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森鷗外『ヰタ・セクスアリス』読書会 (2022.12.9)

2022.12.9に行った森鷗外『ヰタ・セクスアリス』読書会の模様です。

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青空文庫 森鷗外『ヰタ・セクスアリス』

朗読しました。

森鷗外『ヰタ・セクスアリス』解説


本人にとってはまんざらでもないというクソダサムーヴ


 
正直に感想文を書くとしたら、私は私の『ヰタ・セクスアリス』を語ったほうがいいのだろう。しかし、有料だったらまだしも、無料で、自分の性癖を暴露するというのは、私には、シラフで裸ダンシングするみたいで、やりきれないのである。
 
それはともかく、エロへの探究心と、哲学的なものへの探究心は、殿方にとって同根であるというのが、私の持論である。殿方は、エロに倦むと、反動的に哲学を求めだすのである。獣欲への自己反省が、形而上学への触媒となる。
 
だからこそ、恋愛は、このエロと哲学への探究心が複雑に絡まりありあったものになるのである。恋愛をしていて、哲学的にならない殿方はいない。恋愛には、まず、相手を神聖視するという理性的な頭の働きを伴う。相手を性欲の対象としてしか見ないなら、理性は発動しないし、哲学も黙しているだろう。したがって、肉欲を超えたところで、相手との関係を客観的に考えるようになれば、哲学のはじまりである。

恋愛は、恋愛対象とともに自分自身を明晰化しようとする営みである。このいいかたは、いささか抽象的すぎるので、具体的にいえば、恋愛によって、相手を神聖視しはじめると、自分のなかに、虚栄心がむくむく鎌首をもたげてくるのである。

鷗外は、この作品のなかで、虚栄心のことを『dub』(=殿方が男性の自尊心を満たす)と表現している。オスの本能は生殖に伴う肉欲であろうが、それだけ満たしても、人間に固有のdubはみたされない。恋愛に伴う虚栄心は、他人に羨ましがられたいという顕示欲や、顕示欲が満たされることによって得られる自尊心に関わっている。
 
この虚栄心の具体的な中身は、ドイツ留学中に、地元のチンピラの情婦である『凄み掛かった別嬪』にトイレまで追っかけられてチューされて、ランデヴーしちゃって、相手は金目だったけど、同僚には、金目だったというのは黙っていて、あの女とやったと自慢だけした、という、よく考えればずっこけエピソードだが、本人にとってはまんざらでもないというクソダサムーヴのエピソードによく表れている。

これは、よく考えれば、金髪のおかんこ頂戴したら同国人の度肝を抜いて、優勝じゃん、みたいなマウンティングで、痛々しいし、単なるアジア人の西洋コンプレックスの裏返しであるが、鷗外先生がそこに気がついていないわけがなく、それでも書いているとしたら、鷗外先生のそこをあえて書いたクズっぷりが、逆に、微笑ましいのである。

外国での虚栄心は、鷗外先生のノイギールデ(好奇心)のためにどさくさ紛れに正当化されるのである。

読者は、そこを突っ込むべきだろう。本人にとってはまんざらでもないというクソダサムーヴのエピソードだ、と。
 
これに似た虚栄心を、日本人女性との関係で書けば、いきおい鷗外もディオニュソス的にならざるを得ない。でも、社会的立場があるから鷗外はこのへんで止めておいたのだろう。ただ、『青年』にはそのへんの虚栄心にまつわる苦悩がフィクションとしてしっかり書いてあった。(ラストの未亡人とその情人と青年の三角関係に)
 
まあ、しかし、同じ男だから、なんとなくわかるような気がするが、手加減して書いている。ドイツでのクソダサムーヴ以外は、わりかし、誠実に等身大の性生活を描いている。それでも、『舞姫』にかかれた太田豊太郎の卑怯なクズっぷりのほうが、この性生活の告白よりもズシンと来る。『舞姫』の主人公は、日本での出世のために踊り子を捨てたのである。鷗外先生、本質的には太宰治くらい自己正当化が激しそうだが、専業作家ではないからか、あまりバレていない。

(ヰタ・セクスアリスとは、俺、わりいけど、ドイツではモテたから、ということだったのだ)

(おわり)

読書会の模様です。


お志有難うございます。