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野球少年が木製バット職人になるまで

23歳の時に富山へ移住された中塚陸歩さんは、木製バットの職人さん。

なぜ富山に移住されたのかわかりますか?実は富山県南砺市福光は、木製バット生産日本一のまちなんです。

「バットを作りたい」その一心で、縁もゆかりもなかった富山県に移住した中塚さんに、富山での暮らしや、職人というお仕事について伺いました。

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◎アポなしで福光のバットメーカーを突撃

野球少年だった頃の中塚さん

ーー富山に移住されるまでのことを教えてください。

生まれも育ちも兵庫県で、ずっと兵庫で暮らしていくつもりでした。高校を卒業して地元企業に勤めていましたが、「ものづくり」の仕事に携わりたいと思い、最初に兵庫のバットメーカーを訪ねました。

ーーなぜ、バット作りだったのでしょうか。

もともとものづくりが好きで、高校の時は花火師になりたいと思っていました。進路希望書にも「花火師」と書いたら、先生に「真面目にかけ」と怒られて。真面目に書いたんですけど、受け入れられないものなんだと諦めて、地元の鉄道会社に就職しました。

働きながらも、40年以上この仕事を続けるのだろうかという迷いがずっとありました。野球は小学校4年から高校までやっていて、落ちてる木を削ってバットを作って遊んでいたこともあって、「バット作り」にたどり着きました。

なんでグローブではなくバットだったかと聞かれると明確な答えはないんですが…。当時は単純に削るだけだし楽しそうだと思っていました。もちろん、そんな甘い世界ではなかったんですが(笑)。

ーー兵庫にもバットメーカーはありましたか?

ありましたが、メインで別のものを製造していることが多く、バット専業メーカーはありませんでした。

訪ねた製材所で、「バット作りで食べていきたいなら富山で修行する必要がある」とアドバイスをもらい、車で富山を訪れました。これが初めての富山でした。

インターネットにはほとんど情報が載っていなかったので、アポなしでインターから近いメーカーから順に回っていきました。唯一、工場の中を見学できたのが、今働いている有限会社エスオースポーツ工業です。

ーーすんなりと働くことになったのでしょうか。

いや、見学はできたけれど、就職は断られました。社長には「名前だけ聞いておくが、考え直せ。若いんだからもっといい仕事がある」と言われて。それでも諦めきれず、毎月兵庫から電話をしたり、そのあとも2回ほど富山を訪れました。

社長がようやく折れて、10ヶ月後、「とりあえず半年やってみい。思ってたんと違ったらやめたらいい」と言ってもらえました。

ーー中塚さんの熱意が伝わったんですね!

翌日に富山にきて家探しをし、年明けから働くことに。

ーーすごいスピード感ですね。すんなりと物件は見つかりましたか?

実は、社長から返事をもらえなかった数ヶ月間、「あの社長は働かせてくれるだろう」という根拠のない自信があって、福光での生活を具体的にシミュレーションしていました。バット作りの動画をみたり、福光のことを調べたり。物件もすでに検索済みで、検討をつけていたのですぐに契約できました(笑)。

福光で10年修行したら兵庫に帰ってきて独立しようと考えていました。バット工場やるためにどれくらいお金かかるかなどを調べながら、フライング気味に妄想してましたね。

ーーその根拠のない自信は、間違っていなかったようですね。

◎富山はイメージ通りの「田舎」

富山地方鉄道©︎とやま観光推進機構

ーー富山を初めて訪れるまで、富山にはどんなイメージがありましたか。

「田舎」ですね。鉄道会社に勤めていたこともあって、「ワンマン電車」「一両の電車」のイメージが強くて(笑)。

ーー富山には、お知り合いもおられなかったんですよね。そんな中での富山での暮らしはいかがでしたか?

数ヶ月間、福光のことを調べ続けていたので、暮らしは思っていた通りでした。周りは田んぼしかなく、毎日家と会社の往復です。会社には同年代はいないし、いちばん近くて40代でした。

他にやることもないから、土日も会社でバット作りの練習していました。

ーー孤独を感じられていたのでは…?

バット作りは本当に楽しくて、辛くはありませんでした。遊んでいる感覚でしたね。努力家ですね!とよく言われるんですが、努力している感覚もあまりなかったです。手の皮は剥けるし、マメもできるし、腱鞘炎にもなるし、それなりの大変さはありましたけれど。

でも、確かに同年代の友人がいなかったのはちょっと寂しかったかな。

1年間そんな生活を続けて、2年目に高校の時からずっと付き合っていた、地元の彼女と結婚することになりました。彼女が富山に移住してきてから、一気に同じ年代の友達ができました。

ーー高校からずっとお付き合いされていたんですね!

彼女は野球部のマネージャーだったので、バット作りにも理解がありました。「やりたいことやったらいいんじゃない」と移住した時も背中を押してくれて。

ーー奥さんご自身は、富山への移住には抵抗はなかったのでしょうか。

抵抗はあったと思いますが、それを口にすることはありませんでした。保育士の資格を生かして富山でも保育園で働いています。保育園では同世代の友達が増え、「よく富山にきてくれた!」と歓迎してもらって、一気に僕よりも友達が多くなりました(笑)。

ーー奥さんと一緒に富山に住み始めてからも、いずれは兵庫に戻るつもりでしたか?

はい。ある程度修行を積んだら、地元に帰るつもりでした。でも、バット業界のこともわかってきて、「本当に帰って独立できるか」と不安も大きくなってきたのも事実です。

現在3歳と5歳の子供がいるのですが、ふたりにとっては富山が生まれ故郷です。保育園に行き始め子供たちにも友達がたくさんできてくると、「親の都合で兵庫にいくことがベストなのだろうか」とも考えるようになりました。

ーーずっと富山にいようと決意されたきっかけは?

1年前、社長から跡を継いでくれという話をもらったことがきっかけです。でも、数年前からそう思っているだろうことはなんとなく感じていました。そこで、ずっと富山にいようと決意しました。

ーーバット職人として、この9年間はいかがでしたか。

9年経って、ようやく自信を持って削れるようになってきました。以前は苦手意識のある工程もありましたが、「なんでもできるよ」と自信を持って言えるようになりましたね。

最近は、小物を作ったりもしています。変わり種でいえば、バットの削りくずを入れたクッキー作りに挑戦中です。これまで、おがくずは全て燃やして廃棄していたので、何か活用できないかとずっと考えていました。

県外からツアーで観光客の方も来られるので、野球に興味のない人にも気軽に買っていただけるお土産ができたら嬉しいです。おがくずは他にもいろいろと活用法があるようなので、バットの副産物でこれから第2段、第3段を作っていきたいです。

ーー福光は、バット以外にも野球との関わりが深い場所のようですね。

実は、北海道日本ハムファイターズの元社長・竹田憲宗さんは福光出身なんですよ。新庄監督が就任して盛り上がっているので、僕たちも何か関われたら嬉しいです。

ーー木製バットのこれからについて教えてください。

プレイヤー数が減少していて、バットの全体の生産量は減っていく見込みです。外資系の大手もバット製造から撤退していますし。でも、金属バットから木製バットに戻そうという動きがあるんです。

ーー金属バットと木製バットの違いはどこにありますか?

どこに当たっても金属バットなら飛ぶんです。日本では、高校までは金属バット、大学生や社会人は木製バットを正式なバットとして使っています。だから、高校まで打てている選手が、大学以降で打てなくなるという話はよく起こるんです。

小学生から木製バットを使う選手も出てきましたし、高校では木製バットを練習で使ったりしています。草野球をしているおじさんたちの中にも、金属バットだとどこに当たったか感触がないので面白くないと、木製バットを購入される方がいらっしゃいます。

軟式のボールが硬式寄りの硬さに変更されたり、数年後には高校野球で使用できる金属バットが「飛びにくい金属バット」に変更される予定など、木製バットには追い風になりそうです。

▲地元の高校生も愛用している

ーーエスオースポーツ工業さんでは、バットを一本一本手作りされているそうですね。

多くのメーカーでは、機械で作るのが主流です。パソコンで図面を書けば、機械が自動で作ってくれます。

僕たちは昔ながらの手削り一本でやっています。匙加減ひとつで、どんなバットも作れるのが魅力です。時代の波に逆らって、他のメーカーがやらないことを貫いていきたい。

ーー会社には、他にも県外から移住された職人さんがいらっしゃるんですか?

はい。僕を採用するときはあんなに渋っていたのに、社長は最近、若手をどんどん採用しているんですよ(笑)。現在は、秋田と沖縄から来た子たちが修行中です。4月には北海道からも1人来ます。

社長も80歳になったので、若手育成に力を入れているんだと思います。

◎ふと窓の外を見るだけでリフレッシュできる

ーー富山での子育てはいかがですか。

自然に囲まれていて、のんびりとゆとりがある生活が魅力です。小さいうちは医療費もかからないし、補助も手厚いです。支援センターもたくさんあるので、妻は子供を連れて毎日のように通っています。車で遊びに行っても渋滞はないし、駐車場を探し回ることもありません。

地元の姫路も富山と同じく車社会ですが、かなり渋滞があります。富山での運転に慣れたら、車の多い姫路での運転が難しくて、帰るとよくクラクションを鳴らされます(笑)。駐車場が広いので、駐車も下手になってしまいました。

ーー富山のお気に入りスポットを教えてください。

高岡のおとぎの森公園です。

ドラえもんの広場も、水遊びができる場所も、ふわふわドームもあります。子供が大好きなんです。北陸新幹線も見えますしね。

ーー藤子・F・不二雄さんは高岡のご出身なので、ドラえもんの公園や施設がたくさんあるんですよね。

あとは立山連峰の景色でしょうか。初めて富山にきたときに、高速から壮大な立山連峰を見ることができました。

これまで僕が山だと思っていたものは、丘だったのかもしれないと思ったほど、これだけ高い山をみるのは初めてで。親に見せたい風景でもありました。

ーー富山での暮らしはどんな方に向いていると思いますか。

仕事熱心な人や仕事に打ち込みたい人でしょうか。仕事に打ち込んで、ふと外の景色見ただけでリフレッシュになるんです。静かだし、春夏秋冬がはっきりしていて、近所で蛍がみられたりもします。

買い物が好きで、毎週ショッピングに出かけている人だと向かないとは思います。富山、特に僕が住んでいる南砺市には、関西だったら怒鳴られるくらいののんびりさはありますね(笑)。

新聞のお悔やみ欄を見ていても、長生きな方が多い気がします。ゆったりとした環境にいるからでしょうか。自分も長生きできそうだな、とも思っています。

ーー富山移住される方にアドバイスがあれば教えてください。

長靴が要ります(笑)。地元の姫路は1センチ積もったら電車が止まるくらい雪が降らないので、最初は大変でした。

移住したのが1月だったので、最初の日は昼まで雪かきしていました。まだ雪かきのノウハウがなかったので、必要のないところまで雪かきしていたんです(笑)。

最近では、明け方に家の前を通る除雪車の音で、雪の積もり具合を把握できるくらいまでに成長しました。

ーーそれはすごい!(笑)。
今はどんなおうちに住んでおられますか?

妻が引っ越してきたときは、家賃7万円で新築のマンションに住んでいたんですが、市営住宅の抽選に当たって、現在はそこに住んでいます。アパートに住んでいた時の半分くらいの家賃で、3LDKの築浅物件に住めています。

実は今、マイホームを建てることを計画しています。無垢の木を使って、温かい家にしたいですね。

ーー立地はどのように決めましたか。

実は、会社の前の広い土地に社長が一人で住んでいるので、そこの庭に建てさせてもらうことになりました。子供たちも、本当のおじいちゃんのように社長を慕っているので、近くで暮らせたらいいなと思って。

ーーなんとも素敵ですね。アポなしの突撃から10年。中塚さんが、富山の永住を決意してくださって、僕たちもとても嬉しいです。

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富山では伝統工芸だけでなく、「バット作り」という技術も培われてきました。

これまで、何人ものスーパースターたちを支えてきた福光の木製バット。その未来は、富山に移住してきた一人の青年に託されています。

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