはメッセージなのである。
勿論、このnoteというサービスを使用するにあたって、日記として、感想文として、批評として、哲学として、使用の「用途」は、このサービスの開発者の「意図」を掻い潜って、如何様にも変幻自在に変更可能である。
勿論、noteをある用途で使用-公開した場合、それを受け取る人も「発信者も意図していない」意図を解読可能なのかもしれない。ウィトゲンシュタインやオースティンが言っていたようなことだろう。
つまりテキストを書く意味を、自己言及的に、一人称的に、懐疑し続けたところで、その意味は独立していないので、意味がない。
やってみないと分からない。

唯物論の優位とは何か?

唯物論的な社会設計は経済的なもの、としてのテクノロジーへ行き着く。
観念論-遅延と唯物論の齟齬によって「ダブルバンド」が発生する。
AIにダブルバインドは多分存在しない。
基本的に近代人はダブルバンドに囚われている。
ジジュクが「そんなものはないとわかっているが、やってしまう」的なことを言っていた。
資本主義も民主主義も共産主義もアナキズムはいずれも「再帰的近代」として、マーク.フィッシャーのいう「憑在論」なのかは知らんないが、いずれも亡霊にすぎない。死体を直視していない。亡霊を祓うこと。

「観光客の哲学」の最後の方で「世界は子供達が変えてくれる」と書かれていた。

私も亡霊になろうとしているのかもしれない。

保守と左翼の差異は歴史の有無にある。世界は白紙からスタートすれば、勝手に良くなっていくものなのか?。慎重にあろうとすること、秩序を保とうとすること、が逆説的に秩序を保たないことがありうるのか?。

そんなことを昨日思っていた。

永劫回帰、階級闘争、そして最後の審判

もし明日死ぬとする。その後、10000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000….
の間に、私みたいな人が生まれる確率は、もし宇宙が無限なのであれば、死は存在せず、私は「永劫回帰」する。
ニーチェは共感を嫌った人だった。私が永劫と回帰すること。私にはとてもそれにyesということはできそうにない。私が、私的なものが、クローン達が、永遠と苦しみ続ける。つまり、そもそも抑圧階級はただ反復している、つまり同じような人が苦しみ続けているのだとしたら?。

この世界はもうすでに最後の審判を終えている。生じたもの-存在があるというその事実が、もうすでに地獄なのかもしれない。そう最近思う瞬間があった。

世界は子供達が変えてくれる、とは親として振る舞い、子を産むという加害性と向き合うことを意味するが、その子、あるいは飛躍して、世界と、どう接するのか。
階級闘争とは世界の連続的な脱構築であり、それは子供達の親的な秩序への反抗である。
抑圧階級が再生産されているだけなのだして、それは親が責任を持って秩序を作り出すのか、子供が白紙からスタートすれば世界は変わっていくのか、私には分からないが、永続的な持続- 反復から生成変化-脱構築の倫理の方へ向かうことが、最後の審判へ抗う方法なのかもしれない。

茂木健一郎と東浩紀 固有名から離れて

しかし、「ファクト.フルネス」には時代はよくなっていると書かれていたし、現在や未来への責任を持つことで現実は改善されていくのだろう。

ところで、抑圧階級の再生産について、述べたがこの話はある脳科学者の話を加えることで飛躍させることができる。

何々的なものの再生産としての地獄というが、そもそも私とは何か?

私があなたへと、あなたが私へと、ユダヤ人へと、蝶へと、徐々に変わっていったらどうか。かつ、言われなくても私の細胞は破壊し続けている。胡蝶の夢。茂木健一郎は「一つの意識仮説」というものを提唱している。電子に固有性はないように意識に固有性はない、と茂木健一郎は言っている。
これは結構やばいことを言っていることが分かるだろうか。虫と私って何が違うの?と端的には言える。人権-メンバーシップの境界が揺らぐ話である。
虫には名が欠けている。ありえないほど緻密な機械仕掛けの計算と共に、ありえないほど生き生きとして、一つ.一回でしかありえないものとして、存在する命。我々は最近多発しているカメムシを殺す時にそう考えたりはしない。
森羅万象は生まれては消え、諸行無常に、永劫と、私-クローンが回帰している。
最後の審判-地獄は全体であった。全体は、部分は、私は、一つでしかなかった。
しかし、我々は近代的個人に拘り続ける。
わたし、あなた、へと、友/敵へと、我々は絶えず、世界に境界線を引き続ける(意識の境界問題)
そして、「唯物論」にも「観念論」にも結局は他者はいない。
ここに「訂正可能性の哲学」および「シミュレーション仮説」が接続する。この問題から私はずっと抜け出せない。

もちろん、「一つの意識仮説」は一つの仮説でありイデオロギーに過ぎないのかもしれない。しかし、この仮説ほど全ての命には寛容であるべき、尊いものとしての価値が存在する、ということを証明するものはないだろう。

「観光客の哲学」では”この”性から解放された、訂正され続ける家族的共同体に寛容の原理を求めた。東浩紀はこのこと(一つの意識仮説)を言っているのかもしれない。

そして、さっき私は「世界は子供達が変えてくれる」という命題について考えたのであった。そして、同書(観光客の哲学)には「子として死ぬだけでなく親としても生きろ」とも書かれていた。秩序-構造を保とうとする親と、そこからの逃走線を引く子供達。どちらを肯定するかにおそらく正解はない。

ともかく、人にいちいち、ラベルを貼らずに、同じものとして、扱うこと。我々は皆家族のようなものなのだから。これを茂木健一郎と東浩紀は伝えようとしている気がする。

最後に

被収容者の内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが強烈な経験となった。この経験は、世界やしんそこ恐怖すべき状況を忘れさせてあまりあるほど圧倒的だった。
 過酷な状況の中でも、山々の風景、沈んでいく太陽と夕景、夜明けなどの美しい自然に感動し、歌、詩、音楽、お笑いなどの芸術を愉しみにしたということです。
 感情が消滅していくような状況だからこそ、心動かすものを求めるのではないでしょうか。感動できること、愉しめることなど、心を動かされることがとても大きなことに思えてくるのでしょう。
 また、心が何かに集中している時には、その分イヤなことも忘れられるということもあるのでしょう。
 希望をなくして心が動けなくなった時には、心動かすものに触れ、夢中になれるものに集中することが、役に立つのかもしれません。

夜と霧

芸術は実はブルシットジョブなのでは?と思っていた節があったが、芸術もまた、力を与えてくれる。

芸術は、何かを代理-表層しているような、何もない空白をカラフルに彩っているような、そんな気がする。

芸術に触れている時が1番幸せだ。

旅も好きだ。

最近は食の喜びが分かってきた。

くだらない日常、非意味的切断としての。

そして青春を求めているのかもしれない。


(いやあ書くと、それ-思考を終えることができるから、スッキリするなあ。)

日常へ



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