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癌で死んだ父の棺桶リスト。命の期限。やりたいことはすぐにやれ。

こんにちは、環(たまき)です。

私の父は、2020年8月に亡くなりました。ちょうど1年ほど経ちました。父は癌が原因で亡くなりました。

そんな父を横で見ていて、父の死という、大きな悲しみと共に得られたものは、時間=命である学びです。

父は癌が発覚して、棺桶リストを家族LINEのノートで共有しました。棺桶リストの項目は全て達成することはできませんでしたが、父は達成に向けて生きていました。

ただ、やはり時間が足りなかった。

時間はお金には換えられない命の時間なんだと、癌が発覚して5年で死んだ父を見ながら、痛切に感じました。


今日はそんな学びをご紹介します。


父が癌になった。


父が癌だと分かったのは2016年。今からおよそ5年前。父は64歳。胃がんでした。母によると、父はよく胃がおかしい、とかげっぷや胃のむかつきを訴えていたそうです。母が何回も病院を進めていたのですが、臆病だった父はなかなか病院に行こうとしなかったようです。

それでもとうとう観念して行った病院で検査をして、医者から言われたのは神経内分泌がん(NEC)という、非常に増殖速度が速く早期に転移・再発を起こしやすい悪性度の高いがん、という衝撃的な診断でした。

神経内分泌は、ステージ2以上の場合は、5年後生存率は30%以下。父は、症状的にどう考えてもステージ2以上だったので、父の死が突然、私たちに迫ってきたのでした。


一回目の手術。胃の全摘出と苦悩の食生活。


癌の原発は不調を訴えていた胃で、すぐに胃の全摘出が決まりました。父が手術の日は、母と私で付き添ったのですが、手術前に病室であった父は、非常におびえていて、母の手を握って震えを抑えようとしていました。自分が父の立場だったら、私もきっと怖くて、手術して死んでしまったらどうしようって考えていたと思います。

胃は無事に摘出され、他の臓器への転移は目視では確認できなかったと、主治医の先生は言っていたけれど、リンパへ飛んでいる可能性がある、と言われていました。

それでもひとまず癌が取り除かれ、再発が確認されるまでは一安心。

ですが、胃の全摘出というのは、食との闘いの始まりでもありました。

胃がなくなったことで、口に入れた食べ物は、直接腸に流れ込むことになります。腸が慣れて、胃の役割を果たせるようになるまでは、いきなり刺激が強いものや、消化しにくいものは食べられません。父曰く、お腹が減る、という感覚がないようで、食欲もわかない。とはいえ食べないと体は弱り、免疫が落ちてしまう。

何が食べられるのか、消化の良いものはなんなのか、母も私もいろいろ調べて、いろんな食事を試しました。

実は母も、私が高校3年生の時に追突事故にあい、後遺症として脳脊髄液減少症という病気を抱えており、死に至らないとはいえ、家事がまともにできない状態でした。

それでもこの時ばかりは、毎晩台所に立って、食事を作っていたように思います。

足らない栄養は、栄養飲料で補いました。食べてもすぐに下してしまって身にならない。父はみるみる体重が落ちていきました。

しばらくして、手術前まで戻らないにしても、なんとか食事を楽しめるくらいまでには回復することができるようになって、父にも笑顔が見られるようになってきました。

人生を必死に生きる父。


父は、定期的に東京の医科歯科大学で診察や抗がん剤治療を受けながら過ごしていました。神経内分泌がんは、やはりリンパに飛んでしまっていて、いつどこに癌が現れるかわからない状況でした。

父は、余命宣告されたわけではなかったですが、時間のリミットを誰よりも感じていました。父は自分の心情を家族に話すタイプではなかったのですが、この時はLINEで家族のグループラインを自ら作りノートに自分の心情や、状況を綴っていました。父、というか私たち家族は、あまり自分たちのことを話すことが得意ではなく、コミュニケーションをとるのが、ちょっと苦手な家族でした。父はもともと物書きで、毎日日記を書いていたので、言葉の方が自分の気持ちを素直に私たちに伝えられたのだと思いますし、自分の気持ちを整理したのだと思います。

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父は、2年間で一人でハワイ旅行に行ったり、トレッキングに友達と言ったり、プロ野球観戦、歌舞伎、ゴルフとこの棺桶リストに載っているものも、弱った身体でも達成していました。

私は、この父のノートを何回も何回も読んで泣きながら、自分ができることは何だろうって考えてました。でも父はおそらく一人が好きな人だったから変におせっかいを焼くより、父が心配な態度はとりつつ、父の前では絶対泣かないし、私の涙で父を悲しませたくない、それだけは決めていました。父は私をとてもかわいがってくれていたから。

父はお寺にも通って、死の恐怖を克服しようとしていました。私たちに対して涙を見せたことはなかったけど、きっととても死が怖かったと思います。


2回目の手術。一か八かの最後の望み。


父の癌は肝臓へ転移していきました。2019年の冬。多くのお医者さんに反対されながら、父はやれることはやる、という意思で、肝臓に顕現している癌の摘出手術に臨みました。事前にわかっているだけでも10個以上くらい腫瘍があって、実際に切ってみれば19個の摘出でした。それでも、肝臓の表面に出ているだけの摘出なので、術後また癌が見つかる可能性もありました。ふつうは、あまりの患者の負担に手術をすることはしないようですが、少しでも生きるために最後の望みにかけたのです。手術は成功し、術後は抗がん剤でどこまで延命できるかの勝負になりました。父はノートに書いているように、じっと死を受け入れることはせずに、最後まで生き抜こうとしていました。


急な体調の悪化。せん妄の恐ろしさ。


しばらくは、検査の結果もよく順調に闘病生活を送っていたように思いましたが、手術をしてから半年ほど経ってから、父が風邪をひいてしまったようでした。具合が悪そうで、ちょうど父の誕生日の日でした。わたしが買ってきたケーキを食べれないことが、辛かったようで、私に直接ごめん、と謝ってくれました。高熱が出て2日以上熱が下がらない状態になってしまい、父は肺炎になり、病院にすぐに運ばれて、私は付き添いで父が目覚めるまでそばで祈るようにうずくまっていました。わたしの誕生日は、父の誕生日の翌日。わたしの誕生日の翌日の朝のことでした。

意識が一度戻った父は、私のことがわかっていたのか分かりませんが、とても辛そうでした。そのまま父は入院になりました。

ちょうどコロナの時期だったので、面会ができず、面会が許されたのは入院して1週間ほどあとのこと。父のせん妄が現れはじめ、そして何も口にしないことから、面会が許されたからです。父は、まるで痴呆になってしまったかのようで、まともに会話ができません。母に対して父はとてもつらくあたっていて、母は落ち込んでいました。私に対しては、たぶん心を許してくれていたけど、私が作ってきたサンドイッチは、最初の一口を食べた切り、もう食べられないようでした。父は耳を悪くしていて、補聴器がないと声が聞き取りずらかったせいもあって、もう会話は無理だ、と思って私は短い手紙を書いて、毎日病室に行くことにしました。父はやっぱり挙動がおかしく、とても家に帰れる状態じゃなかった。会うのが怖かったけど、会わなきゃ父を失ったらどうしようっていう怖さと悲しみで毎日泣いていました。

看護婦さんから、わたしが書いた手紙を見て、父がとてもうれしそうにしていた。と聞いて、手紙を読んでもらえたことが唯一の救いでした。父はまともでない精神状態の中でも、私の小さな手紙の紙を、自分の病院着のポケットに入れていました。わたしは本当に父に愛されていたんだと思いました。

でも、その後も父がわたしが作った食事を口にすることはなく、家に帰ってくることも、ついにはありませんでした。父はおそらくもう生きることに疲れてしまったのだと母は話しました。


ある日、出勤して数時間後、母から父の容体が悪いから、病院に来てくれと電話がありました。お医者さんから、この1,2日が山だ、と言われて、もう覚悟するしかありませんでした。父が肺炎で病院に運ばれて1ヶ月ほど経った頃でした。

結局、父は8月中旬、交代で付き添っていた母が夜中に看取り静かになくなりました。死因は肺炎の再発です。最後、父は苦しそうだったようです。


なぜ働くのか。


父は、非常に働き者でした。わたしたちは姉妹は静岡で生まれ、静岡で育ちましたが、父は東京育ちで、仕事も単身赴任で東京でITコンサル業をしていました。月に1,2回程度しか帰ってこないこともあり、父が帰ってきたときには、父と近くの公園に行くのが私の楽しみでした。

母は専業主婦で、私と姉は何不自由なく育てられました。父が一生懸命働いてくれたおかげです。

父は単身赴任で、お酒もよく飲み、食生活も外食が多かったようです。タバコはしていなかったのですが、やはり胃へのダメージや生活習慣はよくなかったと思います。

父は、そこまでブランドなどに興味もなかったし、趣味のゴルフと登山をたしなむ程度で、おそらく老後は、棺桶リストのように貯めたお金でいろんなことをしたい、と考えていました。

しかし、結局は退職してからすぐに闘病生活が始まり、70手前で亡くなってしまった。やりたいこともすべてかなえることはできませんでした。

父はきっと仕事も楽しんでいたと思います。でも、やっぱり時間は有限で、たくさんお金を稼いだとしても、自分でそのお金をどう使うのかも、時間をどう使うのかも大切なんだと、私は学びました。

働くことは、ただお金を稼ぐ手段にしてしまうと、後回しにしたことが、取返しのつかないことにもなるんだと思います。


時間=命。やりたいことはすぐにやれ!


私は、父のこの5年の闘病生活を見て、本当に時間の大切さを知りました。

わたしの勝手な憶測だけど、せん妄になった父は、私のために自らの意思で死を選んだかもしれないと思っています。わたしも仕事が好きで、いろんな夢がありました。父はそんな私の様子をみて、自分の存在が私の足かせになっていると感じていたのかもしれません。私はそんな風には一ミリも思ったことはなかったけど、つい最近、夢に出てきた父が、一人で部屋で寝ている私を見守っているのを見て、そう感じました。

自分の大切な命の時間、本当に意味のある時間になっているのか。ただただ消費してしまっていないか。自分が納得して、その時間を過ごせているのか。

父の死をきっかけに、私は、自分の人生をもっと考えて、他人からの目線を気にすることや、他と比べることはなくなりました。

父は生きた証を残したい、とノートに書いていました。生きた証は私が残す、そう思ってます。わたしが、父から学んだことを、私の生きざまで活かせたら、父の生きた証は残るんだと思ってます。

毎日訪れる決断の中で、後悔しない。本当にやりたいと思ったことは、叶える。やってみる。なるべく早くやる。

私はそうやって毎日を精一杯生きています!!


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