存在の永遠とフロンティア精神の限界
現代世界はアメリカである。
アメリカ独立宣言がヨーロッパ中心の植民地主義からの脱却を表明し、人間一人一人に自由と平等の権利がある、と高らかに告発した。
アメリカという、今や国際社会において不動の王座を占める大国の出生には、根本に、人間による人間への最大の無条件の肯定がある。
そして、この思想は瞬く間に世界を席巻した。
それもそのはず。
こんなに一人一人の人間にとって都合のいい解釈は他にない。
生まれながらにして自由と平等を主張する権利がある。
誰にとっても理想的な響きを持つ考えだ。
それは、人間(存在の謎)が、人間の発明(存在の権利)に屈することにより、永遠に風通しの良い進歩的な精神を手に入れた、という奴隷精神からなる逆説的な開放思想の見せる魅惑的な幻影である。
つまり、そのはじまりからして、「存在」それ自体への内的反省は、非常に細やかな手つきで取り除かれている。
古代ギリシャにおける哲学的な形而上の探求を真っ向から一刀両断することで、常にすべての外的世界へと意気揚々と発展する未曾有の「開拓精神」が切り開かれたのだ。
その当然の帰結として、今日の資本主義社会の成熟と科学思想への圧倒的な支持がある。
すべては外的世界への絶え間ない欲求へと"方向付け"されたわけだ。
人間にとって普遍的な豊かさは物的世界の充実であり、宇宙のすべてを科学的に検証し、根拠付け、理解することで、どこまでも人間のフロンティアは開拓される。
そのフロンティア精神に基づき、人間の精神世界の充足も、眼に見えて実現される、と。
大量生産・大量消費。
不毛の地にモノが溢れ、人間を覆い尽くすことが、さらなる外的世界への探求へと向かうアメリカ的フロンティア(開拓)精神なのだ。
資本主義と民主主義を重んじる社会では、市場データと統計学が、大きくものを言う。
人間に関するあらゆる事柄は、主観性に基づく行動論理の集合を、客観的な事実の膨大な収集成果として扱うことにより、より大多数にとって正確な一つの事実、解答を得られると考えるわけだ。
それがマーケティングであり、今日の占いのコーナーになる。
人間の外的事実を分析し、理論化することにより、誰にとっても"当てはまる"社会的真実を見出だそうとするわけだ。
そして人々は、それらがあまりに膨大なデータを参照しているというそれだけの根拠で、なるほどこれは客観的な真実であり、信ずるに足る、と考えるわけだ。
そのためには、とにかく試すこと、見ず知らずの土地に踏み入ることを躊躇わず、どこまでも新奇のデータを集めることこそが重要になる。
これがアメリカ西部開拓時代から続くフロンティア(開拓)精神であり、現代社会が進歩的と考えているすべてのベンチャービジネスの根本思想と言える。
例えるなら、何かが「美味しい」という事実があって、そこから、なぜこれが「美味しい」のか。「美味しい」とは、いったい何事か。
ということを考えるのではなく、「美味しい」ということは「美味しい」のだから、それはそれでよい。
だから、次になすべきは、その「美味しい」という現象の多様な現れ方をとにかく片っ端から経験し、すべての「美味しい」を経験的事実により知覚し、体系化することが、「美味しい」それ自体を知ることである、と、考えるということだ。
では、次にこう考えてみる。
とにかく片っ端から食べてみることにより「美味しい」の多様な現れ方を把握した大食的な人間がいるとする。
一方で、一つの物を何度も繰り返し味わい、「美味しい」ということ自体について考え、理解した少食的な人間がいるとする。
前者が「これ美味しいから食べてみて。」と、後者に薦めたとする。
そうすると、判明するのは、薦められた方の人間も、「ああ、確かにこれは美味しいね。」と、即座にその「美味しい」を理解するという端的な事実である。
これはあまりにも当たり前過ぎて、私が何を言いたいのか分からなくなるかもしれない。
つまり、"外的データ"としては、限りある少数の「美味しい」の現れ方しか知らない人間も、「美味しい」という現象の本来的な性質=本性を理解しているならば、食べたことがない「美味しい」についても、「既に内的経験(データ)として"知っている"。」ということだ。
「美味しい」ということが、どういうことかは、きちんと結論を持っている。
だから、未経験の味覚に対しても、それは自分が知っている「美味しい」という何事かの多様な現れ方の一つの分岐可能性である。
と、逆算できるために、それが「美味しい」ことが分かるわけだ。
では、どちらがより多くの「美味しい」という現象の現れ方に精通しているかと言えば、これは「美味しい」の本質を捉えた方ではないだろうか。
なぜなら、彼は「美味しい」ということが、何事であるかを掴んでいるから、その何事かの"いかような"未知の現れ方に対しても、本質からの推論により、先見的に"知っている"ことができるからだ。
つまり、すべての「美味しい」の現れ方を"あらかじめ"知っているということになる。
対して、とにかく「美味しい」という現象の現れ方を多様な「美味しい」の膨大なデータによって、外的事実の集積として、"なんとなく"理解していると"思い込んでいる"人間は、すべての「美味しい」の現れ方の分岐可能性を食べ終えるまでは、未経験の「美味しい」について、"本質的に"何も知らないということになる。
物事の根本的な立ち上がり方に眼を向けず、その現象的な現れ方ばかりを市場データ、統計的事実に還元して、その膨大なデータだけを根拠に、そのモノ自体がどういうモノかを結論付けようとするのは、そもそもからして誤りではなかろうか。
そこから得られるのは、「美味しい」には人それぞれの「好み」がある、という甚だ当たり前な真実以外ではあり得ない。
だから、現代社会では、あらゆる事柄において、多様性とすべての価値観に対する平等な待遇ばかりが主張されるわけだ。
本質を追求せずに、現象ばかりを追い続ければ、やがてそれが人それぞれの「あり方」でしかなく、「好み」でしかなくなる。
そうなれば、何事においても、多様性やすべての価値観の平等などという"短絡的な答え"が、さも、まことしやかに正義面で語られるのは自明のことだ。
その出生の事実からして、内的真実に眼を背けたアメリカ的現代社会は、永遠に本質的ではあり得ない。
これがすなわち資本主義の根拠とその限界であり、科学思想の根拠とその限界である。
科学が、その技術的進歩により、あらゆる現象の観測を可能にし、どれだけ遠い宇宙を眺められるようになっても、それは"なんとなくそう考えられる"以上にはなり得ない。
この根本的な誤解がどうして生まれたかというと、私は次のように推論する。
「存在」という謎を、例えば仮に「宇宙」、「地球」、「私(人間)」という3つの現れ方で捉えた時、アメリカ的フロンティア精神に乗っ取って考えると、以下の不等式が成り立つ。
すなわち、「宇宙」>「地球」>「私(人間)」という式だ。
とにかく外的事実に論拠を求める「外的開拓精神」では、より大きく包括的で抽象的に"見える"上位の概念(=「宇宙」)を探求しようとする。
しかし、実は「存在」という根底的な謎に関しては、実際は以下のような等式が成り立っているはずなのだ。
すなわち、「宇宙」=「地球」=「私(人間)」。
なぜなら、「存在」している、という根幹的な謎において、「宇宙」も「私(人間)」も等しく「謎」であるからだ。
この3つの現れ方は、「存在」という"最も包括的な不可解"において、そのどれかが、どれかに対して上位の概念である、ということはないのだ。
「宇宙」も「地球」も「私(人間)」も、等しく抽象的で、等しく分からない。
では、この「存在」の謎に向かう『「宇宙」=「地球」=「私(人間)」』の等式で考えれば、「私(人間)」の存在を考えることは、「宇宙」の存在を考えることに等しく、これを「内的開拓精神」と呼ぶとすると、次のような関係性が示せる。
すなわち、「内的開拓精神」>「外的(アメリカ的)開拓精神」である。
「美味しい」の話で考えたように、本質を考え、本質に向かうことこそが唯一、「本質的に考えること」であるから、それを出生からして"取りこぼした"アメリカ的開拓精神は、本質を永遠に知り得ないという端的な限界からして、完全に「内的開拓精神」に劣るのだ。
100の事実を知ることよりも、その100の事実を現象させる1つの真実を知ることの方が優れていることは、誰の眼にも明らかなはずであるから。
そして、この根本的な誤解が、これほど単純な誤解であるのにも関わらず何故に今日のように拗らされているかというと、これは「主観的」/「客観的」という言葉の"便利さゆえの不便さ"に大きくその原因があると思われる。
現代では、大多数の人々が、主観的な事実よりも客観的な事実を支持し、信用する。
「主観的」という言葉は、「客観的」という言葉よりも軽蔑される場面が多く、それは科学的根拠や市場データに基づく分析を何よりも有り難がるアメリカ的世界観の中では当然のことなのだ。
だが、よくよく考えれば、この「主観的」/「客観的」という言葉が、どちらも非常に曖昧で取るに足らない、それゆえに便利な言葉である、ということに気づくはずだ。
つまり、市場データなどの膨大な顧客情報は、そもそも実は一つ一つは非常に個人的(=主観的)なものではなかっただろうか。
そして、科学的根拠というのは、科学者の「主観的」な観察による「客観的」に"見える"現象の理由付けではなかったか。
「主観」/「客観」という言葉は、非常に便利であるがために"無反省"に乱用され過ぎている。
物事はそもそもそんなに単純ではない。
というより、そもそもそのような分別を持ち合わせていない。
一を以て万を知る。
とは、古代中国の思想家、荀子の言だ。
これは、一を聞いて十を知る、という現代でも、もてはやされる言葉と同義とされるが、私にはまったく異なる響きを持つように思われる。
だいたい字面が違うのだから、異なるのは当然だ。
一を「以て」、「万」を知る。のと、一を「聞いて」、「十」を知る。では、まるでわけが違う。
私の解釈によれば、一を「以て」ということは、"一"という限界において徹底的に考えるという事だ。
対して、一を「聞いて」は、"一つの事実"を聞いて、それを根拠に、その周辺(十)を考え知るという事だ。
そして「聞く」というのは、耳が正常な機能を有しているならば、意識していなくても「聞こえてくる」ということだ。
まずここからして、取るに足らない。
しかし、"一"を「以て」="自分自身で「捉えた」こと"を考える、ということは、自分自身の存在"一つ"で、"万物"すべてを考え、知る、ということで、これは全然同じ意味合いではあり得ない。
今日の人々の間で「一を以て万を知る」は使われずに、「一を聞いて十を知る」の方が重宝されるのは、それが現代社会の思想と、その身の丈にあった言葉であり、さらにそれを「一を以て万を知る」と、同義だと、簡単に処理することで、空疎な自分たちの言葉を権威付けして、自分自身の欺瞞を騙してやり過ごしているに過ぎない。
人間は本来、自分一人で本質を考えられるはずである。
なぜなら、今日ここで確認したように、「存在」という"本質的な"謎において、「宇宙」も「私(人間)」も、等しく高度に抽象的であり、「自分自身」によって「存在」を考えることは、「宇宙自身」によって「存在」を考えることと、 本来的にイコールだからである。
この当たり前を忘れた現代社会が行き着く先は「永遠の座礁(心理)」であり、「永遠の楽園(真理)」ではあり得ない。
※もちろんここで言う"楽園"は、現代人が夢想する心理的欲望の充足される場所としての楽園ではない。
その意味において、私はこう言うことができる。
人間は、徹底的に孤独な「存在」である、と。
「私」以外に明らかに「存在」し、「客観的」な真実として現れていると"信じられている"すべての「他者」、「出来事」、「宇宙」は、しかし、「私」を考えなければ、まったく現象に過ぎず、現象だけを追い続ければ、それは現象に振り回され、同じ場所をぐるぐると右往左往しているに過ぎないのだ。
長々と散々愚痴っぽく書いたが、それでも人間は少しずつ進歩しているはずである。
歴史は繰り返されながら、一つ一つ誤りを正していく。
だから今日の社会を憂いながら、しかし実は全然それを憎んではいない。
今日という日は、真理へと向かうたった一つの一歩である。
いつか何千年後かに、ここではないどこかで考える一人の人間が、ここではないどこかが、ここであった、と気づく日が来るだろう。
そう信じるためには、まずここにいる「私」自身が考えなくてはいけない。
「私」という「存在」は、「存在する」という"謎そのもの"であるために、すべての次元を越えて「存在」し続ける。
人間は滅びても、「存在」は滅びることがない。
私は去っても、「私」は居続ける。
「存在」の謎に立ち向かうということは、「存在」が永遠であるかもしれない、という途方もない暗闇に自らの身を投じることだ。
それには必ず畏れが伴うが、なおも私を惹き付けて止まない。
「私」の開拓精神は、永遠に、何一つ損なわれることはない。