川奈まり子プロデュース!5人の巧者が家族の恐怖譚を描く『実話怪談 恐の家族』(川奈まり子/松永瑞香/岩井志麻子/Dr.マキダシ/西浦和也)著者コメント+試し読み1話
5人の巧者が炙り出す、家族の間の心霊怪異奇譚
あらすじ・内容
家族が次々と病に倒れていく!
夫の実家の墓を見て感じた妻の違和感――(「義実家の墓」西浦和也より)
親子の愛憎、きょうだいの確執、無念、怨念──家族という入れ物の中で起こる逃げ場のない心霊怪異の数々!
・義理の家で起こる病気の連鎖、その原因は…「義実家の墓」(西浦和也)
・祖母の部屋に毎夜来るモノ「家族以外のなにか」(松永瑞香)
・異国の地で聞いた凄惨な母親殺しの顛末「焦熱極楽家族」(岩井志麻子)
・家系を呪う、その代償とは…「リキの一族」(Dr.マキダシ)
・伯父が庭に建てた異物、そして家族が壊れていく…「鉄塔のある家」(川奈まり子)など。
川奈まり子が書き手を初プロデュース!家族をテーマに、濃密濃厚な怪談奇譚が集結──あなたの家族は大丈夫ですか?
著者コメント
試し読み1話
見知らぬ妻
二〇〇〇年頃には、本社に次いで重要なH支店の支店長になっていたのだから、今頃はさらに出世なさっているかもしれない、大手証券会社にお勤めの徹朗さんの話である。
H支店の支店長を任命されるまで、彼は方々の支店を渡り歩かされた。一種の修業みたいなものだと割り切っていたが、妻子を連れていくか否かは、常に悩ましいところだった。
札幌支店へ転勤を命ぜられた九〇年代半ばのそのとき、彼の妻は三十歳とまだ若く、長男は二歳で一人でトイレへ行けるようになったばかりだった。次男はまだ生まれていなかったが、当初は、今回ばかりは単身赴任してしまおうかと悩んだという。
それまでいた支店は、偶然にも妻の実家から近く、転勤のタイミングも良かった。里帰り出産のために妻が実家に戻る寸前に赴任できたのである。たいへん好運で、家族全員が大いに助かった。妻の体の快復も早く、夫婦仲も円満だった。
すべては妻の実家の手助けがあったればこそ、である。
二歳児は手が掛かる。一人でウンコが出来るようになったからと言って、ちゃんとお尻が拭けるかといえば怪しい。歯磨きだって手伝ってやらないと出来ない。
実家から離れれば、妻の負担は絶大になるであろう。しかし自分も栄達への道を歩みつづけようと思えば育児に割ける時間は限られる。
妻子は愛しているが、ここは独りで行った方が……。
「ヤダ。ついていくわよ。決まってるじゃない。札幌でしょう? 大都会だわ。地の果てじゃあるまいし、なんとかなるって」
妻は、そう言って聞かなかった。そうか。無理そうなら里に帰らせて、長い休みのときだけ会いに行くという手もある。まずはイチかバチか、やってみよう。
──と、いう次第で、徹朗さんは妻子を連れて札幌へ飛んだ。
系列会社の不動産会社が、住居を手配してくれた。札幌市内のマンションで、築年数十年あまりと、集合住宅としては新しい部類だった。3LDKの間取りでベランダ付き。南向きの角部屋で、駐車場やエレベーターも完備されていて、なかなか住み心地が良さそうだ。
玄関に近い角部屋を、ゆくゆくは──あと二年ぐらい転勤しないで済んだ場合は──子ども部屋にするつもりで、当面の間は、妻と息子が二人で寝られるように整えることにした。
そこから遠い、奥の方のベランダ付きの和室を、夫婦の寝室に決めた。
入居から一ヶ月ほど、徹朗さんは、わけがわからないほど仕事が忙しく、精神的にゆとりが持てない状況が続いた。ようやく一段落した日の夜、上司に誘われて、親しくなった同僚たちも一緒に繁華街に飲みに行った。翌日は休日だったから、解放感も肴にして思う存分に飲み食いし、美女の姿も拝んで、深夜零時頃に帰宅した。
存分に飲んだと言っても、彼は生来さほどアルコールに強くなかったので、ビールやチューハイの類を三、四杯、飲んだ程度である。ほろ酔い加減だ。
家に入るときには妻子への配慮を忘れず、うるさくしないように心がけた。
「ただいま……」と、小声で言って、静かに靴を脱ぎ、足音を忍ばせて二人が眠っている角部屋のドアの前で聞き耳を立てた。
──物音ひとつしない。
妻も息子も熟睡しているのだ。この状態が、いつも朝まで続く。
つまり妻が夫婦の寝室に来ることはない。札幌に来てから一回も、なかった。
寂しいことこの上ないが、仕方がない。以前は〝おばあちゃん(妻の母)〟が適宜に息子を預かってくれたのだが、ここでは誰にも頼れないのだから。
──そうは言っても一ヶ月だぞ。そろそろ、なんとかならないかなぁ。
ならないよなぁ、と、溜息を吐いて、差し足忍び足で奥の寝室へ向かった。
──明日の朝、風呂に入ろう。
独り寝するなら汗臭くても構わないのである。襖を閉じてパジャマに着替えると、蒲団に潜り込んだ。すぐにうとうとしはじめたのだが。
ものの五分も経たないうちに、家の中のどこかで椅子か何かが倒れた。
ガタン! 硬い物がフローリングの床にぶつかったとしか思えない音だった。
──妻が寝ぼけてダイニングキッチンへ行き、食卓の椅子を倒したに違いない。他に考えられない。見に行くべきだろうか? しかし眠たい。
眠気に軍配が上がった直後に、部屋の襖が、スススス、スーッと開いた。
──やはり、さっきの音は妻だったか。忍んできたぞ。つまり、そういうことなのか?
「ん? どうした? 目が覚めちゃったのかい?」と、少しドキドキしながら声をかけた。
見れば、妻は見たことのないネグリジェを纏っているではないか。いつもは色気ゼロのパジャマを着ているのだから、今夜は特別なのである。理由はわからないがホルモンの塩梅なのであろうか。こういうことだと知っていたら飲まないで帰ってきたんだよ!
ネグリジェはどうやら淡いピンク色のようで、生地が薄く、まことに艶なまめかしい。
「襖を閉めて、こっちにおいで。汗臭くてごめんね」
徹朗さんは、その気になって囁きかけた。掃き出し窓の障子越しに街灯の明かりが差し込んでいるだけだから、室内は薄暗く、妻の表情までは見て取れない。
音を立てずに襖を閉めると、妻は膝立ちで枕もとまでにじり寄って正座した。
「どうしたの?」と再び訊ねたが返事がない。何か言いたいことがあるに違いないと彼は察した。考えてみれば、彼女が正座をするのは怒っているときなのである。
さらに悪い兆きざしが表れた。彼女が急に泣き出したのだ。泣くのは激怒の前触れだ。
彼は酔いがいっぺんに冷めて、敷き蒲団に片肘をつくと半身を起こした。
思い当たる節が皆無ではなかった──禁欲中にすすき野に連れていく上司が悪い。
僕のせいじゃない。たいしたことは全然していない。少なくとも君が想像するようなことは。
「泣かないで」と言いながら、ネグリジェに包まれた肩先に優しく手を置いてハッとした。
掌てのひらから脳に伝わる肉づき、肩関節の大きさ、手の甲に触れた髪の感触が、妻のものではなかった。
アッと声を上げて突き放そうとしたが、左右の手首をむんずと女に掴まれた。
グッと両腕を捉えて、真正面から顔を近づけてきた。
うりざね顔で目じりが吊り上がった、妻と同じ年頃のキツネ顔の美人であった。
ウェーブのある髪を真ん中分けにしている。妻は、ストレートヘアでタヌキ顔なのだ。
女は接吻をねだるかのように、目を細めて口もとを寄せてきた。彼は、指先が柔らかい物体に圧しつけられるのを感じ、慌ててグーを握った。ネグリジェ越しだが、妻以外の女の乳房に触れてしまった。正直に言えば妻より胸が豊かそうだなどと言っている場合か。
女は体を擦り寄せてきて、彼が後ずさりしても全身で追いかけてきた。首筋に熱い吐息を吹きかけながら、壁際に追い詰めた彼の膝にまたがって──。
ガラッと襖が開いた。「あなた! 何やってるの!」
妻の叱声が耳に届き、襖の方を見やると、彼とお揃いのパジャマを着た妻が立っていた。
ドスドスと足を踏み鳴らして入ってくると、シーリングライトから下がった紐を引っ張って電気を点けた。
途端にネグリジェの女が消えた。体温、感触、姿が一瞬にして消失する。徹朗さんはあらためて混乱して、「えっ、嘘! なっ、わっ」と喚わめきながら女がいた辺りの空気を両手で掻き混ぜた。
「今ここに居たんだよ。ネグリジェの女の人が、こう、僕に迫ってきて……」
後になって彼は思った。ふつうなら失笑ものだ、と。
しかし、このとき妻は真顔でこう言った。「その人、私も見たことあるかも」
妻によれば、それは数日前のことだった。息子に添い寝していたところ、左右の足首を誰かに掴まれていることに気がついた。目を閉じたまま彼女は思った。
──いつの間にか夫が帰ってきて、いたずらしているんだわ。この人ったら久しぶりに、したくなったのかしら。そうよね。ひと月ぐらい、していないんだもの。
しかし次の瞬間、思い切り足首を引っ張られて、それが飛んだ勘違いだったことがわかった。声を上げる間もなく頭が掛蒲団の中に潜ってしまった。
凄まじい勢いと馬鹿力だ。
「ちょっと、あんた! 何すんのよ!」と彼女は蒲団をはねのけて〝夫〟に抗議した。
彼女は寝るときに常夜灯を点けておく習慣だ。仄かな琥珀色の明かりが室内に満ちていた。だから、見えたのだ──うりざね顔の、吊り目の、ウェーブヘアの、床に這いつくばって自分の両足首を掴んでいる女の上半身が。
下半身は壁の中へ消えていた。つまり、その女は壁の中から出てきたようなのだった。
「馬鹿! 放せ! この! この!」と彼女は怒鳴りつけながら両脚をばたつかせた。
「そしたら女が壁に中に引っ込んでいったのよ。大騒ぎしたのに子どもはグーグー眠ってるし、壁を触っても一つも跡が無かったから、夢を見たんだと思うことにして……」
寝直したというので、徹朗さんは、なんと豪胆な人間だろうか、と、妻に感服した。
「君は凄いよ。怖くなかったの? 僕はもう、このうちには一刻も居られないよ。今すぐ逃げ出そう!」
当面の着替えなどを旅行鞄に詰め込んで、息子を抱きかかえ、その夜のうちに彼らはマンションを飛び出した。
まずはホテルに滞在しながら、新しい住まいを探した。
代わりの部屋はすぐに見つかった。前の所と似たり寄ったりのマンションの一室だった。
不動産会社の担当者は、「あれだって心理的瑕疵物件ではなかったんですよ?」と言い訳していた。
「前の住人は無事、その前も何事もなく……そのまた前に住まわれた方々が不倫がらみで揉めまして、結局、奥さんがダイニングキッチンで首吊り自殺されちゃったんですよ」
それを聞いて徹朗さんは、夜中に耳にした物が倒れるような音の正体に見当がついた。
たぶん首を吊る際に、踏み台にした椅子を蹴り倒したのだ。自殺した女性が最期に耳にしたのが、あの音だったのだ。
ちなみに彼は、二年ほどで再び他所へ転勤した。妻と息子は、また彼についてきて一緒に暮らし、そのうち妻が第二子を授かった。H支店の支店長になったのは第二子を妻が里帰り出産した後で、ローンを組んで家を建て、それからは平穏な日々を過ごしているという。
「札幌支店を去るまでの間、ときどき例のマンションのことを気にかけていましたが、少なくとも僕が札幌に居た期間は、ずっと空き部屋でしたよ」と彼は言っていた。
小さな子が一人か二人いる夫婦に適した、良い部屋だったそうなのだが。
―了―
著者紹介
川奈まり子 (かわな・まりこ)
八王子出身。怪異の体験者と土地を取材、これまでに5000件以上の怪異体験談を蒐集。怪談の語り部としてイベントや動画などでも活躍中。単著は「一〇八怪談」「実話奇譚」「八王子怪談」各シリーズのほか、『実話怪談 穢死』『家怪』『赤い地獄』『実話怪談 出没地帯』『迷家奇譚』『少年奇譚』『少女奇譚』など。共著に「怪談四十九夜」「瞬殺怪談」「現代怪談 地獄めぐり」各シリーズ、『実話怪談 犬鳴村』『嫐怪談実話二人衆』『女之怪談 実話系ホラーアンソロジー』など。日本推理作家協会会員。
松永瑞香 (まつなが・みずか)
看護師。東アフリカ・タンザニアで看護師として活動し、その後現地の呪術師に弟子入りする。それらの経験からアフリカの文化や呪術、病院や海外に纏わる怪談などを語る。映像制作もしており、東京ドキュメンタリー映画祭2022にて「呪術師の治療─タンザニア」が上映されるなど異色の経歴の持ち主。
岩井志麻子 (いわい・しまこ)
岡山県生まれ。1999年、短編「ぼっけえ、きょうてえ」で第6回日本ホラー小説大賞を受賞。同作を収録した短篇集『ぼっけえ、きょうてえ』で第13回山本周五郎賞を受賞。怪談実話集としての著書に「現代百物語」シリーズ、『忌まわ昔』など。共著に『凶鳴怪談』『凶鳴怪談 呪憶』『女之怪談 実話系ホラーアンソロジー』『怪談五色 死相』など。
Dr.マキダシ (どくたー・まきだし)
青森県出身。現役精神科医でありプロのラッパーとしても活動する。鍛え抜かれたステージングの技術と精神科医としての視点を盛り込んだ怪談語りは聴き手の心を強く揺さぶる。共著に文庫『怪談最恐戦2022』など。
西浦和也 (にしうらわ)
不思議&怪談蒐集家。心霊番組「北野誠のおまえら行くな。」や怪談トークライブ、ゲーム、DVD等の企画も手掛ける。イラストレーターとしても活躍する。単著に「現代百物語」シリーズ、『西浦和也選集 獄ノ墓』『西浦和也選集 迎賓館』『実話怪異録 死に姓の陸』『帝都怪談』、共著に『出雲怪談』『現代怪談 地獄めぐり』などがある。