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【感想文】二人の稚児/谷崎潤一郎

『まろの本願でおじゃる』

本書『二人の稚児』読後の乃公だいこう、愚にもつかぬ雑感以下に編み出したり。

▼あらすじ:

出家を控えた千手丸と瑠璃光丸が「女」という名の煩悩にとっても苦労したよっていう話。

▼読書感想文:

っていうか文章がバチクソに上手すぎて、かえって何の参考にもならない。[感想文・完]

▼余談 ~ ラストシーンの解釈について ~:

作中ラストでは瑠璃光丸が前世は女であったという鳥を抱きしめる。この行為を瑠璃光丸の「煩悩」と捉えるか。それとも、煩悩を超越した「慈愛」と捉えるか。または別の示唆があるのか。

その説明にあたり、まず瑠璃光丸の夢に現れた老人の言い分を要約すると、<<お前が女人の幻に苦しめられて居るなら、その女に会ってやるがよい。>> とあり、女に会ってしまうと千手丸の様に煩悩に堕ちるのではと思いきや、そうではなく、<<其の女はお前より先に阿弥陀佛の国へ行って、お前の菩提心を蔭ながら助けてくれるだろう。>> という理由だからだそうで、これにより、<<お前の妄想(※私注:煩悩を指す)は必ず名残なく晴れる>> のだそうで、だから女に会いに行けというのである。そしてそれ以降、邪念が湧かないよう、<<お前の信仰が行くすえ長く揺がないように、此の水晶の数珠を与える>> と老人は語り、瑠璃光丸が目を覚ますと、なんと、<<彼の膝の上には、正しく水晶の数珠>> が実際にあったのだという。そしてこの日は満願の夜でもあった。

このように老人のくだりを整理すると、満願成就のお膳立てはバッチリ完璧である。
そして、最終場面において瑠璃光丸は <<雛をかばう親鳥の如く、両腕に彼女をしっかりと抱き締めた。>> そして、<<弥陀の称号を高く/\唱えて、手に持って居た水晶の数珠を彼女のうなじにかけてやった。> とあり、この「雛をかばう親鳥」という点からして、彼の内には女性という現世の快楽といった下心や好奇心が目的としてあるのではなく、盡十方じんじっぽうの佛陀の光明に浴することがやはり目的であったものと思われる。よって、この場面は崇高な慈愛の精神に基づく行為であると私は思う。

といったことを考えながら、こんな感じで素直に読むと本書は清々しさを覚える作品である。しかし、谷崎潤一郎の作品は『春琴抄』『痴人の愛』『少年』『刺青』等、女性崇拝をモチーフとしたものが多いので、穿(うが)った見方をすると、本書は「作中全編を通して女性の姿を見たことがない瑠璃光丸が頂上で会った鳥を女性に見立てて偶像崇拝に及んだ話」と拡大解釈することもできなくはない。

以上

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