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二つの姿を持つ父が他界して気付かせてくれたこと

ご無沙汰しております。

noteをまともに開いたのが久しぶりです。タイトルでお察しの通り、不幸事がありバタバタしておりました。

今回は、先月71歳で他界した父親のことを投稿したいと思います。箇条書きに近いものがあるけれど、思いの丈をぶつけてみました。

父が持つ本来の姿

父は一級建築士として、建築設計事務所を営んでいました。ただ諸事情で経営は常に苦しく、母も私達が幼い頃から働きに出ていました。
常に安定して仕事があるわけではないので、仕事を請け負うことになれば、暇な期間とは違ってイキイキと製図板で図面を書いていた父を今でも思い出します。私は幼ながらに父に仕事があると安心しました。
そして、幼い頃自分の身体より大きな製図板の下に隠れて、父の足を目の前にして座っているのが好きでした。なぜか落ち着く空間だったのです。


父が設計した建物の写真たち(一部です。)

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父は料理ができました。うどんも粉から手打ちで作るほどで、昔はよく身内を集めて手打ちうどんや鍋を振る舞っていました。今思えば、身内に囲まれた暖かい幼少期時代を過ごさせてもらったと思います。本格的な中華鍋なんかもあり、美味しい炒飯をよく作ってくれました。父と母で作るご飯のジャンルが違った為、貧乏ながらもご飯だけはバリエーション豊かに育ちました。

そんな父でしたが、私達への育て方は厳しく、昭和の頑固親父そのものでした。
自分が成長するにつれ、父との相性が悪化してしまい、思春期に入るとまともに家族団欒というものを送れなくなっていました。
そんな中でも、私は父に意見を書いた小さな手紙を渡していて、それを父はずっと製図板に全部貼り付けていたといいます。(先日母に聞くまで、渡していたこと自体、私は忘れていました。)

私は早く家を出たかったので、高校を卒業してすぐに実家を出て県外で仕事をしながら暮らす事を選択しました。離れてからの方が、父との関係も修復していきました。帰省するたびに鍋を振る舞ってくれるので、私は冬に帰ることが好きでした。

私は、実家を出て10年後に結婚しました。横浜で両家顔合わせをする為、両親と妹に来てもらいました。そこでも父は大好きなお酒が進み、自然と場が盛り上がった事はいい思い出です。

しかし、父の元気な姿を見たのはその日が最後となりました。

障害を患ったもう一つの姿

それは、私達が入籍して1ヶ月立たないうちに突然起こりました。それまで屈強な精神を持つ父でしたが、その日強烈な頭痛に襲われ、救急へ。
くも膜下出血から始まった脳梗塞を発症。64歳でした。
大きな手術を経て、昏睡状態で病室へ。主治医には、2週間して目覚めなければ厳しいでしょうと言われました。

私はちょうど仕事が閑散期だったので、まとめて帰省させてもらいました。緊張しながら初めて病室に入った時のことを今でも覚えています。
頭や身体中が管だらけで変わり果てた姿に衝撃を受けたと同時に、もしかしたら父の死期が近いかもしれないとはっきり思いました。その時はとても怖かったです。
先生に言われた通り、家族で手足を揉んで神経に刺激を与え続けました。意識が戻ってくれると信じて。すると、10日経ったあたりから手が動き始め、なんと目が開きました。
それからリハビリセンターで脱走しようとする程の復活劇を見せてくれて、くも膜下出血の患者がここまで回復するのは奇跡だと先生にも言われました。
私は父の精神力を信じていたので、ほぼ元通りの生活を送れると思って安心していたのです。
しかし病気の恐ろしさはここからでした。
まず字がまともに書けません。そして、仕事上誰よりも正確に線を引けるはずが、引けなくなったのです。
それでも働かねばという意思が強かった為、多少抗ったものの次第に設計士としては働くことが不可能になり、廃業しました。ちょうど大好きなイチローが引退した年です。

あれだけやかましかった父だったのに、そのうちに家族にすら反論することもなくなり、性格まで変わってしまいました。
大好きだった車の運転も不可能になった為、外では自転車でウロウロすることがメインになり、それ以外は常にテレビ相手に生活していました。

そんな父を見兼ねた妹が、社会との繋がりを持ってもらおうと、福祉を訪ねて事業所を回りました。その時に精神障害の2級という判定も受けました。
3カ所見て、1カ所だけ他とは違った温かい人達が経営している事業所があったそうです。
ずっと自営一筋だった父。1時間とはいえ、流石に障害者雇用の事業所で働くなんて拒否するだろうと思いました。しかし自分からこの事業所に決めたといいます。

ワカメの軽量を一時間行う為に、平日は毎日決まった時間に送迎車で事業所に通いました。
通い始めた当初、座る時間が5分と持たなかったといいます。それをスタッフさんが時間をかけて見てくれたおかげで、次第に1時間同じ作業をできるようになったそうです。

父は野球が大好きで、毎日目の前の高校のグラウンドを見てはスタッフさんに野球の話をしたといいます。
日々不自由さが増す身体と闘いながらも、病気は父から好きなものを全部は奪いませんでした。毎日同じ話を聞いてくれたスタッフさんの無償の優しさが、父にとっては居場所だったのです。約2年、皆勤賞でした。

自宅では、あれだけ大好きだった料理だったのに、最近は湯を沸かして袋ラーメンを作ることもできなくなり、少し硬いミカンの皮を剥くこともできなかったそうです。同じくらい好きなお風呂も浸かることを止め、シャワーすら母から促さないと入らなくなっていました。
父本人は、できると思ってする事が実際にはどんどんできなくなって、ストレスは相当なものだったろうと思います。当たり前の事ができなくなるのだから、そりゃあする事自体を諦めてしまった方が楽に決まってます。
健常な70代はまだまだ自活できる元気があるはずなのに、脳の病気の怖さはこういうところにありました。
亡くなる直前、父は障害者2級から1級の判定を受けていました。くも膜下出血で倒れてから7年です。

一度命拾いした父を喜んだのも束の間、どんどん元気だった頃の父とはかけ離れていくその姿に、私は明らかに逃げ腰でした。受け入れたくなかったのです。毎日一緒に暮らす母でさえ、障害を受け入れるのに5年かかったといいます。
私はテレビ電話でも、次第に「父に代わって」と言わなくなってしまいました。離れている私達のことなんて気にもしていないだろうと勝手に思っていたので、孫の成長もロクに見せてあげられていませんでした。
今年の春に帰省した時も、コロナ禍を理由に父に積極的に会おうしませんでした。また一年帰らないから、飛行機に乗る前に顔くらい見せた方がいいと思い会いに行きましたが、外出していたので結局会うことができませんでした。その時は、もう二度と会えなくなるなんて知りもしないで。

父は先月のある夜、誤嚥してすぐ低酸素血症となり一瞬で命を落としてしまいました。まさに急死でした。
食事に関しては自制が効かず、家に食べ物があると何でも食べてしまっていました。こうなるリスクは充分にあったといえばそれまでですが、この日も朝から事業所に行き、いつもと変わらない1日を送っていたので、あまりに突然の事で誰もが信じがたい状況でした。
お通夜、葬儀に来てくださった事業所の方々も信じられないといった様子でした。母も目の前でいきなり死なれて想像を絶する恐怖だったろうと思います。ショックの大きさは私達子供とは比にならないものがあるはずです。

私は亡くなった翌日、家族と故郷に帰りました。父を目の前にして、泣きながらひたすら「ありがとう」を連呼した記憶があります。
不思議なもので、小さい時の遠い記憶はフツフツと沸いてくるのに、あの怒涛の通夜葬儀の記憶は時々飛んでしまう時があるのです。心がまだ受け入れ切れてないのかもしれません。

父は経営の絡みで、身内に迷惑をかけた経緯があったのですが、叔父さんや叔母さんはとても温かく父を天国へ送り出してくれました。
私はなんだかんだ愛されていた父の存在を、父自身の死をもって知ったのです。
その証拠に、とても温かい家族葬を執り行うことができました。
叔父さんと私の旦那が、父の棺の前に立ち、ビールで乾杯をしてくれた光景は一生忘れません。(私はお酒飲めないので麦茶で乾杯しました。)

霊柩車に乗った時は、シトシトと雨が降っていました。父が毎日自転車で走っていた道を進みながら、火葬場に向かいました。
火葬後、健康体となんら変わらない丈夫な骨を拾いながら、改めて脳の病気の怖さを思い知りました。そして、焼け残った中にあった脳に入っていたクリップを見て、これで父は命を繋いでもらったのだと、感謝が止まりませんでした。(死後に送られてきた健診結果は、腎臓の再検査以外問題無かったそうです。)

とても重くて温かい遺骨を抱えて外に出てみると、さっきは共に泣いてくれた空でしたが、西の空の雲の切れ間から次々と陽の光が溢れてきて、夕刻に金色の空が広がっていました。大袈裟ではなく本当に綺麗な空だったので、父は無事に旅立ったんだなと安心しました。母も一緒に感動していました。あの景色は一生忘れないでしょう。

葬儀を終えてから数日後、私は娘と二人で事業所を訪れ、父の障害者手帳を返却しました。
2級から1級になったばかりの父の手帳。私が最後に会った時よりも症状は進行していた証だと思うと、胸が苦しくなりました。

お通夜に来てくれた女性スタッフさんの案内で、私達は作業場に入りました。皆さんの前で、「父がお世話になりました。」と一礼しました。
父は、事業所でよく私の話をしていたといいます。孫にも「(何かを)買ってやらないかん」とよく言っていたそうで、私の旦那の職業の事もスタッフさんは知っていました。父は毎日ちゃんと私達を想ってくれていたのです...。
そして、自分の居場所を見つけてちゃんと生きていました。それがハッキリ分かった瞬間でした。
" ごめんね。お父さん。生きてる間に気づいてあげられない本当に未熟な娘だったね。”
事業所での話をこうして書き出してみると、涙が止まらなくなります。


実家の周辺には、父が設計した単身向けマンションや個人宅がいくつか建っています。それが私達に父の残してくれたかけがえのない生きた証になりました。
マンションの写真を撮りに行くと、帰宅した一人のサラリーマンとすれ違いました。

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マンションは建ったら終わりではありません。その後も住人一人一人の人生に関わっていくのです。生前には気付くことができなかったけれど、今更になってとても夢のある素敵な仕事をしていた父。
経営がどんなに苦しかろうと、父は決して逃げず、色々ありながらも私達をちゃんと育てました。そして、時には離婚したいと嘆きながらも、障害まで持ってしまった父をずっと支え続けた母親のことも、同時に尊敬しています。
父が生前残した建物は、母が寄り添っていなければきっと残らなかったでしょう。
私は形見で貰った三角スケールを見つめながら、そんなことを思いました。

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父の持っていた名刺とボールペン、そして仕事で常に携帯していた三角スケールです。


先日、元気だった頃の父が夢に出てきました。
過去に数回、父が死んでしまう夢を見た事があったけど、それは元気な証拠だと聞くので安心していました。本当に死んでしまうと逆の事が夢に出てくるというのを早速体験しました。
母は、父の声が聞こえないのが寂しいと言います。親世代は写真はたくさん残せても、なかなか動画を残していません。私が持っている父が映る動画は、父の古希祝いで父が母にビールを注ぐその一コマしかなくて申し訳ない気持ちになりました...。
早く母の夢に元気な父が登場してくれるといいなと思います。

父の死後、無意識に空を見上げながら歩くことが増えました。この世にたった一人の父が死んだという事実がそこにあっても、周りを見渡せば今日もいつもと変わらない世界が存在しています。
自分達がどんなに悲しみに暮れても、世界は今日も素知らぬ顔で1秒の狂いもなく回っています。景色を見ながら、街を見ながらそう感じました。
そしてそれが、逆に心の中にある大きな悲しみを和らげてくれる効果もあるのです。
“ 前を向いて歩け” と、空気が背中を押してくれてるようにも思えます。

しかし、目には見えないだけで、自分のように大切な家族を失ったばかりの人が同じ電車に乗っているかもしれない。一見変な人も、父みたいにある時から病気と闘ってる人なのかもしれない。そんな風に思うようになりました。
素知らぬ顔で流れていく毎日のそこかしこに人生のストーリーがあり、世の中そのストーリーだらけの世界なんだなって。

あれ?少しだけ心の視野が広くなったかもしれません...。

今は、父を偲びながら残された母を大切にしていきたいです。認知症を患いながらも一日一日を生きている祖母のことも気がかりですが、次の帰省でも元気な姿を見せてほしいと日々願っています。家族思いの大好きな妹ともこれからも仲良しでいたいし、夫にもちゃんと思いやりを持って、一緒にかけがえのない宝である娘を育てていきたいです。

忙しく追われる日々の中で、自分に余裕が無い時は、この日記を読み返そうと思います。

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最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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