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【小説】 35.6716486 139.6952259 【#第二回絵から小説】

 今朝も留置施設を出て、同じバスに揺られている。六人で暮らす檻の中から出されると、話すこともなく他の男達と一緒に黙々とバスに乗り込む。搭乗中に誰かと喋ることもなく、入口付近に立つ兵隊に俺達は監視されながらいつもの作業場へ向かう。
 窓の外の景色はどこもかしこも爆撃や砲撃で傷付いていて、壊れたアスファルトの振動が嫌でも尻から伝わって来る。作業場へ着く頃になると振動のせいですっかり尻が痒くなってしまう。
 少し前までは街の隅から黒煙が昇っていたが、それすらも今はもう無くなってしまった。

 今年の冬はまるで春になるのを忘れてしまったようにいつまでも街に居座り続け、二月も終わる頃だというのに暖かくなる気配すらない。少し前に雪が降った日も、通りには子供の影のひとつすらなかった。

 ミサイル爆撃され、見せしめのように解体された東京タワー。
「自治区長」がてっぺんに座る元都庁。配給の大拠点と化した新宿駅。バスから見える景色はどれもこれもドラマの中の他人事のように次から次へと目まぐるしく変わって行く。たった一年前までは東京タワーもあったし、都庁には都知事がいたし、新宿駅は満員電車から吐き出される人達でごった返していたはずだった。

 侵攻が始まってから上陸まではさほど時間は掛からなかった。沖縄への攻撃をきっかけに「統合作戦」の名目で敵国は日本各地に攻撃を仕掛けて来た。日本の代わりに戦っていた米軍だったが、開戦序盤から敵国の圧倒的な物量を前に予想を遥かに上回る死者を出していた。戦争に反対する国内世論の声が大きくなると、米政権は揺らぎ始めた。安保理条約は実質破棄のような形となり、太平洋部隊の体制立て直しを口実に彼らは本国へ一時撤収した。
 米軍が一時撤収を公表すると同時に、日本の各都市へのミサイル攻撃は激しさを増した。ちょうどその頃、テレビの向こうでは停戦に向けた協議で敵国の官僚と米国の官僚が楽しげに歓談する様子が映し出されていた。
 俺の仕事の内容も大きく変わった。有機野菜をメインとした食品配送のドライバーをしていたが、戦渦が激しくなると野菜は国の配給品に代わり、配送先も個人宅から避難所に変わって行った。そんな過酷な日常すらも敵による占領地が増えると、あっけなく壊されて行ってしまった。
 配給品も滞り始めたある朝、仕事へ行こうとすると数人の兵隊が俺の部屋へ前触れもなくやって来た。ドアを開けるなり彼らは俺を羽交い絞めにし、俺はそのまま部屋から連れ出された。連れて行かれたのは郊外に立つ元警察署で、取調室で日本語の話せる敵国の軍人に尋問された。

「森崎海里さん。なんで、ここにあなたの名前ありますか? あなたは、共和国に反する思想者ということですか」
「これは、違うんです」

 突然目の前に出された署名簿を見て、俺は脇から汗を噴き出した。この国が戦争になりそうだった頃、会社の同僚に誘われてとある抗議集会に顔を出したことがあったのだ。
誰も彼もが「戦争反対!」と叫んでいる光景がただ単に面白おかしく、俺は熱心な同僚に頼まれて軽い気持ちで名簿に署名をしたのだ。

「これは軽い気持ちで書いただけで、本気じゃないんです。俺には思想とか、そういうものは全くありません」
「では、何故あなたは抗議のデモに参加しましたか?」
「それは、同僚に誘われたから……断り切れなくて」

 吊り目で青白い顔の軍人は胸ポケットから一枚の写真を取り出し、それを机に置くと指でトントンと叩いた。視線を落とすと、そこにはしばらく前に退職した同僚が映っていた。

「あなたを誘ったは、この人ですか? ヤマムラコウジ」
「はい。このひ……こいつ、です」
「この人は私達の駐屯地に、仲間達と一緒に手投げ爆弾をしかけました。そのために、一人死んで、二人が怪我しました」
「それは……お気の毒でしたね」
「気の毒……?」
「え?」

 軍人は俺を睨んだまま机を握り拳で叩くと、写真をぐしゃぐしゃに丸めて立ち上がり、俺の座っていたパイプ椅子を蹴り飛ばした。身体が真横に倒れると、軍人は怒り狂ったような声で叫んだ。

「あなた達を大いなる共和国の仲間にするため、私達は海の向こうから血を流しながら、ここまで来ました! 何故、それなのにあなた達は私達を攻撃しますか!?」
「俺は違いますよ! 違います!」
「他の仲間はどこですか! 言ってください!」
「知らないですよ! それより、ヤマさんは、ヤマムラさんはどうなったんですか?」

 軍人は俺を見下ろしながら、拳銃を取り出して卑しい声を上げながら笑った。けれど、目だけは冷たいままだった。

「ヤマムラは、他の仲間と一緒に殺しました。手、足、順番に撃って行くと、彼はすごく泣いてました。泣くするのに、何故攻撃しますか? 馬鹿は死にます。あなたも、死にますか?」
「俺は……死にません、死にたくないです」
「では、あなたを逮捕します。しばらく施設に勾留します」

 それが一ヶ月ほど前の、年が明けたばかりの頃のことだった。年は明けたものの、街でも避難所でも、「おめでとう」と言っている日本人は一人も居なかった。

 警察署からさらに移動し、勾留された施設で初めての朝を迎えた。七時になると部屋や廊下にある全てのスピーカーから大音量の音楽が流れ始め、それまで眠りこけていた連中はよく訓練された機敏な犬のように布団を捲って一斉に立ち上がった。ラッパで始まった音楽の歌詞は日本語ではなく、歌は敵国で人気のある英雄を称える歌なんだそうだ。
 鉄格子のついた六畳間に、男六人で眠っていた。もちろん知ってる顔はひとつも無かった。監視役も兼ねてそうな日本語の出来る看守から「大事に使いなさい」と支給されたのは薄黄色の煎餅布団一枚と歯ブラシ、そして砂のような味がする歯磨き粉だけだった。起床後に布団を畳むと、部屋ごとに廊下に出て、突き当たりにある押入れに白い息を吐きながら布団を仕舞う作業から一日が始まった。
 部屋へ戻ると不味くて冷たい中華弁当が支給された。外に置きっぱなしなのか、米は冷たく凍ったままだった。飯が終わると同室の奴からこれから移動して「作業」の時間が始まると言われた。作業は強制労働みたいなものなのだろうか、一体何をするのか聞いてみると、呆れたようにただ鼻で笑われるだけだった。留置所を改装した施設のあちらこちらには敵国のスローガンが掲げられていた。

「あなた方はふさわしい、私達の共和国の仲間に!」

 そんな自動翻訳のような妙な日本語のスローガンが至る所に掲げられ、貼り出されているのだ。廊下にある水飲み場の蛇口の横にさえ、そのスローガンは小さな防水ステッカーとなって貼り出されていた。それを眺めながら、この国は本当になくなってしまうかもしれないと実感し始めた。
 移動中のバスから眺める光景はとても信じ難いものだった。昔よく遊びに出掛けていた渋谷駅前のスクランブル交差点には敵国の野営のテントが張られ、道の至る所に戦車や様々な重機が停まっていた。マルキューは敵国の大きな旗が飾りつけられていて、道玄坂では行くあての無さそうな連中がおそらく食事の配給のために朝から列を成していた。これからどうなってしまうんだろうとぼんやり考えていると、バスの前方から突然赤ん坊を抱きかかえた若い女が飛び出して来た。こちらに向かって大きく手を振っていたが、バスは減速すらしなかった。あっ、と思った次の瞬間に俺の尻の下から何かに乗り上げる衝撃が伝わって来て、ゆっくりとバスが停車した。
 運転士は苛立っていて面倒臭そうに言葉を叫ぶと、監視役の兵隊が外へ出て行った。それからすぐに戻って来て、運転士に何かを伝えると、何事もなかったかのようにバスは再び走り出した。それと同時に、俺だけじゃなくて数人の同乗者が背後を振り返る。振り返った路上にしっかりとこの目に映ったのは、緩い坂道の真ん中に出来たばかりの赤い大きな花と、小さな赤い花だった。

 原宿を過ぎて間もなくすると、バスが停車した。兵隊が親指を外に突き出すと、同乗者達は何も言わずにバスを降り始めた。ここが作業場なのだろうか。
 他のバスも何十台とここへやって来ていて、四方が鉄製の大きな壁に囲まれた施設の入口ではボディチェックが行われているようだった。しばらくしてから俺も中へ通されると、そこでは皆が職員からスコップを手渡され、先へ進むように指示されていた。建設現場なのだろうか。そう思いながら暗い通路を他の連中に従って着いて行くと、明かりが見えて急に視界が開けた。

 壁に囲まれた巨大な更地の中で、大勢の人間達が武装した兵隊達に監視されながら地面に穴を掘っていた。
 一体何を掘っているのだろうと疑問に思ったが、一緒にバスに乗って来た連中は慣れた様子で俺を置いてけぼりにして更地へ歩いて行ってしまった。
 そうなると突然不安を覚えたが、武装した兵隊に「早く行け」と言わんばかりに銃を向けられたのでスコップを手に俺も更地へ向かって歩き出してみた。
 ブツブツ呟きながら地面に穴を掘る高齢者と、まだ若そうなガタイの良い男の間に止まり、見よう見真似でスコップを地面に突き刺してみた。スコップを伝わって感じたのは、なんてことはない普通の更地の土の感触だった。一体これは何なのだろうと思っていると、隣にいた高齢者が声をかけて来た。

「あんた、何処から来たんだい?」

 高齢者は汚れたカーキ色のジャンパーを着ていて、白髪交じりの天然パーマのような髪も脂でベタベタになっていた。おまけに所々に垢の塊りを作っている。ホームレスだったのだろうか、歯も前歯が数本抜けていて、近付くと肉が腐ったような据えた匂いが鼻を刺激した。

「俺はS県の上の方です」
「そうかい。あっちも侵攻後は散々だったな。名前は?」
「森崎海里です。配送のドライバーやってました」
「へぇ、ドライバーねぇ。あんなん、どうせ儲からねぇだろ?」

 なんだこいつ、と思ったものの、顔には出さずに俺は曖昧に頷いてみせた。

「いや、まぁ。そんなには」
「俺はな、穂戸柱ってんだ。面白ぇ苗字だろ?」
「ホドバシラさん、ですか? 滅多に聞かない名前ですね」
「おう、覚えやすくて良いだろ? これからよろしくな。あのな、一生懸命掘らなくていいぞ」
「あの……これって一体何をしているんですか?」
「これか? これはおまえ、ただ穴を掘って埋めてるだけだよ」
「は? え、何のためにですか?」
「知らねぇよ。そうやれっていうんだから、そうやってるだけだよ。でもな、あんまり必死に掘り過ぎたら不味い事になるんだ」
「不味い?」
「夜勤の連中がそろそろ終わる頃だからな、見れるかな。ほら、始まるぞ」
「え?」

 ホドバシラが指を差した方向を見ると、大人しそうな男の若者二人が壁際に立たされていた。二人は落ちつかない様子で辺りをキョロキョロと見回していて、これから何が起こるのか分かっていなさそうな様子だった。俺も何が起こるのか分からなかった。兵隊達は威嚇するような口調で二人を問い詰めているが、言葉は全く分からなかった。彼らは一体、何かやらかしてしまったのだろうか? そう思いながら眺めていると、彼らは何の前触れもなく突然撃たれ、糸の切れた操り人形のようにその場へ倒れ込んでしまった。
 それは生まれて初めて見る、人が殺される瞬間だった。手の震えが無意識に起きて、ホドバシラに駆け寄った。

「ちょ、ヤバイですよ! 何で撃たれたんですか!?」
「あれはな、埋めた分を元に戻せなかったからだよ」
「埋めた分?」
「前半で掘った分を後半で埋めて元に戻すんだけどよ、あんまり必死に掘りすぎると戻す時間と体力が足りなくなってあぁなるんだ。覚えときな」
「そんな……何でそんなことで殺されなきゃならないんですか?」
「知るかよ。ここじゃそれが当たり前なんだよ」
「穴を掘ってまた埋めるって……それ、一体何のためにやってるんですか?」
「だから知らねぇよ! そんなに知りたいなら国家主席だか何だかに聞いて来いよ! 俺達はただ黙って掘って黙って埋めときゃいいんだよ!」
「なんだよ、それ……」

 撃たれた二人はしばらくの間その場に放置されていたが、一台のトラックが更地へ入って来るとゴミのように荷台に載せられ運ばれて行った。走り出したトラックが横を通り過ぎて行こうとしていたので目を向けてみると、荷台からはぐったりとして血の気のない手や足が何十本とはみ出していて、ぶらぶらと揺れていた。

 昼になると弁当が出たが、米は古い油のような匂いのする中華丼だった。うずらを噛んでみると酸っぱい味がして、とっさに戻しそうになったがこんな味なのかと思って我慢して飲み込んだ。しかし、すぐ横にいたホドバシラはうずらを吐き出すと「腐ってんぞ!」と兵隊に向かって大声を張り上げていた。兵隊は特に威圧するでもなくホドバシラに新しい中華丼を手渡し、黙ったまま飲み込んだ俺はその後二日間に渡って酷い下痢に襲われた。

 一週間も経つと段々と作業にも慣れ始め、穴を掘って埋めることへの疑問や矛盾も徐々に薄れて行った。穴を掘らせるのはこれが狙いだったのだろうか。答えのないことをわざわざ考えること自体が馬鹿らしくなり、何かに対して疑問を持つことも日々少なくなっていった。

 留置所の中では外の情報はほとんど入って来なかったが、この国がもう体裁を保てないほどガタガタだというのは毎日一緒にいる兵隊達の態度を見て感じ取れた。監視をすっぽかして談笑する兵隊はあちこちで見掛けるし、スマホゲームに夢中になったり電話を掛けながら笑ってる兵隊もいた。誰も彼もが戦争をしに来てるというより、楽なバイトにでも来たような雰囲気だったのだ。
 留置所に戻ると同部屋の先輩住人で中華料理屋を営んでいたという石川という親父が、就寝前の自由時間になってから布団を寄せて話しかけて来た。呆れたように笑いながら、俺にこう耳打ちした。

「あいつらよ、この国には戦争じゃなくてピクニックに来たみたいなもんだって言ってやがったぜ」
「ピクニックですか。ずいぶんと呑気なもんですね」
「アメリカがいなくなった途端にボロボロにされてたんじゃ、そりゃ面子もクソもねぇわな。ナメられても仕方ねぇや」
「連行された他の人達もみんなここに連れて来られるんですかね?」
「さぁな、殺されてる奴もいっぺぇいるみてぇだけどな。外がどうなってるかなんて、俺も分かんねぇんだ。あんちゃん、家族はいるんかい?」
「家族は別居ですが兄と、父と母が」
「そうかい。独身か?」
「まぁ、そうですね」
「独身か。まぁ、心配する人間なんて少ないに越したこたぁねぇよ」
「あの、ご家族は?」
「うちは嫁が向こうの人間だから。こうなる前に国に呼ばれて帰っちまったよ」
「だったら絶対に安心ですね」
「おう。でも長い間日本住まいだったから、向こうに帰ってから本当に安心かどうかなんて分からないけどな」

 そう言って天井を見上げた中華屋の親父は、鼻を啜って不安げな顔を浮かべていた。その翌日、作業場へ移動すると中華屋の親父だけが見回りの兵隊に個別に呼び出され、それから戻って来ることはなかった。その日、部屋にひとつだけぽっかりと空いた布団のスペースから、何故か通夜や葬式と同じ匂いを感じた。

 俺の記憶は過去に起こした事故のせいでだいぶ曖昧になっていたが、毎日スコップを手にしているとかろうじて大昔のことを思い出すことが出来た。

 それは保育園の砂場でスコップを手に、夕方になるまでトンネルを作ったり砂のお城を作ったりしていた光景だ。毎日遅くまで一緒に遊んでいた相手がいたが、それが女だったのか男だったのか、同じ歳だったのかそうじゃなかったのかすら、それは思い出せないままだ。
 毎日遅くまで一緒に遊んでいて、夕方になってからうちの母親が迎えに来ると一緒に遊んでいたその子は砂場に一人ぼっちで残ったまま、俺に手を振っていた。
 大人に慣れすぎたほど成長した今、俺は再びスコップを握っている。
 それも昔と同じように陽が暮れるまで毎日、毎日だ。意味もなく穴を掘り、死なない為に穴を埋めている。昔と少し違うのは一人ぼっちで残った奴は殺されるということだ。俺は突然変わってしまった現実を受け入れられるほど、器用な人間じゃない。それはきっと俺だけじゃない。ここにいる誰もが現実から目を背け、スコップを握り続けている。そうしていれば、何も考えなくて済むからだ。

 穴を午前中いっぱいかけて一メートル掘り、上半身に力を込めて穴から這い出るとホドバシラがニヤけながら俺を見下していた。

「ホドさん、何かいいことでもあったんですか?」
「うーん? どうしよっかなぁ」

 作業場でもったいぶる話題など何もなさそうなのに、ホドバシラのなんだか思わせぶりな口調に俺は苛立った。

「どうしたもこうしたも、何もないでしょ。こんな場所じゃ」

 土を払いながら立ち上がると、ホドバシラは異常なほど俺の耳に口を近づけて耳打ちをした。ガサついた唇の感触を耳で感じ、背筋が痒くなる。

「ここにな、女が来るぞ」
「女?」
「おう。他の作業施設が満杯でよ、明日から女がわっさわっさ来るらしいぜ。へへへ」
「そうですか。来たからっていっても接点持てないだろうし、それに収容施設だって別なんでしょ?」
「あぁ?……なんだよ、つまんねぇ。おまえ、つまんねぇんだよ!」
「そうですね。はい、午後も頑張りましょう」
「言いふらしてやるかんな。アイツはつまんねぇ男だってよ」

 ホドバシラは俺の態度に機嫌を損ねたようで、昼飯のサイレンが鳴ると肩をいからせながら俺から離れて更地の奥へと引っ込んで行った。暇そうにしていた監視役の兵隊達が何やら気さくに声を掛けていたが、ホドバシラはそれさえも無視してやがて更地の奥へ消えて行った。

 翌日になってバスが作業場へ到着すると、今まで見たことのなかったバスがゲート前に数台停まっているのが目に飛び込んで来た。それに気付いた同乗者の男達が「おぉ!」と低い歓声を上げ始める。中には離れ離れになった家族を探し出そうとする奴もいれば、日頃おとなしいのに「ナンパだナンパ!」と元気な声を張り上げる奴もいた。バスを降りた俺達はいつも通り入場口へだらだらと歩きながら向かったが、ここへ連れて来られた女達は不安げな表情で身を寄せ合い、バスのすぐ傍で塊を作っていた。
 スコップを受け取って穴を掘り始めていると、隣に立っていたホドバシラが穴も掘らずに股間をまさぐりながら扉の方を凝視し始めた。

「ほら、ほらほら! 女が来たぞ、女だ!」

 その様子に飢えに飢えた餓鬼のようなものを連想してしまい、俺はわざと聞こえるように溜息を漏らした。ぞろぞろと更地にやって来た女達は俺達と同じようにスコップを手に持っていて、日本語の話せる兵隊から作業の説明を受けていた。
 俺には何の説明も無かったのに、と思いながらその様子を眺めていると、辺りからは女達を品定めする男達の厭らしい笑い声が混じった会話が聞こえて来た。

「あの女、まだ若そうだよな? 顔はイマイチだけど胸はでっけぇよなぁ」
「あっちの女はどうよ? 好きもんみたいな顔してるし、さっきからこっちチラチラ見てるよな?」
「たまんねぇなぁ。こんなことになってから風俗もご無沙汰だしよ」
「どっかでセックスさせてくれねぇかな。俺達はいくら連行されたからっていってもよ、捕虜でも何でもない民間人なんだぜ? セックスの自由くらい保障してくれたっていいよなぁ!?」

 ししし、という笑みがあちらこちらから零れて来ると、女達に説明をしていた兵隊が俺達の前に立ち、銃を向けて鋭く睨みを利かせた。

「女がいても、みなさん変なこと、しないように。したら、死にます」

 大真面目な顔でそう言ったものだから、笑い声を漏らしていた彼らは一斉に黙り込んでしまった。その中から威勢の良さそうな金髪の若者が飛び出して行き、兵隊に絡み始めた。

「てめぇ! 何様だよ!」
「私は、ツェン言います。二十五歳です」
「そんなん聞いてねぇんだよ! 俺達は民間人なんだからよ、てめぇらに指図される筋合いなんかねぇんだよ! ていうかさ、俺ら別に悪いこと何もしてねーし! おまえらが勝手に悪人だって決めつけてるだけだろ? だったらおまえらは俺達を保護して、自由を保障しなきゃならないんじゃねーの? 女選んでセックスする自由くらいいいだろ!? こっちゃ溜まってんだよ!」
「無理です、やめてください。お願いです」
「もういい加減うんざりなんだよ! 毎日毎日穴ばっか掘らされてよ! 戦争に負けそうだからってなんでテメェらの言うこと聞かなきゃならねぇんだよ!? あぁ!?」

 そう叫びながら、金髪は銃を向ける兵隊の胸倉を思い切り掴んだ。さすがにマズイと思って止めに入ろうと立ち上がると、銃声と共に金髪の背中から一筋の血飛沫が噴き出し、声もなくそのまま倒れた。
 ツェンという兵隊は表情を崩すことなく、俺達を見回して死体を指差しながら小さな溜息を吐いた。何気なく銃を持つ手に目を向けてみると、引き金の辺りに置いた手が微かに震えていた。

「みなさんも、こうなるですか?」

 誰もが何も言い返しもせずに立ち尽くしていると、ツェンは金髪の死体を置き去りにして更地の監視へと戻って行った。ホドバシラはツェンの姿が遠くに行くのを見送ると、股間から手を離して今度は髪を掻き毟り始めた。穴を埋めた後の地面にポロポロと、白茶のカスが溢れ落ちた。

「なんでぇ! ちきしょう、調子乗りやがってよ」

 ホドバシラは怒りを隠そうともせず、大声で吼えていた。

「やってられっかってんだよ! 馬鹿野郎がよ!」
「……負けたから、俺らは何も言えないんですかね」
「あぁ!? まだ負けてねーだろ!」
「外の情報なんか分からないですよ。こんな状況じゃとっくに負けててもおかしくないんじゃないですか?」
「負けだ負けだって、カンに触る野郎だなぁ、やんのかテメェ!」
「やりますか? ツェンとかいう兵隊、呼び戻しますよ」
「畜生……大体、テメェは悔しくねぇのかよ?」
「何がですか?」
「あいつら、女をいいようにして自分達だけコーマンする気だぜ」
「コーマン? なんですか、それ」
「なんだよ、てめぇホモか!? ホモだったんかぁ! コーマンはオマンコのことだよ! オー、マー、ンー、コー!」 

 ホドバシラはそう叫びながらスコップを地面に叩きつけると、濁った黄色い目に赤い筋を浮かばせながらその後もしばらくの間、「オマンコ」と連呼し続けていた。

 午後になって男も女も入り乱れて穴を掘ったり埋めたりし始めると、会話をする分には兵隊達も何も言ってこないのが分かった。俺は外の状況がどうなっているのかが気になっていたが、どうにも兵隊の目が気になって話をするキッカケがうまく作り出せなかった。
 誰かに話し掛けるのは今日は諦めて明日にしようと思い、スコップを盛り土に刺し込んだ瞬間、声を掛けられた。

「海里? ねぇ、海里じゃない?」

 その声に振り返ってみると、三十くらいの細身の女が俺のすぐ背後に立っていた。髪をひとつに縛って顔を出してはいるが、見覚えが全くなかった。

「えっと……あの、何処かで会ってますか?」
「あ、そっか……。私だよ、堀坂苗! 小さい頃から学校も一緒だったじゃない。やっぱり、思い出せない?」
「堀坂……堀坂……」

 その名前を手に記憶の中を手繰ってみると、ある映像に行き当たった。それはずっと思い出せないままでいた保育園の夕暮時の光景だった。

「あの、もしかして保育園も一緒だった?」
「そうだよ! えー、よく思い出せたね」
「昔のことは、本当に少しずつだけど」
「記憶喪失になったって最初聞いた時は本当にびっくりしたけど、まだ覚えててくれて嬉しい。事故に遭ったのっていつだったっけ?」
「俺が二十三の時だから、もうすぐ八年になるかな」
「そっかぁ。あれからもう八年になるのかぁ」

 八年前の夏。俺は運送の仕事中に高速道路で運転をミスり、大きな自損事故を起こした。 
 三日間昏睡状態が続き、病室で目覚めたあとは自分のことさえも分からず、親の顔を見ても赤の他人としか思えなかった。それから記憶は徐々に回復し、生活に支障のない程度までになったが中学時代より前の記憶はほとんど何も思い出せないままでいた。
 ただ、目の前にいる堀坂苗は俺の同級生に間違いはないはずだ。人間関係を整理するためのリハビリで、卒業アルバムを捲って何回もこの顔を見たことがあったのを俺は思い出した。

「堀坂さん、中学までは一緒だったんだよね?」
「そうだよ。海里とは高校が違くて、それから別々になっちゃったけど。家だって近所だったよね」

 小さな頃から一緒で、家も近所なら思い出せなくもなさそうなはずなのに、俺は全く何の手掛かりも掴めなかった。記憶が戻ってからも何処かで接点があっても良さそうなのに、それもない。この女の笑うと猫のようになる線の細くて綺麗な目元だけが印象的だった。

「そうだったんだ。じゃあ幼馴染みたいな感じだったってことかな?」
「幼馴染かって言われると、ははは。まぁ、ゆっくり思い出してくれたら嬉しいよ」
「そうか、ありがとう。ここ、何で連れて来られたの?」
「旦那が行方不明になっちゃって、探してたら連行されたの。意味分からないでしょ?」
「活動家か何かやってた?」
「ううん。SNSで戦争反対とか、よく発信してただけ」
「子供は無事なの?」
「ううん、うち子供いないから」
「そっか……。外、どうなってる?」
「……話して大丈夫なの?」
「うん、多分」

 辺りを見回してみると兵隊達はスマホをいじったり談笑したりしていて隙だらけだった。ツェンだけが一人真面目に辺りに監視の目を光らせていた。

「大丈夫そうだね」
「あのね、自衛隊がまだかなり残ってるの。東京からは撤退してて、あちこちで抗戦が始まってるって。色んな所からの支援もあるみたい」
「じゃあまだ負けてないんだ」
「共和国にメディアが取られてるから降参のニュースばっかりやってるけど、全部嘘だって言ってる人もいるよ」
「この戦争、終わるかな」
「どうだろうね。私は早く終わって欲しいし、元の日常に帰りたいよ」

 スコップの柄を掴んだまま、そう言って堀坂は寂しげな顔をした。何故か俺まで寂しくなりそうで、元気付ける言葉を掛けようとしたけれど何の言葉も思い浮かばず、空気が詰まっていった。すると、「おい!」と声が聞こえてきた。振り返るとスコップを両手で持ったホドバシラがこちらを睨んでいた。

「おい、ホモ! その女、誰だ!?」
「いや、たまたまの偶然ですけど、知り合いです」
「なんだテメェら、まさかこそこそコーマンしようとしてんじゃねぇだろうな!? ええ!?」

 俺は堀坂を下がらせて一歩前へ出た。辺りの男連中が集まって来たと思ったら、にやけ顔を浮かべながらホドバシラの方へ集まり始めたからだ。ホドバシラは股間を弄りながら堀坂を舐るように眺め始めた。

「おい、あんたも溜まってんだろ? 女だって溜まっちまうだろ、ええ?」

 ホドバシラがそう言うと、辺りから厭らしい男達の笑い声が漏れて来る。

「俺はギンギンだかんよ、やるか?」

 堀坂はスコップを強く握り締めると、「嫌です」と言った。

「嫌ってこたぁねぇだろ? ええ? 少しは濡れてんじゃねぇんか? 触ってやろうか、なぁ? どこがいいのか言ってみろよ、胸か? 尻か? クリトリスがいいか? おい、ここには男がいーっぱいいるぞ。チンポ想像してどうせ濡らしてんだろ?」
「やめてください!」
「堀坂さん、離れた方がいいよ」
「うるせぇホモ野郎! テメェは男のケツ眺めて黙ってマスかいてりゃいいんだよ! いい子ぶってんじゃねぇぞ!」

 女が目の前にいるだけでこうも変わるのか、と思っていると背後で女が声を張り上げた。

「誰かー!」

 その声に反応した兵隊達が一斉にこちらを向くと、銃を構えてホドバシラ達を取り囲んだ。声のした方を振り返ると女達がスコップを構えてずらりと立っていた。その中でも一際恰幅のいい茶髪の中年女がスコップを振り回しながらホドバシラへ向かって中指を立てている。

「女の方が数が多いんだ。ジイさん、やれるもんならやってみな。それともアタシと一発やってみるかい? まぁ、しなびたナスビみたいなシナモノじゃ入ってるかどうかも分からないけどね」

 その声に女達がドッと笑うと、男達はぶつくさと文句を言いながら散り散りになっていった。堀坂は俺に小さく頭を下げ、女達の中へと戻って行った。
 剥き出しになった欲望は風に当たるだけでヒリヒリと痛むのだと、勝手に想像して勝手に笑いそうになった。

 留置施設に帰ってしばらくすると、新入りが来ると部屋の連中が噂をしていた。廊下の端から鉄製の扉が開かれる音がして、鍵の束を鳴らしながら看守が近づいて来る。どうやら噂通り新入りがやって来たようだ。新入りは看守に一礼すると慣れた様子でサンダルを脱いで檻の中へと入って来た。

「よぉ、ホモに襲われるんじゃねーかと思うと俺ぁ怖くて眠れないぜ」

 新入りは他の施設から移送されて来たホドバシラだった。 
 ホドバシラは部屋の真ん中に陣取ると、ある事ない事を部屋の住人達に吹き込んでいた。

「俺は現場の兵隊とも仲良いからな。休憩室だっておまえらとは違うんだよ? なんたって戦争始まってすぐに連行されたんだから、ベテランよ。あれが欲しいこれが欲しいってのもな、仲良くなりゃ一発よ」
「え、そんなこと出来るんですか?」
「俺が今まで何人密告したと思ってんだよ? 前の施設じゃ名誉共和国民だなんて言われてたし、俺に逆らう看守なんかいなかったんだぜ?」
「すげぇーなぁ。ホドさん、もっと教えてくださいよ!」
「おう、耳貸してみろ。いいか、誰にも言うなよ? 三人密告したら一日外に出れるんだぜ。おまえら、知らなかっただろ?」
「えー! マジ外出てぇ!」
「おかげさまで出るたびにハッスル! コレもんよ」

 そう言ってホドバシラは腰を掴んで前後に振るジェスチャーをしてみせた。部屋の連中はすっかりホドバシラの言うことを真に受けていたが、俺はひとつも耳を貸す気分にならなかった。そのせいか、俺は翌日から部屋の連中に無視されるようになった。

 寝ているとすぐ傍に人の気配を感じ、目を開けてみる。すると目の前にホドバシラの小汚い顔があった。掛かる息の生臭さに思わず鼻を覆う。

「おい、ホモ野郎」
「なんすか……こんな時間に」
「おまえ、俺のことナメてるだろ? なぁ?」
「意味分からないっすよ。寝て下さいよ」
「命令してんじゃねぇぞ? 誰が穴の埋め方教えてやったと思ってんだ? ええ?」
「そりゃ感謝してますけど……」
「だったらこの前話してた女とオマンコさせろよ。おまえが唆して俺の前に連れてくりゃいいんだ。分かったな?」
「そんなん、無理っすよ」
「馬鹿言ってんじゃねぇぞ。俺はあの女のせいで恥掻いたんだ。おまえがやらないなら俺がやってやる。犯して、中にたっぷり出してから殺してやる」
「ちょ……何言ってんすか、ヤバイっすよ」

 ホドバシラは辺りを警戒するように見回した後、囁くような声でこう言った。

「俺はな、戦争のどさくさに紛れて五人殺してるんだ。全員女だ。中には妊婦だっていたんだぜ? 全員避難所の近くの夜道で犯して、殺して野原にほっぽってやった。首が折れるまで締めてやってよ、チンポ突っ込まれたままぐったりして動きやしねぇんだ。あいつら全員、チンポ突っ込んだまま死んでいったんだ。なぁ、いいだろ? ええ? うらやましいだろ? 警察なんか機能してねぇからな。泣き叫ぶ女の声を聞いてもこんな世の中だ、誰も助けになんか来やしねぇ。最高だろ?」
「あんた、さっきから何言ってんすか」
「真実だよ、俺に逆らう奴は誰もいねぇ。そんなことさせねぇ。おまえ、俺が怖いだろ?」

 顔をより近付けて来るホドバシラには狂気を感じたが、不気味で臭い老人くらいにしか思えなかった。

「怖くはないですよ、別に」
「やっぱりテメェは好かねぇ野郎だ。俺はな、気分が変わった。俺はおまえを殺して、あの女も犯して殺してやる」
「なんすかそれ、あんた完全に病気じゃないですか……」
「あぁ!? テメェ誰が病気だって言うんだ!? ええ!?」
「しっ……声でかいっすよ」
「俺はまともだ! まともに決まってんだ! 誰が病気だって!? もういっぺん言ってみろこの野郎!」

 ホドバシラの声に眠っていた男達が一斉に寝返りを打ち始め、廊下の端から灯りが点いて行く。そしてすぐに鍵の束の音が近付いて来ると、部屋の前でピタリと止まった。

「寝てないは誰ですか。起きてるですか!?」

 シルエットになっている看守に向かって、すぐに布団に伏せたはずのホドバシラが弱々しい声を上げる。

「この人が、話し掛けて来て眠れないんです。とにかくうるさくてうるさくて、看守さん、部屋を別にして欲しいです」

 ホドバシラは俺を指差して泣きそうな声で訴えていた。その直後、俺は部屋を出されて独房へ入れられる事になった。監視カメラと音声を確認して欲しいと訴えたが、聞き入れてもらうことは出来なかった。

 一週間の謹慎が明けて作業場へ戻ると、ホドバシラは徒党のようなものを組んでいた。七、八人で作業場をこそこそと動き回り、女に手を出す機会を伺っているようだった。通訳の出来る奴もいて、兵隊とやり取りしながら忍び笑いを漏らす姿も何度か見た。他の作業者から話を聞くと、大人しい性格の女は既に何人か彼らと別の場所に連れて行かれてると言っていた。

 堀坂が気になって声を掛けてみると彼女は無事だった。

「あの人達、兵隊と組んで悪いことしてるの」
「誰も何も言わないのかよ」
「好き好んで、分かっててやってるコもいるから。その方が楽だって」
「楽?」
「兵隊とも仲良くなれるから、立場が安定するって。でも、帰ってこないコもいるの」
「帰ってこない?」
「うん。昼休みにあの人達に呼ばれて、それっきりになったコがもう、二人もいる」
「それって、もしかして」
「分からない。でも、軍のトラックが来たから……多分」
「なんだよそれ……。堀坂は何ともないの?」
「うん、たまに嫌なこと言われるくらい。私と何人かは橋口さんに守ってもらえてるから」

 橋口とはあの恰幅の良い茶髪の中年女のことだった。こうなる前は現役の女子プロレスラーだったそうだ。並みの男では束になっても敵わない。それに旦那は外務省の人間で、兵隊達も迂闊に手を出せないのだと言う。
 それでも肉を啄ばむ烏は作業場に蔓延っていた。
 こんな状況は誰も望んでいなかったはずだ。それなのに、それを逆手に取って好き勝手する連中がいることに違和感を覚えた。
 昼休みになると俺はホドバシラに声を掛けてみることにした。

 弁当を受け取り、作業場の隅で仲間達と談笑するホドバシラと向き合った。

「独房ホモ野郎が俺様に何の用だ? ええ?」
「ホドさん、やっぱりあんたおかしいよ」
「おかしい? 何言ってんだテメェ。おかしいのはテメェのケツと頭だろ?」

 ホドバシラが笑いながらそう言うと、周りいた連中も「クレージーアスホール!」と笑って囃し立てた。

「みんなが辛い思いしてる時に、女とセックスですか?」
「一々うるせぇな! あっちだって好きでやってんだ!」
「やっぱりあんた病気だよ。何人殺ったんです? 五人も十人も、もう変わらないですか?」
「俺が病気だって言いてぇのかテメェ!」
「そうですよ、あんたは病気なんです」
「この野郎!」

 ホドバシラは俺に掴み掛かって来たが、足払いをするとその場に倒れてブロックの端に側頭部を打ったようだった。これでも俺は運送ドライバーだ。力なら他人よりは多少の自信があった。ホドバシラは呻きながら転げ回っていたが、仲間達は彼の身を案じるでもなく退屈そうに眺めていた。

「あんた達も同罪だからな」

 俺がそう言うと、通訳をしているネズミのような顔の男が首を横に振った。

「いやいや、待ってくれよ。俺達はゲームみたいなもんだから」
「ゲーム? ゲームで実際に人が死ぬか?」
「そんなの……この戦争だってゲームみたいなもんだろ? もう何人死んだか分からないけどさ、地球はでっかいゲームボードなんだよ。気楽に行こうぜ? なぁ?」
「……勝手に言ってろよ」

 話しているうちに気分が悪くなってその場を離れた。何がゲームだ。何がゲームボードだ。そんなもので世界を遊び場にされる方の身分になってみろ。日常が壊れて行くのを目の当たりにしてみろ。俺はどこへぶつけたらいいのか分からない憤りを感じ、気分を取り直すために水飲み場へ移動した。
 蛇口を捻り冷たい水で顔を洗うと春がまだ遠くにあるのを実感した。今年の春は一体いつになったらやって来るのだろう。本当にここに春はやって来るのだろうか? そんな事を考えていると頭に強烈な激痛が走った。
 視界が揺らぎ、身体の力が抜けてその場に倒れる。何が起こったのか分からないでいると、スコップを手にしたホドバシラが傍に立っていた。

「もう我慢ならねぇ。今からおまえをブッ殺してやらぁ。一時間後にはトラックの荷台の上だ。ざまぁねぇな」
「クソ……この」
「死にやがれ、いい子ちゃんごっこのホモ野郎」

 ホドバシラが倒れた俺の首元にスコップの柄を押し付け、その上に馬乗りになった。喉が圧迫され、息が出来なくなる。肺に送られる酸素が急激に減り、むせ返そうになるが気道が塞がれていてそれすら出来ず、顔がパンパンに膨らむ感覚になる。いくら離そうとしても上手いこと力が入らず、ホドバシラの体重が喉に押しかかってくる。意識が酩酊し始めると、死を無意識に連想してしまう。

「早く死ね! もっともっと、もっと面白くていい顔をして死ね! ほら、ほらほら、痛くて苦しいだろ? もっと苦しめ。蟹みてぇに泡を吹くんだよ」
「がっ、はっ」
「そんなんじゃ俺は興奮しないぜ? 俺はなぁ、男も殺したんだ。初耳だろ? 別れた嫁の旦那だよ。まだ若い女と若い男だったんだ。連れ子だっていう中学生のガキも一緒に旦那の目の前で犯してやったぜ。女じゃねぇ、男のガキだ。ケツの穴が裂けちまってなぁ、泣きながら糞漏らしてたっけなぁ」

 ホドバシラが卑しい笑みを浮かべている。力が徐々に入らなくなる。これが俺が人生で見る最後の景色なのか。こんなものが。

「安心して成仏してくれや。この後すぐにあの女も犯してやるからな。苗とか言ったな、締り良さそうなツラしやがって」

 苗。そうだ、苗だ。
 堀坂苗。小さな頃から一緒だった。毎日一緒に、砂場で遅くまで遊んでた。二人で作った固くてツルツルした泥団子を、宝物みたいに保育園の下駄箱の隅に隠していたっけ。小学校の頃、苗の父親がひどく暴れてうちに何度か泊まりに来たこともあった。あまり家庭環境の良い家じゃなかったな。
 中学生になってから俺達は恋愛のままごとみたいなことをし始めた。
 毎日自転車で一緒に帰っていて、暴れ回る親父がいる家に帰らせたくないと思っていた。だから、「将来結婚しよう」なんてアホみたいな本気の約束をしたりもした。放っておきたくなかった。
 いつだって放っておきたくないのに、砂場で最後まで手を振られるのはいつも俺だった。寂しそうにしている姿がたまらくて、また遊ぼうねって毎日言って別れていた。中学になるとその言葉は「また明日ね」へ変わって、ある日をきっかけに「またいつかね」に変わった。苗の親が離婚をして、卒業と同時に彼女は街から離れて行ったんだ。何度か手紙のやり取りをしていたけれど、徐々に頻度は少なくなって行った。それから俺に好きな人が出来て、当たり前みたいに音信不通になった。追い掛けることもしなかったし、追い掛けられることもなかったんだ。
 そんな、普通の過去を思い出した。

 たった一度、桜の花弁が散らばる保育園の砂場で二人で一生懸命花弁を集めたことがあった。山のように必死に集めて、それを眺めながら一緒に笑った。何がおかしく笑っていたのか思い出せないが、とにかく笑っていた。それでも何もかもが愛しくて、温かかった。明日また会えるはずなのに、今日が終わるのが寂しかった。
 その苗が、この後に殺される? そんな馬鹿な話があってたまるか。
 ありったけの力を込め、スコップの柄を握った。押し返そうとしてもうまく力が入らなかったが、それでも何とかホドバシラを押し返そうとした。必死になった。それでも、力は抜けていった。

「なんだぁ? もうおしまいかぁ? おまえの代わりにあの女のオマンコ舐めまわしてやっからよ、安心して死ねよ」
「……てろ」
「あぁ!? 命乞いかぁ!?」
「ほざいてろ、病気のキチガイ……」
「テメェ……まだわかんねぇのかぁ!」

 激昂したホドバシラがスコップを離し、立ち上がる。そのままスコップを俺に振り下ろすつもりなのだろう。避けなければ、と思っているのに身体に力が入らない。

「テメェの顔面ぶっ壊してやらぁ!」

 そう叫んでホドバシラがスコップを振り上げると、銃声が鳴ってホドバシラの顔面が半分吹き飛んだ。血飛沫と黄ばんだ白子のような脳味噌が辺りに飛び散り、俺の顔にもいくらか掛かると、ホドバシラは目玉を頬にぶら下げながらそのまま真横にゆっくりと倒れた。

「大丈夫、ですか」

 銃を撃ったのはツェンだった。彼は俺に駆け寄り、手当てのようなものを始めたが声を返す気力もないまま、次第に意識が薄れて行った。

 目を覚ました場所は作業場の医務室だった。ヘルメットを脱いだツェンが真顔でベッドの傍に腰掛けていた。

「目、覚ましましたか。安心してください、死んでないです」
「……あり、がとう、ございます」
「声がまだ、少し出ないです。安静しててください。バスが来るまで、ゆっくりしてて下さい。穴はしなくて大丈夫です、許可あります」
「なんで……そこまで、してくれる、んですか?」
「NO。上からの命令で、あなたを監視してるだけです。殺すな、言われてます。あなたは駐屯地襲撃事件の、参考人です。問題が発覚したら、すぐに処刑します」
「……わかり、ました」

 そうして俺は再び目を閉じた。しばらくの間、眠り続けた。

 明くる日、作業場へ行くとバスがいつもより少ないことに気が付いた。始めのうちは事故渋滞か何かだと思っていたが、数時間経っても作業者の約半分がやって来なかった。その日、作業者の間では様々な噂が流れた。
 処刑されたのではないか、という話もあれば解放されたのだと主張する者もいた。苗は不安な様子で俺に声を掛けて来た。

「みんなどうしちゃったんだろうね? なんか兵隊さんもそわそわしてるように見えない?」
「あぁ、確かに。スマホゲームもやってないな」

 辺りを見回してみるといつもはスマホゲームやお喋りに夢中になっている連中が、機敏な動きで何処かへ連絡を取ったり地図を拡げたりして神妙な顔つきをしていた。
 広い作業場の隅で何かを設置していたが、軍に詳しい作業者が言うにはそれはどうやら対空ミサイルのようだった。確実に変わろうとしている状況を目の当たりにしても、俺達には何の情報も与えられなかった。
 一日の作業を終え、作業場を出る寸前で苗が振り向きざまに俺に声を掛けて来た。

「また明日ね」

 そう言って小さく手を振る姿に、過去の自分が反応した。
 それは小さくて愛しくて、温かな光景だった。

 さらに数日が経つと作業者の数は目に見えて減り始めていた。最初の頃から比べると五分の一ほどになっただろうか。作業場の兵隊達の空気も日に日に緊張感が漂い始めていた。そんな中、新しい作業者が数人入って来た。
 その中の一人で、まだ二十歳になったばかりだというおかっぱ頭でピアスをした青年が外の情報をもたらしてくれた。

「えー! マジっすか? 何も知らなかったんすか!?」

 話を聞いていた俺と苗はその言葉に首を傾げた。

「だって、ずっとここと施設の往復だけだったし」
「私達、新聞もないしラジオもないのよ? 分かるはずないでしょ」

 そう言うと、青年は待ってました! と言わんばかりに意気揚々と話し始めた。

「ここの作業場で若いやつらが撃たれる映像が世界に流れたんですよ。共和国は「人権は守られている」ってずっと言ってたけど、それが嘘だって分かった瞬間に色んな国が動き出したんすよ」
「ここの映像? 誰がそんなもの撮ったんだろ。スマホだって没収されてんのに」
「その人、今は自衛隊に保護されてますよ。共和国の兵隊の中にも人権無視をよく思ってない連中がいて、手を貸してたみたいっす。その人、石川っていうオッサンでSNSもやってますよ」
「石川さんが!?」
「海里、知ってるの?」
「うん。同じ部屋のオッサンでさ、良い人だったよ。中華料理屋やってたんだって」

 俺がそう言うと青年は「それが」と割って入って来た。

「あの人元々ジャーナリストらしいっすよ。身分誤魔化して潜入してたって言ってました」
「それは全然分からなかったなぁ、石川さんがまさか世界を変えるなんて……」
「ここももう持たないんじゃないですかね? あちこち反撃されまくってますからね」
「だからバスが来られなかったんだ。全然分からなかったよ」
「もう何でも聞いて下さいよ。それより、ひとついいですか?」
「え?」
「俺はこれから、このスコップで何をすれば良いんですか?」

 その質問に、俺は笑いながら答える。

「穴を掘って、埋めるんだよ」
「へ? 何すか、それ」
「知らないよ。ただ黙って、穴を掘って午後になったら穴を埋めるだけだよ。でも一生懸命やり過ぎて元に戻せなくなると銃殺されるから気をつけてな」
「あぁー……だから撃たれてたのか。でも、何のためにそれやってるんです?」
「それは国家主席に聞かなきゃ分からないってよ。聞いてきなよ」
「無理っす。とりあえず自分、掘ります」
「埋めるのも忘れずにな」
「はい!」

 なんて素直な奴なのだろうと思っていると、遠くの方から銃声が聞こえて来た。戦闘が行われているのだろうか。ふと辺りを見回してみると、桜の花弁が舞い始めていることに気が付いて、夕方の薄橙の空は春の色になっていた。

 苗が穴を戻しながら汗を拭っている。太陽の熱が冬のものとは違い、暖かな熱を帯び始めているのだ。

「今だから話せることなんだけどね、いい?」
「え? 何?」
「昔ね、海里は私と結婚したいって言ってくれてたんだよ」
「へぇー……そんな仲良かったんだな」

 突然そんなことを言われ、俺は少しだけ緊張を覚えた。思い出して心苦しくなっていたことはもちろん話してはいないし、記憶が戻ったことも話してはいなかった。苗は楽しげに話しを続けた。

「ずっと仲良しだったから、私もこの人と結婚するんだなって思ってた。海里のお嫁さんになって、ママとパパみたいに仲良く暮らすんだなって思ってたの」
「そんな仲良かったんだな。苗のお父さんとお母さんは仲良かったんだ?」

 自分でも意地の悪い質問だと思った。困る顔でも見たいのだろうか、そんなものホドバシラと変わらないじゃないかと思ったが、苗は微笑みながら答えた。

「もちろん。理想の夫婦だなって思ってたよ」
「俺達、なんでそうならなかったのかな」
「うん。私が引っ越しちゃったからね。離れちゃったんだ」
「それが原因だったのかな?」
「そうだよ。でもね、離れてからも海里とは手紙のやり取りしてたんだよ? ある頃を境に海里から手紙が届かなくなって、少し寂しかった。でも、海里もやっと自分の場所を見つけられたんだなって思って安心したりもしたの」
「へぇ……俺から手紙が届かなくなったのに安心したの?」
「だってずっと私のこと心配してたし、私にベッタリだったんだもん。いっぱい海里の時間もらっちゃったなぁって思って。それでもね、小さい頃から海里とたくさん過ごした時間は今でもずっと覚えてるの。宝物みたいに、今でもちゃんとここにあるよ」
「そっか……あまり覚えてなくてごめん、ありがとう」
「ううん、私のことが分かってもらえただけでも嬉しいよ」

 そうやって気丈に振舞うから、心配になってたんだ。親父に暴力を振るわれていた時も、いつだって何も起きてないみたいな平気な顔をして、泣いていた癖にすぐ笑うから。大丈夫か? って声をかけると、笑いながら

「それよりもさ、昨日のお笑い番組見た? あの漫才すごく面白かったんだよ、海里にすぐ話そうと思ってさ」

 なんて、全然関係ない話をしてる割に目は真っ赤なままで。
 引っ越す時だって「今だけ! すぐ帰ってくるからね」とか言ってたよな。結局帰っては来なかったし、俺も苗のことを忘れていっちまった。
 そんな時も寂しかったら寂しいって言えばいいのに、もう後戻りの出来ない場所にまで来ちゃったんだな。やっと掴んだ幸せなのに、こんな戦争のせいで旦那と離れることになっちまって。なんでおまえはそんなに不幸に好かれるんだよ。少しくらい、不幸がこっちに来たって良いはずなのに。なんでいつも、おまえばっかり。

 そう考えているうちに、俺は穴を戻す手を止めていた。
 スコップを放り出し、箒と大きなちりとりを兵隊に言って借りた。
 四角い塀の中から開け放たれた空を眺めてみたら、桜の花弁が渡り鳥みたいに空を舞っていた。空から零れ落ちた花弁を少しずつ掻き集め、それを戻し掛けた穴に落として行く。ただ、それだけを続けている。
 下手をしたら俺はこの後、殺されるかもしれない。それでも別に構わない。
 誰かを愛して、愛されていた。それが例え小さなものだったとしても、ママゴトみたいな恋愛ごっこだったとしても、感じていたことは本物なんだ。
 ただ愛しくて、それだけだった。それだけで、今日が終わるのが寂しくて仕方なかった。
 大人に慣れすぎた今、また子供に還って俺は花弁を集めて回る。作業場の隅から隅へと、空からの贈り物を集め続ける。時々兵隊から怪訝な目を向けられても、俺は集めることを止めなかった。どうしても、苗に伝えたい想いがあったからだ。
 結局終業三十分前になってからようやく穴は花弁で埋め尽くされた。
 多分、俺はこの後殺される。それでも、最後にたった一つだけ伝えたい言葉があった。
 不安げな表情を浮かべる苗を呼び出し、俺は「そこに立っていて」と苗に伝える。とっくに穴を戻して手を止めていた他の作業者達も様子が気になるのか、俺達の周りに集まり始める。
 俺は掻き集めた土混じりの花弁を掬い取り、砂を落として苗の前に立つと、それを頭の上から振りかけた。薄橙の夕暮れを背に、苗に花弁がかかって行く。

「苗。結婚おめでとう!」

 そう叫んで桜の花弁をかけ続けると、苗は口を開いたまま固まってしまった。

「え……何、それ?」
「フラワーシャワー。苗、結婚したからさ。まだお祝いしてなかったなぁって思って」
「え。それの為に、わざわざあんなに時間かけて花弁を集めてたの?」
「あぁ、そうだよ」
「それってさ……下手したら死ぬよね?」
「あぁ、死ぬね。穴、戻してないし」
「馬鹿じゃないの?」
「そうなんだよ。多分、昔っから変わってないんだよ」

 苗はしばらく俺と見詰め合っていたが、耐え切れなかったのか突然笑い出した。俺もその姿を見て、なんだかホッとして声を上げて笑い出す。二人揃って笑い声を上げるともっと楽しくなって、腹が捩れるほど笑い合った。死ぬかもしれないのに、それでもこんな馬鹿げたことをしている自分がおかしくなって、それを笑う人がいて、もうこれだけでいいやという気分にもなった。

「本当、馬鹿だよね。でもありがとう、嬉しいよ」
「うん。幸せになれよ」
「もうなってるよ」

 周りにいた他の作業者達も一緒になって苗に花弁をかけている。ただ茶色かっただけの更地の日常が少しだけ変わり、桜の色が付き始める。舞い散った花弁は苗によく似合っていて、そして単純に綺麗だな、とも思えた。
 そうやって束の間、祝福のフラワーシャワーを贈っていると案の定兵隊がやって来た。やって来たのはツェンで、真顔のまま俺に銃口を向け始めた。

「それは、何のつもりですか?」
「彼女、結婚したんです。だから、お祝いに」
「花を埋めろとは言ってません。穴を埋めろ、と命令したはずです」
「分かってます。知っててやりました」

 ツェンは俺を真っ直ぐ向いたまま、銃の安全装置を外した。その動きに続いて、引き金に指を掛ける。周りの作業者達も苗も強張った顔になって、一気に緊張し始めたのが嫌でも伝わって来る。けれど、俺は不思議と落ち着いていた。ホドバシラみたいに白子が飛び散るのかなぁ、それは嫌だなぁと冷静に考えることも出来た。
 顔の前に銃口が向けられ、すぐに撃たれる瞬間がやって来た。しかし、ツェンは短い溜息を吐くとそっと銃を下ろした。

「それを、早く埋めて下さい。バスが来ます」
「……殺さないんですか?」

 ツェンは銃を元に戻すと少しだけ微笑んだ。初めて見る彼の笑顔には、少年のようなあどけなさを感じた。

「私は、桜が好きです。日本に留学に来た時、今までで一番感動しました。こんなに美しい国は他にないでしょう、そう思いました。だから、私も桜が好きです。この国が、本当はとても大好きです」

 そう言って、ツェンは振り返って離れて行った。当たり前だが、ツェンも一人の兵士である前に一人の人間だったんだ。そんな当たり前の感情が知れたことが嬉しくなって、たまらずに遠くなって行くツェンの姿に声を掛けた。

「ツェン! ありがとう!」

 苗も声を揃え、「ありがとう!」と叫んだ。彼はこちらを振り返らずに、右手を水平に上げると力強く親指を立ててみせた。
 やっと心を通わすことが出来たことが嬉しくなって、苗と目を合わせると彼女もとても嬉しそうにしていた。こんな風景がここにはあったんだ。そんな風に思えた。急いで穴を埋めようとスコップを手に取ると、聞き馴染みのないジェット機の音が頭上から聞こえ始めた。
 無意識に顔を上げると、作業場のすぐ真上、手が届きそうな距離に戦闘機が突然姿を現した。桜の花弁の中を飛ぶ戦闘機の両翼には、大きな日の丸が描かれていた。
 ふと視線を下ろした先、親指を下ろしたツェンが歩いているのが見えた。突如として現れた戦闘機に彼は他の兵隊達と同じように迎撃体制を取ろうと動き出していたが、目を瞑る時間よりもあっという間に爆炎の中へと消えて行ってしまった。
 凄まじい熱と音にとっさに身を伏せると、作業場のあちこちから銃声や爆音が聞こえ始めて来た。兵隊達は駆け出して一斉に扉付近に張り付いたが、ものの数分で鎮圧されたようだった。ここへ駆けつけたのは各国の混合編成の部隊で、この頃になると知らない間にほとんどの場所で占領地を奪還していたようだった。そうとも知らずに俺達は知らない部隊が攻めにやって来たと勘違いして右往左往と広い作業場内を逃げ回り始めた。
 しばらく水飲み場の奥の方へ苗と青年と三人で隠れていたのだが、自衛隊員がスピーカーを使って日本語で誘導してくれたおかげで、ようやく解放されたのだと気が付いた。

 解放されてからは避難所へと移動し、この国が少しずつ取り返される様子をただ画面越しに眺め続けていた。配給も滞りなく支給されるようになると国からの要請で俺達の会社も動き出すことになった。ずっと負けていたと思い込んでいたが、この国は最後まで諦めずに抵抗し続けていたのだ。
 大半の戦力を温存し移動させ、他の国の協力が得られたタイミングで一気に反撃を行ったとのことだった。そのおかげで敵国である共和国は撤退した。

 あれから一年が経った。停戦協定は結ばれたものの、結局のところ今でも戦争は終わってはいない。離島などでは散発的な攻撃は今でも続いているし、直り掛けの平和が壊される瞬間は今でも突然やって来る。東京タワーは解体されたままだし、渋谷は自衛隊の主要部隊があれからずっと陣取っている。外国の軍隊による小さないざこざは毎日のようにあちこちで起こっているし、共和国は日本の南側の領土割譲を主張し始めていて、再び侵攻の準備を進めているという。
 そんな中、俺は今日も配給品を配り続けている。朝方に起きて、薄い青色の空を眺めながら集配所へ向かい、トラックにコンテナを載せていく。
 走り出した車窓から眺める景色はまだあちこち戦禍の爪痕が残されたままで、次の侵攻に備えた準備や疎開も行われている。
 それでも、人は日常を取り戻そうと必死だ。
 共和国の撤退後、新宿駅は再び満員電車から吐き出される人でごった返しているし、今日の昼の情報番組では「簡単うまスープレシピ特集」なんてのが放映されていた。
 スマホに目を向けると苗から連絡が入っていた。

《子供ができました!私、お母さんになるんだって》

 苗は解放されてから五日目に、旦那と無事に再会を果たした。旦那は敵国によって神奈川の留置所に移送されていて、俺達が解放された翌日に処刑される予定だったのだと言う。彼もまた俺達と同じように奪還作戦によって解放され、元の平和を無事に取り戻すことが出来た。

 俺もまた、記憶を取り戻すことが出来た。
 苗と自転車を漕いで帰る夕暮れの景色や、苗の親父に怒鳴られながら家を飛び出した夜や、二人きりで花火した夏の日のこと。
 小さな頃、スコップを持って陽が沈むまで遊んでいたこと。道具の扱いが雑で、苗に怒られていたこと。
 桜の花弁を集めて笑っていたことも思い出せたし、大人になってからまた同じように笑い合えた。
 そんな平和が心の中にずっとあったし、これからもそうであって欲しいと思えている。

 仕事の帰りにベビーグッズを買いに行った。どれを選んで良いか分からなくて、店員に尋ねると「おめでとうございます」と言われ、「俺じゃないんです」というと少し気不味くなった。
 それでも、そんな少しの気不味さに平和を感じて嬉しくなったりもした。

《おめでとう!ママさんにお祝い贈りつけるからよろしく!》

 ふざけた調子でそう返し、家への帰り道を急ぐ。
 星が瞬いていて、夜はとても静かだった。桜が残る街道では、テントを張って暮らしている人達が未だに点在している。
 明日にはこんな日常も再び崩れてしまうかもしれない。
 明日には笑い合っていた人がいなくなってしまうかもしれない。
 だから、俺は今を生きようと思えている。次にまたきな臭くなったら、その時は少しだけ前へ出て戦争反対と声に出してみようと思う。
 大事なのはこれからだ。だから、取り戻した記憶はそのままで、このまま何も言わずに過ごして行こうと思っている。
 星が瞬いているうちに荷物を贈る準備をする。
 箱の中から取り出してみた寝巻きガーゼの小ささに、思わず笑いそうになる。 
 小さな幸福を感じながら俺は伝票に宛名を書き、メッセージカードを袋から取り出してみる。
 まだ生まれてない赤ん坊の姿を想像し、母になった苗を想像し、何を書こうか迷いながら俺はペンを走らせる。
 結局贈り物だけを発送することにして、発送準備を済ませた。メッセージカードは書き終えてはいるが、まだ送らないことにした。
 けれどこのメッセージカードが届く頃には、きっと苗には新しい幸せが届いているはずだ。
 それを祝う為の言葉をしたためたカードを机の奥にしまい、俺は一日を終わらせる準備を始めようと、ゆっくりと腰を上げて立ち上がった。


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今回は清世さんの企画 #第二回絵から小説 の二作品目の投稿になりました。
あの絵から受け取った印象をどう返そうか、色々考えてプロットも三回書き直しました。
本番も書き直していて今週はこの作品だけをずっと考えている状態でした。いやー、脳がパンパンのパンに詰まった。
全力で返すこと、「小説」という読物として読み手に面白いと感じて頂けるよう両立するのは中々大変ではありますがやはりやり甲斐があって楽しかったです。

タイトルと内容がどう関係しているのか?
調べればピーンと来る人もいるかもしれないし、何故?と思われる方もいるかも。
そんな風な楽しみ方も小説の一つかなぁと思うので、楽しんで頂けていたら幸いです。
清世さん、一発返せましたかね?
残り一作、頑張ります。


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