【はじめに】
2022年7月から12月にかけて私は「信州読書会」様に参加させて頂いた。
この読書会は、読書会参加者同士が課題図書について対面で議論する形式ではなく、参加者が書いた「読書感想文」を主宰者が紹介してその所見を伺うといった形式をとる。そのため、参加者は事前に感想文を準備しておく必要があり、僭越ながら私も感想文を書いて提出させて頂いた。また、私は過去に開催された2022年1月〜6月期間の本読書会において、自身の読書感想文および課題図書をあらためて振り返り、再点検を行った。その模様は【このレビュー記事の通り】であり、我ながら有意義な試みであったと得心していた。
ところが先月、上記レビュー記事に関してある方から次のお便りを頂いた。
上記の通り、クリバヤシ様(※仮名)より頂いたご指摘事項の要点は、
独善的な態度でレビューに取り組んだり文学をランクキング形式で発表してしまうと最終的に戦争が起こりかねないから即刻やめろ。
かと思われる。考えてみると確かにクリバヤシ様の意見は一理あり、レビューに臨む私の取り組み方には依然として改善の余地があるかもしれず、本件に関してはこの場を借りて謹んでお詫びを申し上げると共に、今後の改善に活用させて頂きたい所存である。前置きが随分長くなってしまったが、こうした経緯も踏まえながら、本稿では「2022年7月~12月期間の読書会で扱われた課題図書」を対象とした課題図書・読書感想文のレビューを行い、以降の読書会における作品理解のさらなる向上に繋げることが本稿の目的である。これを言い換えると、つまり、
ということである。
【採点方式について】
今回の採点方式は、前回同様に以下の通りとする。
以上を踏まえたレビュー結果は以下の通り。
※下記に嘘偽りは一切ない。誓って、すべてが本音である。
【夜明け前(第二部・下巻)】
【戦争と一人の女】
【畜犬談】
【野火】
【黒い雨】
【異端者の悲しみ】
【Kの昇天】
【温泉宿】
【雁】
【焚火】
【おしゃれ童子】
【復活(上巻)】
【東海道五十三次】
【青鬼の褌を洗う女】
【復活(下巻)】
【善蔵を思う】
【二人の稚児】
【ヰタ・セクスアリス】
【冬の日】
以上、2022年7月~12月に開催された読書会における課題図書および読書感想文のレビュー結果となる。それでは最後に、レビュー結果をランキング形式で紹介し、本稿の締めくくりとする。
【課題図書おもしろランキング(7月~12月)】
課題図書を合計得点順に並び替えた結果を以下に示す。
【読書感想文おもしろランキング(7月~12月)】
読書感想文を合計得点順に並び替えた結果を以下に示す。
【課題図書おもしろランキング(年間)】
2022年1月~12月の課題図書を合計得点順に並び替えた結果を以下に示す。
【読書感想文おもしろランキング(年間)】
2022年1月~12月の読書感想文を合計得点順に並び替えた結果を以下に示す。
【あとがたり】
愚にもつかぬ戯言を申し上げる。
私が日本文学を本格的に読み始めたのはここ七~八年程前からであり、それ以前は海外文学、主に英・米・ギリシャを中心に読んでいた。というのも、私がまだ実家にいた頃、両親の本棚にはそういった類の書物しかなかったからであり、本棚の通りすがりにたまたま目についた本を手に取っては読んでいた。読書会で扱われる作品は日本文学が多くを占めており、私は海外文学には多少の馴染みはあるが、日本文学は読みなれていないせいか非常に難しく、散々申し上げてきた通り、志賀直哉、岡本かの子、梶井基次郎らが展開する物語は主張、意義、目的がうっすらと捉えがたい状態で作中に点在しており(あるいは存在しない)、そのため困惑のままに読み終えてしまうケースも度々であった。ただ、吟味を重ねていく内に心を動かされる体験もままあり、少しづつではあるもののようやく日本文学に慣れてきた感はある。が、依然として日本文学を完全な言語化を以て説明するには非常な手間を要する。
今更だが読書感想文とは要するに「作文」の一種である。この作文なるものも悩ましい。そもそも私は文系ではなく理系であり、大学も文学部ではなく理学部出身である。そしてそれ以降も理系の道に進んだため、論文ならばある程度書くことが可能であり、研究テーマに沿って原理および意見とその根拠を検証結果に基づいて論述、つまり筋道を立てて論理的に相手を説得できればそれでよく構成も決められている(文学部でも論文はあるが理系のそれとはその性質が異なるためここでは扱わない)。だが、作文、つまり読書感想文となると勝手がまるで違う。与えられた文学作品に対し、テーマは自由、文体も構成も自由、それに加えて、自分の感性を拠りどころとした心境を書き記さなくてはならず、感想文には一定のルールが存在しないため、かえってそのことが私にとっての手枷となり、その結果、書くに際して大いに戸惑ってしまうのである。実は、作文には苦い記憶がある。
それは中学校を推薦入試で受験した時のことである。推薦入試は一般入試とは形式が異なり、私の志望校は面接・口頭試問・作文で合否を決めるため、その対策として私は放課後、職員室に残って進路指導の教師の下で面接時の受け答えや作文の予行演習を行った。その際、作文に関しては、出題されるテーマを絞って何を書くか事前に準備しておくこと、つまり、試験当日の土壇場で焦って失敗することの無いよう、文章の「引き出し」をいくつか用意しておけと教師は言った。私は教師の助言に従い、「最近気になった時事問題」、「小学生の頃に熱中したこと」、「十年後の自分」、「中学の志望動機」といったテーマで作文を事前に準備しておき、教師からの添削も終えて後は受験するだけとなった。そして試験当日、面接と口頭試問を終えた私は試験官から別室への移動を促され、机の上にはとうとう作文の問題用紙が配られた。与えられた作文のテーマは「私の座右の銘」であった。見た瞬間、私は焦った。予め用意しておいた「引き出し」が使えないという事態はある程度なら仕方ないとは思っていたが、問題はそこではなく、私は「座右の銘」という言葉の意味をそもそも知らなかった。これに焦りを覚えたのである。ただ、座右の銘なる言葉はどこかで一度は聞いたことのあるフレーズではあったとぼんやり記憶していたため、私は必死になって思い出そうとしたが、喉元まで出かかっているもののやはり分からずじまいであった。白紙の提出はそれ即ち不合格を意味するため是が非でも何か書かなくてはいけない。でも何を書けばいいのか分からない。座右の銘とはなんだろう、さんざん考えた挙句、私は作文テーマの「私の座右の銘」を「私の印象に残った言葉」と読み替えて作文を書くことにした。この読み替えによる語意はそこまで大きく外れてはおらず、咄嗟の推理にしてはやけに勘が冴えたものだなと今にして思う。ではここで、甚だ僭越ではあるが、我が脳漿を振り絞って書いた作文を当時の記憶を探りながら再現したので、以下にご紹介させて頂く。なお、筆致については上手く再現できなかったため、原文ママではないものの大体は次の様な事を書いた。
以上の作文を提出して試験を終えた。その晩、試験の出来を両親に聞かれたので、「座右の銘」という言葉の意味が分からず作文に手間取ってしまったことを正直に話すと、ではお前は一体どういった内容を書いたのか?と父が聞くので、私は父と母に関するエピソードについて当人達を目の前にして聞かせた。聞き終えた父はいつものしかつめらしい顔つきが崩れ、そして半ば呆れた様子で、「お前の書いた作文の内容は『座右の銘』とは無関係なことが書かれてあり、生きる上での信条とする説明が欠落しているのが問題だ。『座右の銘』を『印象に残った言葉』に読み替えたまではいいが、肝心の『バカは死ななきゃ治らない』がなぜ自身の拠り所となったのか理由を書かないままに、言葉にまつわる思い出話が延々と語られているのが致命的な欠陥で、合否はまだ確定した訳ではないがこれでは厳しいかもしれない。取り急ぎ、語意の不足は今後補えばいい。ま、こんなもんだな。」と作文の不備を指摘して自分の部屋へさっさと戻っていった。これを聞いていた母は、「大丈夫、気にすることなんてないよ。推薦が無理でも一般入試で合格すればいいだけじゃないの。それにしてもあたしって、アンタにけっこう良いこと言ってたのね。」とご満悦であった。それもそのはずで、私が書いた作文の内容を端的に言えば「父にヒドイ事を言われて傷ついた私を母が優しく慰めてくれた感動秘話」だからである。これは父にしてみればなんだかバツの悪い話であり、それもあってか、父はさっさと自分の部屋に退散したものと思われる。
父の予想通り、推薦入試の結果は不合格であった。
校長と担任のT先生はわざわざ自宅にまでいらしって不合格の報せを私だけでなく両親にも告げて残念そうに帰っていき、あくる日からの私は一般入試に向けた受験勉強三昧となってしまったが、作文というものを振り返ればこうした昔の記憶が呼び覚まされたのでお伝えした次第である。作文はどうしても主観が入る余地が多くなるため、書いている最中の本人は案外気持ちの良いものである。だが試験となるとその主観こそが落とし穴であり、当時の私は語彙力の無さに加えて、作文テーマから逸脱した単なる「思い出話」に主観の花を咲かせた後、主観で掘った大穴に私自ら進んで嵌ってしまったのである。ただ、この文章を改めて見て思うのは、非情に見えるが実直な父、優しそうに見えるが能天気な母、そして幼稚な愚者である私、という三者の有り様が私の心境を通じて自由に描かれており、とすれば、この文章は作文といえば作文と言えなくもない。
今現在、私が読書感想文を提出したところで、主宰者から合格・不合格の烙印を押されることはない。読書会は試験の場ではないから当然の話である。私は本稿を書くにあたり、他の方が書いた作文、つまり読書感想文を全て拝見させて頂いたが、そこには読後の率直な心境が自由に認められており、銘々における作文には心の「働き」がある様に感じた。これは自由が手枷となり覚束ない私からすれば感服すること頻りでもあり、一方で私が率直な心境を語ろうとすると、推薦入試で受けた苦痛のせいか、はたまた余計な自意識のせいか、内心の悶着が生じて「率直」に歯止めが掛かってしまい、心の底から出た自分の言葉で何かを表すといったことは私にとって容易ではない。ではどうするかというと「作文」を放棄して、本心をひたすらに秘し隠した上で、論述・戯言・冗談・大嘘といったものに己を恃み、出来上がった文字列の集合体を感想文と偽って提出するしかないのであり、要するに私の作文は父が語った「ま、こんなもんだな。」に集約されているといって差し支えは…………ない。
といったことを考えながら、そうした今後の課題を発見できたのは思わぬ収穫ではあったが最後の締めくくりとして、今年一年の読書会とオートジャイロと岡本かの子のカリアゲと梶井基次郎の肩幅の事をもう少しだけ振り返ってから今日はもう寝ることにする。
以上