小説を書くには「もう一人の自分」が必要 僕のコバルト小説執筆・奮闘記〈前編〉
長いこと小説を書いても書いても、未完か落選だった僕が第223回コバルト短編小説新人賞で「もう一歩の作品」に入って学んだことを書きます。
前回の記事で太宰治の『人間失格』を参考に、小説に必要なのは読み手に伝える努力、そのために必要な能力は客観性と書きました。
では、客観性とは何でしょうか?それは「もう一人の自分」のことだと思います。自分のことを観察しているもう一人の自分です。
話が移りますが、僕は今まで自分がありふれた凡人だということを認めたくない気持ちがありました。
長い間、小説とは昔の文豪のようにエキセントリックで破天荒なちょっと変わった人が書けるものだと思っていました。
そのためには、自分もキラリと光る他の人とは違う感性を持たなければ、と必死でした。
同時に、村上春樹さんのスピーチ「壁と卵」にいたく感動し、自分は少数派のか弱き卵、その卵の自分にこそ書ける小説がある。そう思っていました。
壁=システム、権威にぶつかる卵=弱者、虐げられるものがあれば卵の側につくというスピーチです。
スピーチの全文の引用のリンクを貼ります。
しかし、世間の大半の人がそうであるように、僕もまた自分を卵と信じて疑わないただのありふれた壁の一員だと気づいたのです。遅いですね(笑)。
ドラマの主人公の設定もそうです。一見平凡で、でもキラリと光るものを持っていて、損しがちだけれど何だかんだで皆から一目置かれる。
これは、視聴者が感情移入しやすい願望が込められた人物像ですが、じっさいにはいじめっ子や偏屈な人も世の中にはたくさんいて、でもその人もただの悪い人としてくくれないからこそ世界は複雑なのだと自分なりに思っています。
それを、都合のいいところだけ抽出して、「これは自分だ」と世間の人に思わせているわけです。
「一見自分は普通だけれど、実は変で、その分周囲とは違う粗削りな魅力があるはず、あって欲しい」
これは多くの人がこっそり思っている感情です。特にクリエイター志望者にはよく見られるのではないでしょうか。
だからこそ、映画もドラマもマンガもアニメもそうした主人公が支持され、鑑賞者は思い入れを持つのでしょう。
しかし、その仕組みをわからず本当に自分がこの世界の主人公のように考えていては書けないのでは?と思うようになりました。
まず、自分はありふれたどこにでもいる人。そう認めたところから小説や創作は始まります。どんな主人公を据えるにしても、まともとそうでない区別に敏感であるべきです。
むしろ、極めて常識的でまともな感覚を忍ばせた語り手でないと、世界は歪みます。小説は、語り手というカメラを通して世界を映すからです。
おそらく文豪も、破天荒なふるまいとは裏腹に、そうした自分のこともまた観察していたはずです。もう一人の自分、というわけです。
村上春樹も、本気で自分が壁にぶつかる卵だと思い込んでるわけではなく、あれは一つの比喩ですね。そもそも「卵のほうを支持します」とは言っていても自分を卵だとは明言していません。
件のスピーチは多かれ少なかれ誰もが卵=弱者、虐げられるもの、と続きますが、それは逆に言えば誰もが壁になりうるということです。
その上で、また悩みが出来ました。僕は平凡だけれど、あまりスマートな性格ではない。人と話すときにチューニングが合わないこともよくある。
これもありふれた悩みですが、なるたけ客観的に見ても、自分は少しズレている?と思うようになりました。
友人に話したところ「誰でもそうじゃない?でも、不器用っちゃ不器用かもね。変というより不器用で世間知らずみたいな」とのことでした。友人の気遣いが見えます(笑)。推測は遠からず当たっていたわけです。
普通じゃなきゃいけないのに、ちょっと変かもしれない自分。そもそも、小説、いや創作に向いていないのかも?と悩みました。
ではどうすればいいか。
今まで僕は、自分という不器用な語り手から世界を見て小説を書いていました。
でもそれより、自分が実際にズレているなら、自分を語り手にするのをやめることにしました。
具体的に言うと、自分をモデルにした登場人物を脇役に置き、自分の友人で一番バランス感覚のある人を思い浮かべて参考にして語り手にしました。
「シャーロック・ホームズシリーズ」で、ワトソンからホームズを見るのに似ています。もしホームズ作品が、ホームズの一人称だったら面白さが半減していたのではないか。ワトソンという普通の男性から奇人にして天才のホームズを観察するから人気があると思うのです。
それと同じで、自分が不器用なら、その空回りを常識人でスマートな人から面白がったらどうだろう。
そして、話は小学5年生の作文へと移るのです。
(続く)
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