また会って話したいから、守りたい店を守った。
コロナが奪い去ったもの、変えてしまった風景はたくさんある。
「ニューノーマル」という言葉も出てきたが、そんな世の中だからこそ思い知らされた、これまでの日常の有り難みもあると思う。
人と人が会って言葉を交わすこと。その過程での心の動き。その場があること。
これは「会って話す場所」を守るために、力を合わせた人たちの話。
創業70年の危機
2020年11月某日。私は東京・早稲田にいた。
向かった先は、早稲田大学の目の前にある喫茶店「ぷらんたん」。
色褪せたドアを開けると、カランコロンカランとベルが鳴る。この音を聞いたのは、二年ぶりくらいだろうか。
煎られた珈琲豆の香りが、じんわりと鼻腔に伝わる。
「いらっしゃい、久しぶりだね」
「どうも。二階上がります」
マスターとママに軽く挨拶して、二階に上がった。
住んでいる岡山県から東京に来たのは、親類の結婚式があったからだ。その前日、私は早稲田を訪れた。学生時代を過ごした、思い出の街だ。
街そのものがキャンパスと言っても過言ではない、活気のある街。街の半分がラーメン屋と安酒場で出来ている。いつ来ても汗と涙と酒の匂いがする。
そんな学生街の一角にあるぷらんたんは、実家のような店だった。
ぷらんたんは「南門通り」という、大通りからキャンパスへ続く、一方通行の道沿いにある。1950年に創業し、時代を超えて愛された老舗だ。
「タモリや吉永小百合も来ていた」と噂されているが、真相は誰も知らない。それくらい、この街で過ごした無数の人々の、話のタネになるということだろう。
ちなみにNHK「ブラタモリ」の第一回で、タモリは早稲田に来て、突然ぷらんたんを訪問したらしい。その場面は綺麗にカットされている。
店を切り盛りしているのは、初老の夫婦。マスター・ママと呼ばれ親しまれている。地方から上京した私にとって、二人は「早稲田の両親」だ。
大学3年の頃、先輩に連れられて店に入り浸るようになった。マスター・ママとも顔見知りになり、いつの間にか店が居場所になっていた。
久々に訪れたぷらんたんは、以前と様子がちがった。
まず、店に人がいない。元々、ランチの時間帯を除けばお客さんがまばらな店ではあった。
だが、お昼時にもかかわらず誰も人がいなかった。
外に目をやると、以前は学生で溢れかえっていた歩道に人影はなく、街中から人が消えたような静けさだった。
なぜ人がいなくなったのか。
2020年度、早稲田大学はコロナ対策として講義をオンライン化し、課外活動も制限した。
大学を中心に人が集まる早稲田の街は、大打撃を受けた。緊急事態宣言が解除されても人が戻らず、閉業を余儀なくされた店もある。
その波はぷらんたんにも及んだ。
注文したランチセットが届く。パスタに飲み放題の珈琲が付いて700円。
パスタで胃袋を満たしたあと、珈琲で喉と鼻を潤しながら、日が暮れるまで本を読む。それが学生時代から変わらない過ごし方。
学生時代、ここにいると、外界と異なる時間に身を置いているような安心感があった。チェーン店にはない血の通った温かさ。
あの頃と変わったのは、店でそれぞれの時間を過ごす、学生さんがいないこと。祭りの後のような寂しさに、無力さを覚えた。
パスタを口に運んでいると、マスターがやって来た。
マスターも早稲田の卒業生。総合商社のサラリーマンや珈琲店経営を経て、前オーナーから店を受け継いだ。4代目に当たるが、創業家ではない。
「店の雰囲気は学生が作るもの」というのが、マスターのこだわり。珈琲一杯で長居しても、嫌な顔をせずに居座らせてくれた。時にはマスターも会話の輪に加わって、ああだこうだと目的のない会話を一緒に楽しんだ。
昼は喫茶、夜は宴会で、ぷらんたんは誰かと話す「場」を与えてくれた。
「店はどうですか、なんとかなりそうですか」
マスターに聞いてみた。
「やばいね、どうにもならない。このままだと」
あまり愚痴や弱音を吐かないマスターが漏らした言葉に、深刻さが漂っていた。
一年を通して、大学のイベントも取り止めになった。
3月の追い出しコンパ、4月の新歓、8月のオープンキャンパス、11月の学園祭。一年のなかで、店が輪をかけて活気づく日々が消えた。
収益減は例年の7割以上。閉業の瀬戸際に立たされていた。
「クラウドファンディングしようかな、どうだろ」
ぼそっとマスターが聞いてきた。
クラウドファンディング。インターネットを介して、不特定多数の人から資金を集める手段であり、コロナで困窮した様々な業種で行われていた。
まさかマスターの口から「クラファン」が出てくるとは思わなかった。
「いいじゃないですか!やるなら私も応援します」
何もできない無力さを晴らしたくて、マスターと一緒にクラファンについて検索してみた。
調べれば調べるほど、クラファンを運営するには相当な手間と時間を要することが分かった。
時系列でいえば「準備期間」「実施期間」「(リターンの)配送期間」の三段階があり、数ヶ月から一年程かかる。その間に、プロジェクトページを作り、それを多くの人に周知させ、支援金を集め、終了後はリターン品を製作・発送しなければならない。
喫茶店営業と並行してクラファンを運営するのは、マスターとママにとってあまりにも負担が大きい。
私も一緒にクラファン運営をしたいが、岡山に住んでいる。誰か現地でマスター・ママと伴走してくれる人が欲しかった。
何より、クラファンそのものが必ずしも成功するとは限らない。
「どうしましょうかね…とりあえず、また何かあったらいつでも連絡ください」
このまま店が無くなったら、一生後悔する。でも、どうしたらいいか分からない。
来た時よりも重く感じたドアを開けて、店を後にした。
ぷらんたんプロジェクト始動
翌月、マスターから連絡があった。
「クラウドファンディングだけど、学生さんが一緒にやろうと言ってる。田中くんもどう?」
まさに渡りに船だった。
クラファンを発案したのは、早稲田大学の講義「たくましい知性を鍛える」(大隈塾)の学生さんたちだった。
「たくましい知性を鍛える」は、講義運営を学生自身が担うめずらしい講義で、講義内で自らプロジェクトを立ち上げて運営するPBL(Project Based Learning)という学習を行っている。
「たくましい知性」とは、田中愛治総長のスローガンでもある。
その中の学生グループ6人が、「大学周辺の飲食店をサポートしよう」と立ち上がり、ぷらんたんに声をかけたらしい。
私も学生時代、「たくましい知性を鍛える」に関わっていたことがあった。その縁もあり、学生さんたちは快くメンバーに入れてくれた。
こうして「ぷらんたん存続プロジェクト」は動き始めた。
クリスマスも年末年始もそこそこに、メンバー達で手分けしてプロジェクトを進めた。
このプロジェクトを先頭に立って進めたのが、政治経済学部二年(当時)の吉留寛人くん。イケメン。優男。頭脳明晰(東大落ち)。
東京では彼を中心に、学生さんたちが動いていた。
コロナで対面講義がなくなり、思い描いていたキャンパスライフが出来なかったメンバーたち。彼ら彼女らの表情のすき間から、時おり不安や無力さが見えた。
そんな気持ちが、彼ら彼女らの原動力だった。マグマのように溜まっていた負のエネルギーを、プロジェクトにぶつけていた。
岡山にいる私は、オンラインで東京のメンバーたちとやりとりし、主にクラファンサイトに載せる文章や画像の作成を担当した。
目標金額は500万円。
集まった支援金で、コロナ禍の損失を補填し、目標を上回る支援が集まった場合は、老朽化した店舗の改修費に使うことにした。
クラウドファンディング開始を1月30日とし、募集期間は45日間。媒体はREADYFORを利用することにした。大学時代の友人が勤務しているのと、飲食店を応援する特別プログラムがあったのが、決めた理由だ。
1万2千いいね
年が明けてしばらくすると、再び緊急事態宣言が出された。先が見えない感染症の猛威に、恐れおののく日々が続く。
そんな中でも迷わず突き進んでいられたのは、リーダー吉留くんの熱意と、学生さんたちの前向きさのおかげだ。
着々と準備を進め、公開1週間前の1月23日に、初めて公にクラファンを知らせた。
その日に開設した、店のTwitterアカウント。クラファンを知らせる投稿が、大反響を呼んだ。
鳴りやまい通知。秒単位で増えていく「いいね」とリツイート。スマホが壊れそうな勢いに、嬉しさよりも恐怖を覚えた。
1万以上の「いいね」があり、大きな自信が湧いた。さすが70年受け継がれてきた店の信頼は伊達ではなかった。
これを聞きつけた毎日新聞さんが記事にしてくださり、クラファン前から支援の申し出が絶えない状態になった。
1月30日。プロジェクトページを公開した。
クラファンチームが結成されて約2カ月。時間と労力をかけて、みんなで作ったページだ。
文面は私が叩き台を書いて、それを皆で意見を出し合いながら加筆・修正した。写真はカメラを持っているメンバーが撮影した。
最後はライターをしている友人の「むらやまあき」さんにチェックをお願いした。彼女の柔らかい筆致が加わったことで、店の温かな空気感を演出できたと思う。(あきさん感謝しています)
ぷらんたんに縁がある著名な方々にも、ご協力をいただいた。
「朝まで生テレビ」でお馴染みの田原総一朗さん、フリーアナウンサーの岡副麻希さん、落語家の立川談笑師匠から、応援メッセージを頂戴した。
みんな店に来たことがある方々。「クラファンを頑張っているなら」と、快く依頼を引き受けてくださった。
運営メンバーもメッセージと顔写真を載せた。吉留くんが代表して、プロジェクトに懸ける思いを綴った。
クラファンの準備期間、彼とzoomで打ち合わせしながら、しきりに言っていたセリフがある。
「このプロジェクトを早稲田の総力戦にしたい」
世代を超えて、みんなが一つになって一つの店を守る。その一体感を生み出そうとしていた。70年続いたぷらんたんの歴史を、学生街の喫茶店文化を、ここで途絶えさせるわけにはいかなかったのだ。
我々の情熱が伝播したのだろうか。公開したその日に100万円以上が集まり、翌日には300万円ちかく集まった。
クラファン運営では「公開後5日以内に目標の20%を超えないと、目標達成できない」という掟がある。
想像をはるかに上回る支援の勢いに歓喜し、店の存続が危ぶまれていた頃の不安はどこかへ消えていた。
開始から1週間が経過した2月6日。ついに目標の500万円に到達した。
まさか、こんなに早く達成するとは思わなかった。45日間かけて集めるはずだった目標金額を、わずか7日で達成してしまったのだ。
この支援の勢いが、大きな話題を呼んだ。
東京にいる学生さんたちは、メディアの取材対応に追われ、在京キー局がすべて取材に来るほどだった。
これで当面の間は店を続けられる目途が立ったが、まだまだ手綱を緩めるわけにはいかなかった。
コロナがいつまで続くか分からない。コロナが収束したら、店をもっといい状態にしてお客さんを迎えたい。
そんな思いで、ネクストゴール700万円に挑戦することにした。
ネクストゴールで集まったお金は、店の改修費に使い、老朽化した店舗をリニューアルすることにした。
この時、「あと30日もあれば、何もしなくても700万円集まるだろう」と、私もメンバーも楽観的に構えていた。
これが後に大きな誤算になるとは、まだ誰も知らなかった。
ネクストゴール
クラファン開始から3週間。
以前ほど支援が来ない。
あの頃の勢いはどこへ行った。
そんな焦りをみんな感じていた。
第一目標の500万円を達成後、大きな波がさーーーっと大海へと引いていくように、静寂になった。
最初があまりにも華々しいスタートだったからか、日が経つほどに注目が集まらなくなった。支援金が0円の日もあり、次第に緊迫感が強まった。
メディアに散々取り上げられた反発もあったのだろうか、心無い声も目にするようになった。
「たかが喫茶店だろ、閉店しろよ」
「どうせ早稲田だから成功するんだ」
「応援していたけど、ネクストゴールを始めてテンションが下がった」
ネットに寄せられた、顔も名前も分からない誰かの言葉が、自動音声のように脳内で反芻した。
コロナで多くの事業者が困窮する中で、自分たちだけ多くの人から支援をもらったことに、うしろめたさがあったのは確かだった。
とはいえ、ネクストゴールの700万円を掲げた以上、ここで集まらなかったら「失敗」の烙印が押されることになる。
どうすれば達成できるか、思案に明け暮れた。
「一肌脱ぎます」
支援が伸び悩んだまま、3月になった。
600万円は2月中になんとか集まった。あとは残りの2週間で700万円に達しなければならない。
焦りを感じながらも、我慢強く呼びかけを続けるしかなかった。
そんな時、頭の片隅にあった、ある人たちのツイートを思い出した。
クラファン開始冒頭の2月に見かけたツイート。今野良介さん(以下今野さん)という、どうやら編集者をされているらしい方の投稿が、忘れられなかった。
今野さんは、アイコンの写真がとても厳つい。ジェイソン・ステイサムかと思った。だが文章がとても繊細で、読んでいると頭の中に絵が思い浮かんだ。その不釣り合いさが不思議だった。
もっと不思議だったのが、その投稿に対するある方のツイートだった。
どうやら「一肌脱」いで「金粉塗」ってくれるらしい。金閣寺のような装いで早稲田の街にそびゆるぷらんたんを想像した。
マスターに確認すると、3月1日時点で誰かが店に金粉を塗りに来たという事実はないことが判明した。マスターとしては、「金粉も嬉しいけど支援金を振り込んでくれるほうが助かる」ということだった。
田中泰延さん。青マークが付いているけど有名な人かどうかよく分からなかった。
このツイートを見た2月は、クラファン開始直後でやることが山のようにあった。個別に対応はできなかったが、この二人のやり取りは忘れられなかった。
二人のことをGoogleで検索してみた。
今野良介さんはダイヤモンド社の編集者であり、重版本を連続で世に送り出している売れっ子編集者。
田中泰延さんは元電通のコピーライター。「やすのぶ」かと思ったら「ひろのぶ」だった(以下ひろのぶさん)。
2019年に今野さんが編集し、ひろのぶさんが書いた『読みたいことを、書けばいい。』という本が、16万部を超えるベストセラーになった。
今野さんのTwitterフォロワーは約8千人、ひろのぶさんは約6万人。数字を見ながら、ある思いが浮かんだ。
「この二人が拡散してくれたら、この二人が応援メッセージをくれたら、ラストスパートで支援が集まるかもしれない」
だけど、それは二人の影響力を都合よく利用することだ。邪な気持ちでお願いをするのは、誰も幸せにならない。
まずは、二人が世に出した『読みたいことを、書けばいい。』を読まないといけない。それを読んだうえで、本当に私が心からお願いしたいと思ったら、依頼しようと決めた。
私は地元の本屋に立ち寄り、目当ての本を手にした。
読みたいことを、書けばいい。
『読みたいことを、書けばいい。』は、書店の「文章術」棚にあった。
てっきり文章を上手に書くための方法が、見本市のように羅列してあるのだろうと思いきや、そうではなかった。
「文章をどう書くか」のハウツーを伝授する本ではなく、「そもそも文章を書くとはどういうことか」を一緒に考えさせてくれる本だった。
この本が扱う「文章」は「随筆」を指している。
ひろのぶさんによると、「随筆」は「事象」(外部の出来事)と「心象」(それを見て動く心の動き)が交わる点にある文章と定義している。
我々のクラファンに当てはめると、「コロナで存続が危うい、喫茶ぷらんたん」が「事象」であり、「店を遺したい、支援がほしい」が「心象」だ。
では、それは誰のためにあるのか。
「自分に向けて書く」という言葉に、目を開かされた。それは「あんた、いったいなんのためにクラファンやっとるんや?」と、大阪出身のひろのぶさんが関西弁で迫ってくるような圧迫感があった。
なぜクラウドファンディングをしているのか。それまで、「ぷらんたんのため」とか「マスターとママを悲しませたくないから」と表向きには述べていた。
「○○のため」という文句は、とても崇高で聞こえがいい。
だがそれは、時に自分の本音を押し殺して辛くなったり、他者を精神的に支配する状態になる。そうなると、誰も幸せにならない。
「店のためにいいことをやってあげている」「これをやることで誰かから認められたい」と、気持ちの底に偽善や承認欲が潜んでいるのを、ひろのぶさんに看破された気がした。
クラファンに関わっている本当の理由。それは「ぷらんたんが無くなったら自分が悲しいから」だ。
自分のために、自分が愛と敬意を抱いた事象(ぷらんたん)について書く(クラウドファンディング)。結果として、それを読んだ人におもしろいと評価してもらう(支援)。それでいいのだと、気が楽になった。
これまで10冊以上の「文章本」を読んできたが、「書く」という行為そのものを、こんなに平易な言葉で広く深く綴っている本は初めてだった。買ったばかりの本が、蛍光ペンと付箋で手が加えられていく。
我々のクラファンは500万円を集めて、あらゆるメディアに取り上げられる大金星を上げた。それは十二分に、社会の誰かのためになったとみなしていいだろう。
あとはラストスパートに向けて、クラファンを「自分のため」と同じように思ってくれる誰かの力を欲していた。
この本を世に送り出した今野さん。
元をたどればひろのぶさんのweb連載の読者で、読んでいるうちに「正直な書き手が増える」本を作りたいと思い、ひろのぶさんに依頼をした。
あくまでも、「今野さんが読みたい本」を、自分自身のために作った。
出版の世界はよく分からないが、市場を通して世に出た以上、市場で評価され購入してもらえなければ、商業的に成立しないだろう。
そのためには、最大公約数的に受け入れられるような小細工や、著者が書きたいことを歪曲する必要も、あるのかもしれない。
だけど、今野さんは自分のために本を出した。結果として、それが16万部のベストセラーになった。
クラファンの準備段階で、他のクラファン事例を参考にして、それらしい正解を真似てばかりだった自分を恥じた。
今野さんとひろのぶさん。この二人のツイートを読んで、私は二人を知った。そこにどんな意図があったのかは分からない。だけど、ぷらんたんに何かしら思いがあることは伝わった。
だとしたら、二人が書くぷらんたんへのメッセージとは、いったいどんなものなのだろう。それがあれば、私は読みたい。だけど、まだこの世にない。140字内のツイートと、「一肌脱いで金粉塗る」だけでは足りない。もっと読みたい。
いつの間にか、私は二人に向けたクラファン協力の依頼文を書いていた。
守りたい店を、守ればいい。
クラファン終了まで残り2週間。
今野さんとひろのぶさんに、Twitterからダイレクトメッセージを送った。
正直に「ぷらんたんのために」ではなく「二人が書いたぷらんたんへのメッセージ」を「私が読みたいから」と思いを伝えた。二人が書きたいように書いた文章を、読んでみたかったのだ。
字数制限は200字だが、もしもそれ以上書いてくださった場合は「応援メッセージ」ではなく「応援エッセイ」として掲載するともお伝えした。
ひろのぶさんには「1万字書いてほしい」とお願いして「それは無理ww」と却下された。石田三成について書かれたエッセイが、それくらいの文量があったからだ。さすがに会ったこともないプロのライターに失礼だった。(ひろのぶさんすいませんでした。)
それでも、二人とも快く引き受けてくださった。プロジェクトページ用の応援メッセージを書き、クラファンを拡散すると約束してくれた。
突然会ったこともない男から「文章を書いて」と厚かましい依頼がきても、「書く」と返事をくれた二人の度量が有り難かった。
応援メッセージだけでなく、支援もしてくれた。支援者の名前が入った額縁が店内に掲示される「名前入りペナント」(2万円)で、クラファンに参加していただいたのだ。
数日後、予めこちらで提示した締め切り通りに、応援メッセージと写真をいただいた。それがこちら。
二人からメッセージが届いた瞬間、まるで意中の人から恋文をもらったような心持ちになった。
既に応援メッセージをいただいた皆さんの文章とは異なる、詩的な響きがあった。文字が音色となって、脳内に揺れ動いて伝わる感覚。
同じ街で、同じ店で、同じ風景を見ながら過ごした二人が、自身の記憶をたどりながら、絞り出すようにして書いた文章に思えた。
クラファン終了まで残り5日。
私は二人から受け取ったままの文章を、メッセージ欄に加えた。私が読みたいと思っていたことを、二人が書いてくれた。
会ったことのない二人が書いた文章が、輪郭をそなえた手のように、我々の背中を押してくれた。
「依頼してくれてありがとう」
今野さんとひろのぶさんのメッセージを掲載してから、支援が上向きになった。二人の仲間の皆さんが、支援と拡散に協力してくれたからだった。
ぷらんたんに来たことがある人達からの支援は嬉しい。だけど、もっと嬉しかったのは、店に来たことがない人からの救いの手だった。
いつも良い言葉を吐き出す人の周りには、それにつられて同じような人たちが集まってくる。そして良い言葉の循環が形成される。その過程を目の当たりにした。
ぷらんたんを無くしたくない。そんな我々の思いを託したクラファンが、同じような思いを持った誰かのところまで羽ばたいて、手を携えた。
自分のためのクラファンが、誰かのためになったのだ。
3月11日、無事にネクストゴールの700万円を達成。翌日には支援者数が1000人を突破した。
二人が書いた文章が、それを見た誰かの言葉が、あちこちを巡り歩いて善意を増やして回った結果だと思う。
我々が守りたいぷらんたんは、この広い広い地球の中では、シミのように実に実に微小な存在かもしれない。
「たかが喫茶店だろ」と、顔の見えない誰かのツイートのように、誰かにとってはあってもなくても差し支えのない存在なのかもしれない。
だけど、我々は旗を立てた。自分たちが遺したい店を守るために。
その思いに、たくさんの人が呼応してくれた。
3月15日、ぷらんたんクラウドファンディングは終了した。
支援総額 7,534,000円
支援者数 1,081名
支援が伸び悩んで焦っていた一カ月前から、まるで一年くらい時が流れていた感覚だった。
クラファンが立ち上がる前までさかのぼると、この成果はまるで想像も出来なかった。
店が無くなるかどうか、その瀬戸際にいた喫茶店が、たくさんの人の思いと言葉で、歴史をつなぐことができた。
ふと我に返ったとき、その過程がまるで奇跡のように思えた。
その喜びを、誰かと分かち合いたかった。
私事ではあるが、私は誰かに何かをお願いするというのが本当に苦手だ。
今回も、たくさんの人から支援や応援メッセージをいただいたことが嬉しかった反面、負担だった。
だからこそ、今野さんからもらった言葉に救われた。
「田中さんが後ろめたさを感じる必要はない」
「ご依頼ありがとうございます」
自分が守りたい店を守った。同じように、守りたいと思う人が集まった。そんな人たちとクラファンを介してつながった。
良い言葉を発する人がいるこの世界を、前よりも好きになれた。
これも余談ではあるが、クラファン終了間際にちょっとした事件が起きた。
プロジェクトページに掲載する応援メッセージを、私はひろのぶさんで締めたかった。落語の寄席でいうトリ、紅白歌合戦でいうMISIAの役目を、ひろのぶさんにお願いしたかった。
今野さんとひろのぶさんからメッセージをもらったのが、終了5日前。
時間的にも二人が最後だと思っていた。
ところが、クラファンメンバーのある女の子(早大生)が「前田裕二さんに応援メッセージを頼みたい」と言った。終了3日前の話だ。
前田さんといえば著名な若手経営者であり、早大OBでもある。
彼女は著書である『人生の勝算』や『メモの魔力』を読んで、ファンになったらしい。あとルックスと雰囲気も好きらしい。きっと後者が依頼したい最大の理由だと思った。情熱が半端ではなかった。
「お願いしてみたら?」と言った。「どうせ無理だろうけど」とは思いつつ。
そうしたらなんと。
マジで書いてくれた。
公開終了まで残り数時間という最後の最後で、SHOWROOMの担当者からメッセージが届いた。
このギリギリで駆け込む感じが、前田さんの「人生の勝算」なのかもしれない。
MISIAの如く大トリとして、ひろのぶさんにぷらんたんへの「アイノカタチ」を披露してもらうはずだったが、前田さんの「魔力」には叶わなかったのだ。(メッセージは新着順にさせてもらった)
ひろのぶさん、この場をお借りしてお詫びします。(前田さんに感謝申し上げます。)
会って、話すこと。
2021年12月。私は所用があり東京にいた。
土曜日、渋谷で友人とランチをしていたら、LINEが届いた。マスターからだった。
「今野さんが店にいるよ」
キリがいいタイミングでランチを終えて、急いで早稲田に向かった。
クラファン終了以降、今野さんと田中さんとのやり取りは少なくなった。まれにツイートを互いに引用する程度で、それが寂しくもあり、なんだか申し訳なくもあった。
店に何度か今野さんが来ていることは、マスターから聞いていた。だが、岡山に住んでいる私は、まだ会えていなかったのだ。
東西線の早稲田駅を降りて、キャンパスへ続く道を急いだ。
ぷらんたんに着いて、ドアを開けた。カランコロンと変わらないベルが鳴り響く。変わったのは、ドアの素材と店の内観だ。
集まった支援金で、店舗を改修した。70年も営業していると、あちこちが傷んでいた。
新しくなった店舗は、ちょっと綺麗になりすぎている感が否めなかった。だが、時間が経てば何とも言えない味を醸し出すのだと思う。
厨房にマスターがいた。珈琲を淹れながら、チラッとこちらを見て言った。
「二階にいるよ。本棚の前の席」
階段を上がり、二階席へ。
そこに広がっていたのは、学生時代に私が見ていた風景そのものだった。
去年の同じ時期、街から人が消えて、70年続いたこの店の灯も消えようとしていた。
だけど、たくさんの人の思いで、店の時間は途絶えることなくつながった。ぷらんたんの風景は、守られたのだ。
本棚の前の席に目を向ける。
そこには、一人で黙々と読み書きしている人がいた。真剣な面持ちでテーブルの書物に対峙しているその周囲だけ、空気がピンと張り詰めていた。
おそるおそる近づいて、声をかけた。
「あのお、クラファンでお世話になりました、田中です」
その方が顔をあげて目があった。相好を崩し、すこし照れた表情を浮かべた。
「ああ!どうも」
あの応援メッセージを書いてくれた人が、目の前に座っていた。交わした言葉と写真でしか見たことなかった今野さんが、目の前にいた。
やっと会えた。言葉の主に会えた。それだけで胸がじわりと熱くなった。
「店、綺麗になりましたね。あのプレートの配置をみて「僕とひろのぶさんがニューオルリンズジャズクラブの人みたいだ」って、さっきやり取りしてたんですよ」
リニューアルしたとき、リターンの「名前入りペナント」を取り付けた。
二階の壁にズラッと並んだ人の名前。その中に、「今野良介」と「田中泰延」もあった。この二人は並んで配置したかった。
ただ、取り付けた位置が「早稲田大学ニューオルリンズジャズクラブ」の方の横になり、見ようによっては、二人もサークルOBに見えてしまうのだ。
それをさっそくネタにしていた。
今野さんの「発見」に対して「ボケ」を重ねていくひろのぶさん。
二人のやりとりを傍から見ているだけで、つい笑ってしまう。
クラファン終了から半年後の9月、二人はもう一冊新たな本を世に出した。『会って、話すこと。』という本だ。
一冊目が文章の本、二冊目が会話の本。
一見すると、「文章」と「会話」の間にある共通の要素や、二冊の底にある同じテーマが分からなかった。
私はこの本を、地元の本屋さんで販売されたその日に購入した。
クラファンを介して関わりを持った人たちが書いた本。字面を追っているだけで、傍らに二人がいるような臨場感があった。
文章も会話も、本来は「自分」と「相手」が必要である。
だけど、「自分のことを分かってもらいたい」「誰かと分かり合いたい」、そんな心の叫びを「書くこと」や「話すこと」にそのまま託しても、私たちの孤独感が霧消するわけではない。
私たちは「一人一人の人間は孤独である」ことを知らなければならい。そのために、自分を知らなければならない。だからこそ、人は自分が見た事象と心象を自分のために書き、他者と会話する前に自分と会話する必要があるのだ。
人間は孤独であるという現実を確認しながら、それでも一緒にこの世界で生きてく仲間であることを確認し合う行為。それが「書くこと」であり「会話」なのだ。
その会話する場のひとつが喫茶店であり、ぷらんたんなのかもしれない。
ぷらんたんにいる人は、自分と会話する。70年の時間と会話する。今は亡き過去の客、店主たちと会話する。書物と会話する。そして、他者と会話する。
そして、その先に「風景」を発見する。
私は何のために、クラファンを運営したか。
店を失いたくない自分のため。
結果として、何を守ったのか。
ぷらんたんの歴史。70年続いた時間。誰かにとっての風景。
その答えを、二冊の本たちが与えてくれた。
私とメンバーたちが、クラファンを通して守りたかったもの。結果として守ったもの。それは「わたし」と「あなた」が会話をする「場」であり、その過程で私たちが見る「風景」だったのだ。
「ぜひまた一緒に何かやりましょう、社交辞令ではなく本当に」
店で別れ際、今野さんが私の目を見て言った言葉に、一寸の迷いも歪んだ意図もなかった。
自分が守りたい店を守った。
同じように守りたいと思う人たちとつながった。
これを「奇跡」以外の言葉でどう表現したらいいのか分からない。
今野さん、店で会って話せて本当によかったです。
今度は一緒にクラファンを運営した仲間とも、話してほしいです。
ひろのぶさん、まだ会っていないけど、我々のために一肌脱いでくださり、ありがとうございます。
金粉を塗りに来てくれる日を、心待ちにしております。
このクラウドファンディングに参加した、全ての皆さんに感謝します。
私が守りたい店を、一緒に守ってくれて、ありがとうございます。
まだ行ったことがない方、ぜひ行けたら行ってみてください。
そこにある「風景」と、あなたも出会ってほしいのです。
Photo by Hiroto Yoshidome, Ryota Ono
<参考文献>
田中泰延『読みたいことを、書けばいい。』2019年, ダイヤモンド社
田中泰延『会って、話すこと。』2021年, ダイヤモンド社
<ぷらんたんクラウドファンディング>
いただいたご支援は、よりおもしろい取材・執筆・対話の場づくりをするために使わせていただきます。どうぞよろしくお願い申し上げます。