大きな喜びと大きな悲しみと

当時ブログに書いた文章をnoteに載せてみたくなりました。

=2008.02.11の記事=
「大きな喜びと大きな悲しみと」

悲しみの反対は喜びだと思っていた。
でも最近それは違うんだと思うようにしている・・。

悲しい事件や事故がニュースで流れるたびに、やりきれなくなる。もしこれが自分の家族に起こったらとか、自分だったらとか。そんなことを考えると、いてもたってもいられない気持ちになる。だけど、起きてもいないことを心配しても仕方ないし、そんなとき感情を持て余してしまってどうすればいいのか分からなくなる。

人は生まれた以上、最後に大きな悲しみに出会う。それは分かってるけど、ではこの気持ちをどうしたらいいのか。

悲しみの反対にあるもの、それは寂しさだと思う。

出会いがあるから別れがある。それが悲しみの元であるのなら、それを避ければいい。いっさい人と関わり合いにならなければ、きっと悲しくなんかならないだろう。悲しみを避け続けた結果が孤独な人生だとしても、それを望むのなら、その人にとっては幸せな人生だということになる。

でもたいていの人はそれに耐えることができないのだと思う。私もきっとそうだ。悲しみをできるだけ避けようとするなら、その分だけ寂しさが増してくる。それがいやなら、悲しみそのものを受け入れるしかない。

人生の最後に喜びと悲しみを清算できたとして、喜びのほうが多く残っていればいい。そう考えていた。でも最近、それも違うように思えてきた。

喜びが大きければ大きいほど、悲しみも大きくなる。

悲しみを避ければ、喜びもない。喜びと悲しみは相反するものではなくて、一緒に寄り添っている関係なのだと思う。喜びと悲しみとどちらが大きいかは大した問題ではない。大きな喜びを求めるなら、大きな悲しみを受け入れなければならない。その覚悟を持つことが必要なのだと思う。

小さな喜びには小さな悲しみ。大きな喜びには大きな悲しみ。

どちらを選んでも、それはその人の生き方で、どちらも間違いではないだろう。でも多くの人がそれを選ぶように、私もまたそれを選ぶ。

愚かな選択、でも愛すべき選択を。

P.S.
人はどこから来てどこへ行くのか・・。死ぬのがこわいのは、そこから先が分からないから。あの世とか、生まれ変わり、なんて信じないけど、命って不思議なものだと思います。死ぬのがこわいと思うのは当然だけど、生まれるのがこわいと思わないのはどうしてでしょうか?そこから先が分からないのは死ぬときだけじゃなく、生まれるときも同じはず。ではなぜ赤ん坊の頃はこわくないのでしょうか。
赤ちゃんなんだから当たり前だというかもしれませんね。でも不思議なことだと、私は思います。お母さんのお腹にいるのがたぶん何よりも幸せなこと。でもいつかはそこを離れないといけません。生まれて向かい合う未知の世界に対するこわさをやり過ごすため、最初は赤ちゃんという無垢な存在で始めるのかもしれません。いや、もしかしたらオギャーと泣いて生まれるのは、こわいこわい、と泣いているのかもしれませんね。でもお母さんに抱きしめられて安心して泣き止む。そうやって、こわいけど新しい世界を少しずつ受け入れていくのかもしれません。たぶん私たちは忘れているだけ。
死ぬほどこわい思いをするのは初めてのことじゃない。そしてその先に起こる安らぎも・・。人生の最後に、もう一度その時のことを思い出すのかもしれません。今はそう信じたいと思います。

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