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【論より詭弁】論理的にばかり考えてて、良いことある?

オススメ度(最大☆5つ)
☆☆☆☆☆

〜論理的思考批判〜

何かと「論理的思考」だの「ロジカル・シンキング」だのが重宝されている昨今、その論理的思考に対してメスを入れる稀有な一冊が本書。

本書の著者はレトリック(修辞学)を専門としているのだが、レトリックとはコミュニケーションの場において情報を発信する側が、受信側を説得したり、納得させたりするための、手法やテクニックである。
いわば、相手を納得させるための話術や表現の技法であり、議論や討論の中で相手を打ち負かす(ために使われがちな)論理学とは目的が違う。

ます、著者は論理的思考について、以下のように述べる。

なぜ論理的思考にこんな憎まれ口ばかりきくのかといえば、それが、論者間の人間関係を考慮の埒外において成立しているように見えるからである。あるいは(結局は同じことなのであるが)、対等の人間関係というものを前提として成り立っているように思えるからである。だが、われわれが議論するほとんどの場において、われわれと相手との人間関係は対等ではない。われわれは大抵の場合、偏った力関係の中で議論する。そうした議論においては、真空状態で純粋培養された論理的思考力は十分には機能しない。

本文より抜粋

とどのつまり、いくら論理的思考を鍛えたところで、それは対等な立場で議論するから発揮されるのであって、そもそも「対等な立場での議論は存在しない」という前提に立っている。
例えば、上司を相手に言葉巧みに論理的に反論したとしても、結局「あ、そう。それで?」とあしらわれてしまうのがオチだろう。役所や銀行など、その他あらゆる窓口で「そんなのは論理的じゃない!」と反論しても、無理な事を言えば「無理なものは無理です」と煙たがられるだけだ。

あらゆる場面で対等な関係を人は望むが、実際の生活のなかでそんな場面はない。議論や討論をゲームや見せ物として楽しむテレビやYouTubeの世界では論理的思考は強みを持つが、「はい、論破!」では日常や社会は変えられない。


〜「詭弁」の何が「詭弁」なのか〜

さて、そんな立場に立つ著者からすれば、論理学の世界で忌避される「詭弁」も、レトリックの観点に立てば「詭弁」ですらない、というのである。
本書の大筋は、世の中的に「詭弁」と言われるものを取り上げ、「詭弁でもなんでもない」と次々と一蹴していく。第1章から「何かを言葉で表現した時点でそれは「詭弁」と言えてしまう」というとんでもなく面白い持論から始まる。

しかし、本書で書かれる「詭弁」に関する反論は、いずれも「これぐらいの会話、当然日常的に使ってるでしょ?」という考え方が土台となっているように感じた。
「日常的な会話の中に、論理的思考を組み込んで、本当に身のある話など出来るのか?いや、出来るわけない」と言われているようだ。

岡潔さんの著作(「数学する人生」「春宵十話」)や小林秀雄さんの著作(「学生との対話」「人間の建設」:岡潔さんとの共著)で散々書かれていた通り、人はいくら論理的に説明されようが、心で理解しないと納得などしないのだ。
会話の中で多少「詭弁」らしき言葉があったとして、それがなんなのだ。そんな揚げ足取りのような対話で人の理解や納得を得られるわけがないのだ。


〜論理的思考とハサミは使いよう〜

本書は論理的思考の弱点をいくつも洗い出し、対話におけるその脆弱性を明らかにしている。

とはいえ、論理的思考を全て否定するわけにはいかないだろう。
論理的に考えなければならない場面はいくらでもあるし、感性や感覚、または感情のみで判断して良いもの悪いものは当然ある。

要は使いどころなのである。
どういう場面で論理的に考え、どういう場面で人の感性や感情に働きかけるべきなのか、うまく使い分けるのが重要なのだろう。

やたらとチヤホヤされがちで、身につければ無敵になれるとすら信じられている「論理的思考」。しかし、本書を読めば、それも数ある考え方のひとつにしか過ぎないことに気付かされるだろう。
何もかも論理的に考える、というのも一種の思考停止なのかもしれない。

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