あなた誰なの?
noteに何度も書いているのだけど、私は以前はバリバリSNSをやっていた。
出かける、食べる、起きる、寝る、Instagramならポストでも、ストーリーでも、とにかく逐一投稿していた。それがもう生活の一部だったので疑問にも思わなかった。
(節度を持って使うなら本当に便利で楽しいツールと思っている!)
今ではInstagramを止めて一年以上経った。あんなに欠かせなかったルーティンなのに止めたからといってなにも困ることはなく過ごしている。再開する気もない。
ただ、時々、ネットで検索のついでにチラ見する時があって、他愛もない投稿を流し見する事がある。
今日私が見たInstagramの投稿にはこう書いてあり、そこから私が感じ取った思いがある。
よくある、誰かがどこのお店に行きました、というような投稿だったと思う。
「〇〇さんと、〇〇さんとA店に来ています!とっても楽しい時間!」
お店はともかく、〇〇さんと〇〇さんは、私も、恐らくその人の周囲の人意外は全く知らない人であるだろう。何が何だか分からない内容である。それを読み、私は、改めてSNSを止めて良かったなあと感じた次第である。
「あなた誰?」
どこかの誰か、知らない人たち、をみて思うのはこの言葉ばかり。
そもそも自分の人生に必要な登場人物というのは決まっているような気がするが、一度きりの人生なので縁があれば色んな人と出会い刺激を受けたいものである。
しかし人類皆兄弟、というわけにはいかず、関わることなく通り過ぎることの方が大抵である。
それなのに、どこの誰だか分からない人を知る必要はないし、どこの誰かに時間を割かなくても、今自分の周りに居る人たちを大切に時間を過ごせば十分だと思う。
もちろんInstagram始め様々なSNSは遠くの誰かと繋がったり、交流を深めたりするとても良いツールである。
しかしその事に囚われすぎてしまうと、日常生活に必要無い悩みまで増えるかもしれない。知らない場所、知らない時間、知らない人、知らなければ感じなかったモヤモヤもあるのだから。
それに比べ、広く繋がりすぎない、という考えは余計な悩みがない分、気楽さと安心感が得られ心が豊かになるような気がする。
以前の私はInstagramから抜け出せずとても、息苦しかったと思い起こす。思えば毎日得られた情報により、作らなくていい悩みや葛藤、劣等感、嫉妬心、様々な心情が交錯していた。
シンプルになった今の自分には静かな時間と自分自身が残るのみだ。
(情報の)手札は少ない方が楽だし、もし増やしたい時は都度増やせばいい、毎日たくさんの手札を抱えることは、必要のない悩みまで増える事になる、と私は思う。
それぞれのライフスタイルは、SNS投稿派もSNSやらない派も、自分が過ごしやすいよう、好きな事をして過ごせばいいと思う。情報化社会から降りる事は難しいようでとても容易な事であり、降りてしまえば、案外気楽なもんだと、私は言いたい。
つまり「あなた誰なの?」と思うような人に、自分の人生の大切な残り時間を割くなど必要ないという事。
これはどっぷりInstagramにハマっていた私がこの頃感じている事である。
(MacBook)
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