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10秒だけ限界を越えろ!

あの日、僕のある箇所が限界を超えた。

都会の駅は全て魔境だ。

同じホームに、異なる行き先の電車が舞い込んでくる。

一度異なる電車に乗ってしまうと
別の遠い場所に連れて行かれる。

間違いを許されない魔境。それが都会の駅なのだ。

元上司は効率性の鬼。

スタスタと早足で歩いていく。

最短で目的地に辿り着こうとする。

僕は基本的にふらふら歩いている。

だから、同行の際は、いつも必死に足をくるくる回して、追いかける。

遠方のお客様とのアポ。

土地勘がない。

僕は事前に乗るべき電車のダイヤを調べ
スクリーンショットをスマホに保存した。

これに乗れば大丈夫。

だが、乗り換えの時、事件は起こる。

上司の歩くスピードが早すぎる。

早歩きと走りの定義は何だろう。これは走っているのではないか?

気だるい腿をくるくる回し、上司の背中を追いかける。太腿大旋回。

ホームに到着。

同じ行き先の電車が佇んでいた。

電車はお別れの挨拶のようにメロディを奏でていた。

これ、乗ったら着くの?どうなの?

上司が一言。

スクショを見返す。この時間ではないぞ。

同じ方向を指し示し、実は途中で違う方面に連れていく
魔境トラップは人生で何回も経験してきた。

え、え、もしかして、違うかもしれません。僕は抑えにかかった。

調べたらいいじゃん。上司が一言。

電車が奏でるお別れの挨拶はクライマックスを迎え、もうお別れが近い。

残された時間は、およそ10秒間。

その日の気分が左右されるぐらいの戦いが魔境にて始まった。

仮に正しくて、乗り過ごせば、もたもたすんなよ。
間違えたら、何で?
と言われるだろう。魔境で鬼と対峙している気分だ。

神様、僕の右親指に10秒だけ特別な力を貸してください。

目をひん剥きながら、Face IDでロック解除。
あ、乗り越えアプリってどこだっけ?
渾身の左スライドを複数回決め、とYahoo乗換案内を見つける。

開く。何とか間に合いそうだ。

あ、休日の遊びに行く予定の乗り換えを検索していた。

到着地を急いで、お客様の最寄駅に設定。

あ、出発は、えっと、この駅はなんて名前だっけ?

パニックで駅名をド忘れした。

高校の体育以来の反復横跳びで
人と人の間をくぐり抜ける。

タラバガニもびっくりの横スライド。

看板を見つけた。出発地を入力。

この反復横跳びをしながら、
検索ボタンをきちんと押すスタミナ。

これが僕に与えられた特別な能力だ。

僕の右親指に休みが必要であれば、
この速さで検索ボタンに行き着くことはなかった。

反復横跳びしながら、上司の元へ帰る。

随分前に電車のお別れのご挨拶は終わっていた。

あとは、扉の前でスマホを見るだけ。






あ。

魔境の地下での戦いは、常に混沌と隣り合わせ。

アプリは僕に道標を与えず、
ただスマホの真ん中で渦が回っていたのだ。

どっち? 上司の一言。

のりまああああああす! 渦待ちの僕はパニックで言ってしまった。

飛び込んでしまった。

扉が閉まっていく姿を見て、切ない気持ちになった。

魔境の禍々しさに飲まれてしまったのだ。

もう一度、渦を覗き込む。

勝った。

右親指、お疲れ様でした。

その日はとても気分が良かった。

商談も上手くいった。

上司もご機嫌で帰りはお酒を奢ってくれた。

「商談前に、もう一回、説明内容すり合わせ出来たの良かったね。」

「そうですね。」

右親指に付着したエシャロット用の味噌を誇らしげにねぶった。

右親指が、10秒の限界を越えようとしなければ、
この素晴らしい日を迎えることはなかっただろう。


↓ご紹介。


今回もとらねこさん企画で書いてみました。

お題は「忘れられない10秒間」でした。普段も僕は魔境を利用していたのですが、怖い上司と一緒にいた分、心がかなり騒ついたのが、印象深いです。

実は、本お題でもう1つ思いついたものがあります。ちょっとこ恥ずかしい内容なので、投稿するかは不明ですが、もしかしたら投稿しているかも知れません。投稿した際には、是非、ご覧いただけると幸いです。

とらねこさん、いつも楽しいお題をありがとうございます!



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