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視野の外

どんなことでも良い。
何かを考え、そのことについて他人とディスカッションするとき、物事を見る視野が狭くて、自分の視点でしか考えずに話していると、相手と話が噛み合いにくい。そのことによって会話の時間そのものが不毛なものになってしまうことも少なくない。

しかし、視野が狭い当人には何故相手と話が噛み合わないかさえ、わかっていないはずだ。だって、当人にとっては見えてる世界がすべてで、相手がその世界の外のことを話していることなんて考えてもみないのだから。
大蛇の上に大きな亀が乗り、さらにその甲羅の上に無数の象が並んで地平を支えているという古いインドの世界観が妄想であるのと同じくらい、視野が狭い人たちの見ている世界は、現実離れしてしまっているのだが、昔のインド人たちが蛇と亀と象が支える世界を真実の世界だと思ったように、視野の狭い人も自分が見ている世界がすべてだと信じているのだ。

だから、自分の見ている世界の外に、別の世界があるのを想像だにせず、何故自分のことが認めてもらえないのだろうか?と悩む人は少なくない。
でも、それは悩んで嘆いても仕方がないことだ。それよりも早いところ、自分の視野の広さに限界があることに気づく必要がある。

他者へのリスペクト

視野が狭くなってしまう人は、そもそも自分の外側にあることへの関心が低い。
そして、他人(特に自分と違うタイプの他人)に対するリスペクトや関心が持てない。
結果、自分の狭い価値観の範囲でしか物事の価値を認められないから、視点がすごく限定されて発想が狭まってしまって、議論が発展しなかったり、新しいアイデアを生むのが下手だったりする。

新しい発想を生む方法というのは、いかに異質なもの同士をつなげてそれまでとは異なる形態、機能を考え出すかということだ。
経済学者のシュンペーターが20世紀の初頭に「新結合」という名でイノベーションを定義したが、それも既存の要素をこれまでとは異なる新しい形で組み合わせて、ビジネスを生むことを意味していた。

つまり、新たなことを考え、生み出そうとしたら、自分がすでに持っている組み合わせにこだわってはダメだということだ。いかに自分の外を見て、自分のそれまでの発想にはなかった組み合わせを考えてみる必要がある。
しかし、視野の外の世界を認めない限り、そもそも新結合が何かを理解することもできないだろう。

新結合をはじめ、新しい物事を考えるためには、まず自分の考えへのこだわりを忘れて、外の考えへのリスペクトから新たな視点を取り入れることが必要だ。
だが、自分の考えへのこだわりを捨てるということは、外の世界があることが見えていてもむずかしい。ましてや、それが見えてもいなければむずかしさは最高点に達するだろう。

自分の外に出られない人は「自分のことを認めてほしい」「ぜんぜん自分の意見が認められない」と考えてしまう傾向があるが、それはまず自分自身のほうが他者を、相手を認めようとしていないからではないだろうか。
認めてほしい感をもってる人は、一向に他者を見ようとしない態度で、自分のことばかり主張する。だから、結局自分のことも十分に認めてもらえないのだが、けれど、それが自業自得だということにさえ気づけないくらい、自分の外も含めた形で思考というものができていないのだ。

参加する人たちはそれぞれ他の参加者の思考の文脈をそれぞれリスペクトしあいながら議論しているときに、ただ1人でもまわりの話を相手の文脈に立って理解しようとせず、ただ自分の文脈でのみ理解しようとして、まったく理解できなかったり誤解をしてしまったままでしか会話ができていない人がいれば、まわりは対処に苦労してしまう。それで当人が「自分の意見は聞いてもらえない」といった態度を示そうものなら、もはや手に負えない。
だって、最初からすでにリスペクトをもって耳を傾けてるのだから。
それを当人が自分以外を認めようとしないで会話に参加できないだけだから、「自分のことは全然認めてもらえない」と勘違いしてしまうなら、もう手に負えない。

自分の文脈の外へ

理解するということは文脈を理解するということでもある。
他者をリスペクトし、相手の話を理解しようと思えば、他者の話している文脈ごと理解しようとしないといけない。

それには、自分の文脈がいったんは邪魔になる。
自分のことしか考えていない人は、この「いったん自分の文脈を忘れて」「他者の文脈を理解する」ができない。

だから、他者の文脈を配慮することができず、それとは異なる自分の文脈のまま、他者の話を聞いて判断しようとする。相手と自分の生活や立場、その他諸々の状況、条件の違いという文脈の相違を考慮しないまま、ことばの表面だけ聞いても、相手を理解できるはずがないし、その文脈の違いを考えて話さないと自分の考えもうまく相手に伝わらない。

他者へのリスペクト不足はそうやって自分自身をさらに閉じこめ、自分の立場を苦しくさせてしまう。
だから、早く、外に目をむけ、自分以外の人たち、自分が普段関心を示さない事柄にもちゃんとリスペクトをもって取り入れようとしてみないといけない。
そのリスペクトの心をもって外から取り入れたインプットも含めて、あらためて自分の中でそれを再構成してみたりすることが必要だ。

視野を広げてみないと、なかなか新しい発想にはたどり着かないというのは、そういうことだ。

アップデートではなくオルタナティブを

「芸術とは、自然的、経験的、日常的な現象世界突破する試みであり、その〈背後〉にある根源的なものを暴き出す試みである」と書くのは『形象の力:合理的言語の無力』のエルネスト・グラッシだ。これまで、たくさん読んできた本の中でも特に影響を受けた本だといえる。
「自然的、経験的、日常的な現象世界突破する試み」、つまり、「外に出る」試みだろう。アート・シンキングなる言葉が聞かれるのも芸術のもつこうした日常的な現象世界の外で考える力が新しいものを生みだすためには有効だからだろう。

グラッシはこんなことも書いている。

芸術家は常に新たな可能性を示す緊張した現実の証人であり、人間の本質と人間の世界を形成する挫けることなき精神の自由の証人であり、あらゆる解釈済みのものと制度化されたものの否定者である。この意味でボードレールは特殊なアクセントを置いて〈新しさ〉の機能を顕彰したのだった。〈新しさ〉は驚愕をよびおこし、不安に陥れる、というのもすでに解釈済みのものをもっと遠く地平の向こうへと押しやり、疑問を掻き立て、ファンタジーを刺激するからである。

そう。新しさには不安がつきものだ。
自ら慣れ親しんだものを遠く地平の向こうへと押しやる行為で、それはつまり、普段の寄って立つ基盤を自ら放棄して、何の保証もないところで新たに思考や論を組み立てるという行為なのだから、不安で当然である。

しかし、その不安を受け入れなくては、既存の延長としてのアップデートではない、ゼロからのスタートが求められるオルタナティブな創造行為ははじめることさえできない。

ボードレールについてグラッシはこんな風にも言っている。

その常にひたすら求めるところは人間の目標を達成するための〈手段〉に過ぎず、決して現象に究極の意味を与えず、そのため人間を現実の緊張の外で漂うにまかせるのだから、現代テクノロジーの目的指定された現実は真の枠を持たず、真の〈傾向〉を持つことがない。そこに現れる、さればこその〈退屈〉。ボードレールが名指したのはこれである。もはや根源的意味へ誘うものは何もない、枠を失くした生活におけるこの退屈の耐え難さこそ、ボードレールを悩ませた問題である。それゆえだろう、彼はこのような生活の虚構の現実を拒絶し、これを芸術によって克服して、根源に達しようと望んだのだ。

ある意味、ここで示されていて、ボードレールを悩ませ、拒絶させた〈退屈〉な、真の枠も傾向ももたない現実というものこそ、「外に出る」ことのない閉じた世界だ。その世界は常に「人間の目標を達成するための〈手段〉」であるゆえ、はじめに設定された目標以外のことは起こらない。
他者が別の目標を持ち込もうとしても機能しないし、その世界の住人が新たな目標を設定することもできなくする。ただ、ひたすら初期設定された目標自体は更新されないまま、その目標そのものへの退屈な進捗があるくらいだ。

だから、そこにはオルタナティブなものが入るこむ余地はない。
虚構の現実はそのことにより、安定を得られるようにできているのだから。

自分の思考を理解しよう

さて、他人のこと、あるいは、自分の視野の外・自分の解釈の外にある世界のことを理解しようとしたり、考えようとしたりできないのは、そもそもにおいて、自分について、自分の思考について、その人がよくわかっていないからだと思っている。
自分自身の思考とその結果の関係性というか、考えるということにおける自分の頭の中の仕組みやロジックがうまく捕まえられていないと、議論などの際にも相手と自分の論の相違とその理由を明らかにすることができないんだろうと思う。そもそも、比較の基準となる自分の側さえ、見えていなかったら相手のことなどわかるはずもない。

普段からちゃんと考えて考えようとしていないから、自分がどういう風に考えれば発想が生まれやすいか、逆に、どんな風にすると思考の袋小路にはまって出られなくなるかとかがわからない。
うまく考えをまとめるためには、どんな風に情報収集をし、集めたデータをどうやって使って考えを組み立てれば、考えがよくまとまるかだったり、集めた情報から新しい発想が生まれるときには、どんな頭の使い方、作業の仕方をしているのかといったことに関心をもっていないから、いつまでたっても考えることが上達しないし、同じ失敗を繰り返す。

思考停止というが、そもそも思考が動いたり止まったりというのは意識できてるのだろうか?
何らかのダッシュボードがあって、思考に関する様々な動きや状況を計測し、思考がうまくいくようにコントロールできるような目安を自分なりにもてているだろうか?

そんな風に、自分の思考やそれに基づく様々な行動、そして、その結果に関心をもって、「ちゃんと考える」ことを普段からしていないと、そりゃ、他人のことなんてもっと関心がもてないだろう。
しかし、グラッシが言うように「自分の環境に生きる」動物と違って、人間は自分の環境というものをあらかじめ持っているわけではなく、「世界を持たない」状態がデフォルトで、「人間は自らを〈形成〉しなければならない」のだとすると、一度、考えもなくなんとなく「自分の世界」ができてしまい、それがどうやってできたかもわからなけば、その世界で自分の考えや感情がどんな風に変化する傾向がわるかもよくわかっていない人にとっては、一度できた「視野の狭い」世界というのはもはや牢獄のようなものだろう。
ボードレールのいう〈退屈〉だけが存在する偽りの世界だ。

けれど、偽りであろうと、そもそも人間は自ら〈形成〉した世界=自分の中に行きている。視野の外に出られないというのは、自分の外に出られないこということであり、自分を外に出すことができないということだ。あらかじめ計画されている目標に向かって(それは死だろうか?)、ただひたすら退屈な進捗を重ねていくしかない。

ようするに、世界=自分である。
良くも悪くも世界は自分の中に囚われてるし、自分は世界という牢獄に囚われている。
けれど、その世界=自分の広さは人それぞれだろう。広さがあれば他人と世界を交わらせられる。狭いと本当に世界にひとりぼっちだ。

そこら抜け出したければ、まずは自分の思考、自分が閉じ込められた世界のことを「ちゃんと考える」ことをするべきだ。抜け出すべき範囲が理解できてなければ、何から抜け出せばよいかわからない。抜け出す範囲がわかり、外に興味がもてれば自分=世界が広がっていく。

けれど、それは決して「自分探し」ではない。
むしろ、安定した自分=世界を破壊する作業である。

ランボーはかつての先生イザンバールに宛てた有名な手紙の中で〈見者〉たる詩人について語っている。この者は、リアルな現実、すなわち確固としたものの圏内の背後にある原現実の視界に達するために、それらを拒絶し突破する晴れやかな任務を帯びているのであると。

これは詩人に限ったことではないと思う。
人それぞれが「リアルな現実、すなわち確固としたものの圏内」を「拒絶し突破する晴れやかな任務を帯びている」のである。

何かにすがろうとするのはやめよう。
むしろ、すがっているものを拒絶し突破することを考えよう。
不安定ばんざいだ。ただ、変化し動き続けていれば、寄って立つ土壌が不安定かどうかなど、そもそも気になりはしない。


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