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永遠の図書館

 わたしは、暗く、どこまでも続く通路の真ん中に立っていた。見えるのは赤地と黄色の装飾が美しいタイル張りの床と、左右に聳え立つ本棚、そしてその一段一段にぎっしりと詰め込まれた重たそうな本だった。
 それらが見えたのは、わたしが小さな蝋燭の灯ったランプを手に持っていたからだ。ランプを持つ手にはほのかな温もりが感じられる。もっとも、ここは決してひんやりと冷えているわけではなかった。でも、このランプがあるとないとでは、感じる温度が違ったろうとわたしは思った。
 どうしてわたしがここにいるのか。その理由はわたしにもわからなかった。ただ、わかったのは、わたしは望んでここに来たのだということだった。孤独で、暗くて、ただ本が立ち並ぶこの空間……わたしは天井を見上げた。本棚は、わたしが手に持っているランプの明かりが届かないところまで高く伸びていて、終わりが見えなかった。

「ここは、終わりがないのね」

 わたしはそう独りごちた。声は、静かに、ゆっくりと、空間を這いつくばって広がっていくようだった。
 わたしはランプを見下ろした。中で小さく、ゆらゆらと揺れている蝋燭の火は、しかしさっきから全く変わっていないようだった。これも、終わりがないんだ……わたしは揺れる火を見つめてぼんやりとそう思った。

「いい、景色ね」

 蝋燭から顔を離して、左右をぼんやりとした頭のまま見渡すと、口から自然と声が出た。ちょっと歩いて、本を眺めてみようかしら……そう思って、わたしはくるりと左に体を振り返して、今向いていた方向とは反対の方向に向かって歩き始めた。
 ひんやりとしたタイルの感触が、わたしの足に染みてくる。気づくと、わたしは裸足だった。白いワンピースの下から生えているそれは、褪せたような淡い色で、細かった。
 途端、わたしはこの足で、ステップを踏んでみたくなった。踊りなんて、踊ったこともなかったけれども、突然そうしたくなったのだ。こんな暗い中で、今にも消えてしまいそうなランプを持って、どうしてそんなことを思いつくのか、自分でも不思議だったけれども、立ち並ぶ古い本のやや湿った、もくもくとした香りをかいでいると、心がどんどん浮き上がってきたのだった。
 そんなんだからわたしは、いつの間にか身体を動かしていた。足をぺちぺち、身体をくるくる回して、手振りまでつけた。手を大きく広げてこの本が立ち並ぶ狭い道で上下左右前後に器用に躍り込んだ。気づけばリズムの良いピアノの音で音楽まで頭に鳴り響き、わたしの腕はさらに大きく回り込んだ。
 が、ガチャリ、という音とともに、右手と腕に重い衝撃が走って、わたしは踊りをやめた。目はいつ閉じたのか、開いていなかったけれども、その音と同時にあたりが真っ暗になったことに気がついた。ランプが割れたのだ。この図書館での唯一の明かりだったランプが、棚に当たって割れたのだ。
 わたしはまぶたをゆっくり開けた。あたりは当然真っ暗で何も見えなかった。ただ、周りにはガラスが飛び散っているかもしれないから、裸足の足を動かすこともできなかった。さっきまで頭の中で鳴り響いていた陽気なピアノの音楽は急に鳴りを潜め、沈とした静けさが辺りを満たした。
 急に寒くなってきた。体の表面がぶるっと震えて鳥肌が立つ。やっぱり、あのランプはわたしを温めてくれていたんだ。今更ながらランプのありがたさをしみじみと感じる。わたしは何も見えない暗い視界の中で、砕けたガラスが落ちているはずの足元を見つめた。
 すると、そのガラスの一片がきらっと光ったのか、白い星のような小さな粒状の光が、わたしの目に飛び込んだ。その光は、細く、小さかったものの、針のような鋭さをもって、わたしの瞳にすうっと飛び込んできたので、わたしは思わず後ずさった。が、そのとき運悪くガラスの破片を踏んでしまい、わたしの左足の裏にはチクチクッとした痛みが溢れた。

「いったいどうして君はこんなところに迷い込んだというのさ」

 突然、子どものような無邪気な明るい、しかしちょっとだけ不機嫌そうな声が、わたしの耳に聞こえてきた。痛みで歪み、焦点が合わなくなった目を凝らしてみると、自分の顔の高さの位置に、さっき見た白い閃光と同じ輝きを放っている小さな粒のような点が浮かんでいた。

「あなたが喋っているの?」

 わたしは恐る恐る聞いてみた。すると点はそうだと言わんばかりにぐるんぐるんと大きく弧を描いて勢いよく回り、こう言った。

「まったく、ランプを割ってしまったんだもの、どうして君のような迷い羊を放っておけるっていうんだい。ランプがあれば、ここから抜け出すチャンスはあったというのに、今じゃ君はどうしようもないじゃないか」

声は子どものくせに、なんとも生意気だった。わたしはむっとして、白い点から目を背けて、ぶすっとした調子でこう言った。

「いいの……わたし、ここがいい」

「何を言っているんだ。この永遠の図書館にいて、いいことなんてあるものか。だいたい、いつまでもここにいたいっていう人間は、ろくな人間がいないんだ。ぼくはずいぶん見てきたぜ、自分はこの部屋でずっと過ごすんだって言って、ろくすっぽ歩きもしないで最初に手に取った本を飢え死にするまで貪り読んでいたばかやろうを。ああ、まあ、そういう意味では君はまだましか。本には目もくれないで、この狭っこい通りで踊り回っていたんだもんな」

「わたしだって、本を読もうとしていたもん……!」

 点に散々に言われて、わたしは急に恥ずかしくなった。あの何の考えもなしにただ動きたいように手足を動かしたへたっぴな踊りを、このくそ生意気な白い点に見られていたなんて! 穴があったら入りたいというのはまさにこのことで、わたしは自分の顔がどんどん熱くなってくるのを感じた。

「まあ、いいよ、本を読むよりはましなんだから。いや実際、あの踊りは良かった」

 点はそう言ったけれども、「あの踊りは良かった」と言った声が笑いを抑えているのは明らかだった。ばかにしてる……わたしはそう思って、熱くなった顔を何とか治めようとしながら、胸にふつふつと湧いてきた感情を、どうやってこいつにぶつけてやろうかと考えていた。でも、点は、そうした考えを胸に秘めて睨み付けているわたしのことを無視するかのようにこう言った。

「さて、歩けるかい? ここでじっとしていても始まらない。本を読まない君にしたら、ただただお腹が減って、そのまま死ぬのを待つだけだ。とにかく、迷える子羊ちゃんよ、一緒に歩こうじゃないか」

 点は淡く白い光を放ちながら、すうっとわたしから離れるように向こうの方へ進んでいった。

「あっ! ちょっと待って! 置いてかないでよ! あっ、痛い!」

 さっき引いた左足を前に出すと、再びピシッとした痛みが走った。もういくつか、ガラスの破片を踏んでしまったようだ。足の裏は今や広い範囲でじんじんする。わたしは顔を歪めて、左隣の本棚に身体をもたれかけた。

「ちょっと待って……ガラスが……ガラスが足に刺さって……痛くて、進めないの……」

 泣きそうなわたしの声に、しかしあの生意気な点は、厳しく冷たい言葉を返すだけだった。

「何を言っているんだ。自分で撒いた種だろう。ここから先は、そんなんじゃ絶対進めないぞ。自分で何とかしろ」

「そんな、こんな足じゃ、まともに歩けないよ」

「知るか。じゃあ君はそこで飢え死にするんだ」

「やだ! 餓え死になんてしたくない! あなたはどうしてそんなに生意気で、冷たいことしか言えないの? 子どものくせに!」

 点は黙って振り返り……といっても点だから、どっちを向いても同じなのだから、わたしがそう感じたに過ぎないのだけれども……すうっと少しだけわたしの方に戻ってきた。その様子は、見た目こそさっきから全然変わっていないようだったけれども、さっきまで散々うるさくわたしを罵っていたのが急に何も言わずに静かになったせいで、妙な圧力のようなものが感じられた。わたしはその圧力を極力避けるようにして、脚こそ動かさなかったけれども、できるだけ身体を後ろに反らせた。
 やがて点は止まってこう言った。

「子どものくせにだって? だったら君はもういい歳をした大人のくせに、自分一人じゃ何にもできないのか。ガラスだって? そんなもの、自分でひっこ抜きゃいいじゃないか。床に散らかったガラスが心配なら、自分の手で掃くか、そうじゃなかったら明かりをどうにかして確保しろ。それくらい、大人だったらできるだろ」

「大人って、わたしはまだ一七歳よ?」

「十七歳だって充分大人だろ。いつまで子どものつもりでいるんだよ。というか、いつになったら大人になるつもりなんだよ」

「さ、さあ……そんなの、どうだっていいでしょ。二十歳とか、三十歳とか、どうせいつかはなれるんだから」

「二十歳だったらあと三年しかないぜ。三十歳だったらあと十三年。でも、そんな呑気に構えていて、果たして自動的になれるもんかね」

「知らないわよ!」

 最後にはもう、わたしは大きな声で叫んでいた。ただ、その声は、最初の時とは違って、這いつくばるように周りに広がっていくのではなく、棚という棚に反射して、自分に返ってきた。「知らないわよ!」……その声の何と幼いことか……わたしは自分の声を聞いて胸がぞわぞわしてきた。身体が硬くなってきた。気分も悪くなってきた……。
 光の点はまだふわふわと目の前で浮いている。淡い光が、棚や本を優しく照らしている。あっ……とそのとき気がついた。これを使えば床に散らばるガラス片を避けることができる……わたしはさっき自分が口にしたことを恥じながら、それでもここでじっとしているわけにもいかず、おずおずと言葉を出し始めた。

「あの……気分を悪くしていたらごめんなさい……でも、ちょっとだけ床を照らしてもらってもいいのかな……やって、くれるよね?」

 すると点は一瞬、少しだけ暗くなって考え込んだ(ようにわたしには思えた)。そして恐らく顔を上げて、こう言った。

「まあ、いいよ……君がそうやって頼むならね」

 点はひゅるひゅると降りていった。少しずつ、床の様子が見えてくる。赤地のタイルは、点の輝きに反射して、ところどころ白く見えた。と、その中できらきらと煌く破片が目に入った。ガラスは、大小様々、いろんなところに飛び散っているようだ。

「まずは足の裏に刺さったガラスを抜いたらどう?」

 わたしがどこに足をつけたらいいか思案しているところで、点は言った。えっと思って左足の裏を見ると、血と刺さったガラス片がちらちらと輝いていた。その輝きに呼応するように足の裏がじんじんと痛む。傷は、皮膚の奥、肉にまで達しているようだった。
 左腕を本棚にもたれかからせながら、わたしは屈んで右手でそおっと足に刺さったガラスに触れた。びっとさらに鋭い痛みが走る。血は、その間にもとろとろと流れ出ている。わたしは恐る恐るガラスを抜いた。抜く間にも、じくっとした嫌な痛みが足を貫く。一本抜いて、あと一体何個のガラスを抜かなければならないのだろうとわたしは目を凝らした……まだ、五本もある……はあ、はあ、と息が切れてくる……この痛みは、いつまで続くのだろう……しかし、この点は、ただ足を照らしてくれるだけで、他には何も助けてくれないのだろうか……?

「助けてくれ、なんて思うなよ。ぼくには手がないんだからね」

 なんなのこいつ、と今度は腹が立ってくる。いいわよ、自分で抜くわよ、という思いでわたしは点を睨みつけ、急いで二本目を抜きに右手を左足に近づける。そうして矢継ぎ早に、だけども慎重に、刺さったガラスを全て抜き、わたしはようやくほうっと息をついた。足の裏は、まだじんじんと痛んでいるけれども、いくらかましになったようだ。

「さて、終わったなら早いところ、こんなところから抜け出しちゃおうぜ。ぼくはもう待ちくたびれたよ。あ、またガラスを踏むなんてドジはするなよ。面倒くさいから」

「いちいちうるさいわね。そんなこと、言われなくてもわかっている」

 しかし、そうは言ったものの、周りは再び暗くなっていて、どこに足をつければガラスを踏まなくてすむのか、まるで見当がつかない。仕方がないからわたしは、もう一度、この淡く白く輝く点に尋ねてみた。

「ねえ、どこに足をつければいいかわからないから、ちょっと周りを照らしてくれる?」

「いいよ」

 今度は素直に聞いてくれた。なんだ、この子はやっぱりいい子なのかな……。
 点はわたしの足元をすうすう飛び回って、一通り周りの様子を照らし出してくれた。すると案外ガラスは遠くまで飛び散っていないことがわかった。照らされた、あそこ、タイルの赤い部分がほんのり白く反射している。怪我をしていない右足で少し飛べば届きそうだ。
 わたしは右の脚に体重をかけてぐうっと屈んだ。拍子にちょっとだけ動いた左足が空を切ってぴりっと痛む。うっとわたしは顔をしかめたけれども、自分が見定めたあの綺麗なタイルをじっと見つめて、右脚にしっかり力を込める。そしていよいよだと思った頃合いで、右の太腿に溜めていた力をえいっと思いっきり斜め上へ押し出した。
 右足がついた。次いで左足が……またぴきっとした鋭い痛みがいくつも走る。わたしは思わず足を抱えた。触ると、ますます強い痛みが走った。耐えられなくなって、わたしは本棚に自分の背中をもたれかからせた。そして、へなへなとお尻を床につけてしまった。こんな足で、わたしは歩けるのだろうか?

「もう、もっとうまく飛ばなくちゃ」

 痛みで息を切らせているわたしに向かって、点はふわふわと寄ってきて、無邪気な声でそう呟いた。わたしはそれを、痛みでしかめた顔の、うっすら開いた瞳から覗いた。

「どう、歩けるかい? いや、それは愚問かな」

 点はまだ、わたしの目の前をふわふわと漂っている。こんなところで、こんなちびた点に歩けないと泣き言を言うのは癪だった。でも、さっきの激痛からして、まともに歩けないことは確かだった。
 わたしはふと顔を左に向けた。ただあの憎たらしい白く輝く点から顔を背けたかっただけだ。しかし、そうすると、棚に並んだ色とりどりの本が目に入ってきた。赤、緑、青、黄……表紙の色はどれも濃く、分厚い布でできているようだった。その並んだ背表紙の中には、金や銀で文字で題名が刻まれている……『この世の終わり』『この世の始まり』『マイク・ミヒャエルの冒険』『夢世界旅行』『変わらずの都』……どれも見たことのない、古臭い響きのタイトルばかりだ。でも、その中で一つだけ、わたしの目を引くものがあった……『永遠の図書館』……黒い表紙に、金色の文字で書かれたそのタイトルは、わたしの目にじっと焼きついた。
 気づくとわたしはその黒い表紙に手を伸ばしていた。金色の文字がわたしを呼んでいる……そんな気さえした。そうして少しざらついた分厚い布の表紙に右の手の人差し指が触れた。少し重い。この棚はやや、本をきつく押し込んでいるようだ。わたしは中指を人差し指に添えた。そして肩と腕の力でその黒い本を思いっきり引っ張り出した。
 ばらばらと、両脇で黒い本を挟んでいた色とりどりの本が落ちてくる。あ、と思ったけれども、黒い本が自分の腕の中にあるのを認めると、わたしはそれを気にもとめなかった。早く、この黒い本を読みたかった。どこかで誰かがわたしの名前を呼ぶ声がしたような気がしたけれども、放っておいた。わたしは黒い表紙の本、『永遠の図書館』を自分の脚の上に置いた。ちょうどわたしの太腿の長さと同じくらいの縦幅がある。
金の文字は、今やきらきらとわたしの目に煌き、早く本を開けと訴えかけていた。わたしはその重たい表紙を開き、ページをめくった。古い本独特の、ふんわりとした香ばしい香りが心地いい。最初のページだ。とても古い、黒のインクで書かれている。


 わたしは、暗く、どこまでも続く通路の真ん中に立っていた。見えるのは赤地に黄色で装飾されたタイル張りの床と、左右に聳え立つ本棚、そしてその一段一段にぎっしりと詰め込まれた重たそうな本だった。
 それらが見えたのは、わたしが小さな蝋燭の灯ったランプを手に持っていたからだ。ランプを持つ手にはほのかな温もりが感じられる。もっとも、ここは決してひんやりと冷えているわけではなかった。でも、このランプがあるとないとでは、感じる温度が違ったろうとわたしは思った。
 どうしてわたしがここにいるのか。その理由はわたしにもわからなかった。ただ、わかったのは、わたしは望んでここに来たのだということだった。孤独で、暗くて、ただ本が立ち並ぶこの空間……わたしは天井を見上げた。本棚は、わたしが手に持っているランプの明かりが届かないところまで高く伸びていて、終わりが見えなかった。

「ここは、終わりがないのね」

 バタン!
 わたしは本を閉じた。胸が、大きく上ずっていた。すう、はあ、すう、はあ、と息も上がっていた。嫌な汗が、額から頬、顎へと流れている。

「やっと、気づいたかい?」

 聞き覚えのある、無邪気な声が、目の前で聞こえてきた。でも、わたしは目を上げる気になれなかった。いったいわたしは何度、こんな虚しい経験を繰り返してきたのだろう?
 忘れかけていた足の傷が、再びじんじんと響き出す。痛かった。とても痛かった。でも、今はそれを、わたしがここにいる証だというふうに感じることができる。わたしは少しだけ、目が潤むのを感じた。

「ねえ……」

 わたしは息を落ち着け、胸の上ずりを押さえつけて、ようやくなんとか声を口にした。

「わたしは今まで、どれくらい今みたいなことを繰り返してきたの?」

「そうだなあ……数え切れないくらい」

 点は少し考えるふうをしてふわふわ漂い、そして呟いた。はっきりとした答えじゃなかったけれども、わたしにはそれで十分だった。

「ここから、抜け出す方法は?」

 わたしは点をじっと見つめて聞いた。点は相変わらず淡く白く輝いて、ふわふわと浮かんでいる。

「君はこれまで、嫌なことや辛いことがあると、どこか遠くへ逃げてきた」

 わたしの左足がじくっと痛んだ。わたしはうっと顔をしかめた。

「だけども『遠くへ』というのは、物理的な距離じゃなくて、精神的な距離のことだ」

 点はふわふわと左へ向かって進んでいった。わたしはそれを目で追った。

「でもね、精神的な距離というのはね、測ることができないんだね。これが厄介だ。ただ、言ってみれば、そうだな、君が足を痛めたときに、この『永遠の図書館』に逃げ込んだように、嫌なことがあると、すぐに別のことに目を向けようとするということだな」

 やっぱりこいつは腹が立つ点だ、とわたしは思った。だけども、この黒く重たい本を膝に置いている今、わたしには何一つ言い返せなかった。

「さて、そういうわけで君は今でも何かから目を背けているはずだ。それが何かは、ぼくは知る由もないけどね。ただ、ぼくには一つ、思い当たる節はある」

「えっ……何……?」

 わたしは身を乗り出した。傷で血まみれの左足が再び空を切って痛んだ。でもわたしは、ぐっと歯を食いしばって、痛みを我慢した。
 左へ向かって漂った点は、振り返ってわたしを見つめたようだった。そして、少しだけじっと止まって、やがてまた話し始めた。

「いいかい、この『永遠の図書館』にやってくるのは、だいたいがこの世の楽しみを享受することしか頭にない人たちさ。さもなくば、この世に何か楽しいことは転がっていないかとハイエナのように血眼になってがらくたみたいな仕方のないものを探しているかだ。でもね、そういう人たちというのは、自分で何か楽しいものを作るということを、ほとんど全くしないのさ。人間にはせっかく、出来の良い頭と、自由自在に操ることができる二本の腕があるというのに、何かを作るよりも何かを楽しむ方が忙しいって思っているわけだ」

 何かを作る……そんなことは、今まで考えもしなかった。でも、何かを作るなんて、そんな大層なことをわたしができるとも思えなかった。わたしは自分の手を見た。その手の、なんと細く色が薄いことか……わたしは自分が情けなくなってきた。
 点はさらに話を進めた。

「でもね、何かを作ることを抜きにしては、この世界から抜け出すことはできないんだ。嫌なことから逃げている人生から抜け出すこともできない。だって人生っていうのは、どんなときだって、自ら作り上げないと進まない物語なのだからね」

「でも……!」

 思わず声が出た。点は再びピタリと止まった。

「でも、わたしには、何かを作るなんて、そんな能力は!」

「あるよ」

 点はさらりと答えた。

「君はただ、声を出すこと、表現することを怖がっているだけだ。それなりの環境が整えば、十分に能力を発揮するよ」

 そう言うと点はふわふわと、わたしがもたれかかっているのとは反対側の本棚へと向かっていった。
 照らされた反対側の本棚は、黒く塗りつぶされたような色をしていた。ただ、そこには本は一冊も入っていなかった。見えたのは、立てられた一本のペン、そして白くまっさらな一枚の紙だった。

「この紙とペンはね……」

 点は口を開いた。

「誰かに使われることをずっと待っている。でも、今のいままでとうとう誰も現れなかった。みんな、何も書かずにここに並んだ本を食い入るように見つめて野垂れ死んでいくだけだった。何をいくら読んでも、この世界から抜け出せないというのにね。みんな本の世界に入っただけで、抜け出したと勘違いするのさ」

 そこまで言うと、点は再びわたしの方を見つめた気がした。

「でも、君は違うと思うね。あの『永遠の図書館』を読んで、この世界の仕組みの一端を知ったんだから。もう、君はこの世界で迷い続けたくはないだろう?」

 わたしは黙ってこっくりとうなずいた。でも、この世界から抜け出せる自信はなかった。何を作ればいいのかも、全く見当がつかなかった。

「どうやら何を作り出せばいいのかわからないという顔をしているね。でも、ぼくに聞くなよ。君が作るものは君でなきゃわからないんだから。誰に聞いたって、本を読んだって、答えは出ないよ」

 わたしはまた、本の世界を彷徨うのだろうか。でも今、この白く輝く点は、本を読んでも答えは出ないと言った。かといって、わたしには何かを作り出す能力もない。目の前にある紙とペンにしたって、それで何を書けばいいのか、まるっきり思いつかない。そもそも、何かを書くだけで世界はそんなに変わるのだろうか……?
 考えても考えても自分が作り出せそうなものは何も思い浮かない。わたしはだんだんと心苦しくなってきて、両脚を自分に抱き寄せた。するとまた、左足がぴきっと痛む。早くこの痛みから解放されたい。足を治して、普通に歩けるようになって、この世界から脱け出したい……。
 ふとわたしは、この世界から抜け出したらどうするだろうと考えた。……あては、ないな。そもそも、外の世界がどんなんだかも、知らないな……外の世界は、どんなんなんだろう……もっと、明るいのかな。誰か、いるのかな。でも、いじめられたりしたら、嫌だな……。

「ねえ……」

 気づくとわたしは口を開いていた。

「外の世界って、どんな世界なの?」

 点は、少しの間、黙っていた。が、やがて口を開いた。

「それは存在もするし、存在もしない。君のありようでいかようにも変化するものだよ」

「わたしのありようで……」

 わたしのありようで、いかようにも変化する……今、わたしはただ本を抱えて、物語を読んでいる……この、長く長い永遠とも思えるような物語を繰り返し繰り返し……でも、もし、わたしがこの本を閉じて、物語を読むことをやめたなら……? 物語は終わるだろう……でも、そこから新しい物語を紡ぎ出せるんじゃないだろうか? わたしだけの、新しい物語……それを綴るのは、「あなた」しかいない……そう、それはわたし……わたしでしかないの!









































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