大人たちの生活発表会
息子のこども園で来週末予定されていた生活発表会が中止になった。
昨年もコロナの関係で中止になったが、園がこどもたちの演劇風景をビデオで録画したものを、後日保護者がスクリーンで見るという形だった。
しかし、今回は去年とは異なり、「子どもへの感染が拡大している」とされ、園内でPCR陽性者も見つかったことから、密となる「発表の場」は設けないとの判断が下された。そのため今回、園は写真もビデオも撮らないという。
つまり、こどもたちの「表現の場」がニュースで報道されている「子どもへの感染拡大」により消滅したのだ。
先日、息子に「今度の発表会で何の役をやるの?」と聞くと、「そんなんええねん!」と照れ笑いで、はぐらかす感じで、とても楽しみにしているような感じだった。聞くところによると、息子は園でも人一倍頑張って練習していたという。だからそんな息子の姿を観れることを、私もとても楽しみにしていた。
妻が生活発表会の中止の件で、園にその理由を問い合わせてくれた。
中止は、市の全ての園の合意だという。
園としては、拡大するこどもへの感染防止と密を避けるために中止を決断したという。電話口の担当者は、申し訳なさそうに「本当はやってあげたいけど、このご時世ですので…」みたいな感じだった。
この電話口の担当者の空気から察するに、もし園の担当者一人一人に今回の生活発表会の中止についてどう思うかを尋ねたとすれば、おそらく「本当はやってあげたい」と皆、口を揃えて自分の意思を主張するのではないだろうか。
しかし、「園としては」という『集団単位』になったとき、なぜか突如、個人の主張とは真逆の「中止です」となる。
これは、非常に不可解である。
これがいわゆる『集団心理』の作用なのだろう。
私は、創造力あふれる感性豊かなこどもたちの「表現の場」は、彼らの今後の自己肯定を育む大切な「生命活動の場」である、と考えている。
そのこどもに関わることを志した大人たち。それが保育士だろう。
ところが、そのこどもたちの「表現の場」を当の保育士となった大人たちが剥奪するのである。どうやら世間体にのまれてしまった大人たちは、そもそも自分の「自己表現」を行うことが困難らしい。保育士である前に、社会人である大人たち。そんな人たちがこどもを保護・教育するというのだ。それが日本の義務教育の環境である。
そういう環境下で育てられたこどもは、時代の、お上の流れには背けない、誰かの目や評価を気にして、自分の意思もありのままに表現できなくなる。そして、自分が一体何者なのか分からない、自己肯定感の薄い大人になり、路頭に彷徨うことになる。
これが、脈々と続く、鬱や自殺者を生み出す日本の教育システムであり、負のスパイラルの元凶である。
そして、社会が生み出す慢性的な病、社会病理である。
この「生活発表会の中止」という出来事は、構図でいえば「戦争」の始まりと全く同じである。
「本当は○○なんだけど、このご時世ですので…」と、世の空気を読み、お上のスローガンやプロパガンダに翻弄され、同調圧力で他者を追いやり、自分を殺し、同じ人間を殺し、ほとぼりが冷めると、「本当はそんなことしたくなかった」と自責の念に駆られ、罪を背負い、二度としませんと誓い、その場をやり過ごし、しばらく経つとまた性懲りもなくおっぱじめる。
この類の人間には、要するに己の「軸」がない。
もはや、権力者の一振りによって発生する現象・リアクションに過ぎない。
生きてるのか死んでるのかよく分からない、希薄な存在である。
保育士や教育者とは、ただの権力の媒体なのか。
そうであるならば、そんなもの不要ではないだろうか。
「園として」ではなく「あなた」の意思を問いたい。
そこに「あなた」の志(こころざし)はあるのか。
「軸」はあるのか。
その心で、幼いこどもの「目」を見ることはできるか。
もしその「あなた」たちが集まったならば、支配的で野蛮な権力者の幻想など打ち砕くことは容易ではないのか。
社会全体が醸し出す、大人たちの「空気読めよ」のシワ寄せの波が、幼いこどもたちに襲いかかる。
幼き彼らの自己表現は剥奪され、汚染される。そうやって、ばら撒かれた「空気読めよ」は、こどもたちの間で蔓延・感染拡大する。こどもたちは、その集団の中で「変わり者」と称される「自己表現」に長けた人間や空気に馴染めない人間を「異端者」と罵り、排他的行動、「いじめ」を発動させる。それは無意識に、オートマティックに、ごく自然に行われる。
そうやって汚染された幼き心は、従順たる社会の奴隷として、知らず知らずの内に、誰かが創り出した既存社会の維持存続を担わされることになる。
この「生活発表会の中止」をめぐる一連の出来事は、このような「構図」がノンフィクション的に「発表」(露呈)されたといえる。全保護者に披露された目に見える、薄汚い大人たちの「社会生活発表会」である。
実生活でも5歳息子は「コロナ、はやってるからな」とか「食べないときはマスクせなあかんで」とか「空気読めよ」的なことを言い始めている。まだ軽度の汚染かもしれないが、蓄積され、致死量となるデッドラインを保護者は注意深く見ておく必要がある。
今回の「生活発表会の中止」はただのありふれたイベントの中止の話ではない。中止の背景を、目を凝らして見てみると、それは「戦争」と同じ構図であることが見えてくる。世間的にも所詮「生活発表会」というレベルであるが故、その構図は見えにくく、「仕方ない」といわれ、世に紛れてしまう。
もし、保育に携わる大人たちに、こどものことを真に想う「軸」があるのであれば、世に屈せず、改めてこどもたちの「表現の場」を、その機会を与えてあげて欲しいと、切に願う。
できる方法はいくらでもあるだろう。ただそれをやるのか、やらないのかの話だが、それを衝き動かす原動力こそ、その人の「軸」だろう。
先生ならば、先生の、己の「軸」をこどもにたちに示してもらいたい。それはどんな表現ツールでもよいのだ。それが真に人を育てるということではないだろうか。
私は、せめて、私の身近な人から、この理不尽すぎる残酷な「構図」を少しでも共有できればと思っている。それは、もしかしたら私のただの妄想かもしれない、ということも承知の上である。社会に属する限り、生きる術として、社会に適応するしかない。その中でいい塩梅に、宇宙の真理とバランスを取りながら、文明社会で失った、人としての生き方を探求しながら、生きたいと思う。
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