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【小説】 隣の男 【ショートショート】

 中野から青梅街道を練馬に向けて走っていると、突然の渋滞にハマってしまった。
 急ぎの用事といえば急ぎの用事があっただけに自然と気持ちが逸るのを感じたが、それと同時に微かな安堵も覚えたのも確かだった。
 別れた妻との間に出来た息子は今年で十七になる。三か月ぶりに息子に会いに行く途中だったのだが、近頃は父親としての義務感のみで会いに行っていたのだとブレーキペダルを踏みながら反芻する。
 難しい年頃だと言ってしまえばそれだけだが、息子は私と一緒に暮らしていた年月よりも新しい父親と一緒に暮らす年月の方がそろそろ長くなってくる頃だった。
 こちらから自発的に連絡しなければ当然のように音沙汰一つ無く、会えば多少の小遣いを渡し、男子の好きそうな脂ぎったメシを食い、会話も特に盛り上がる事なく早々と解散となる。正直、こちらから連絡をするのもそろそろ心苦しいと感じる機会が増えていた。
 このまま渋滞が長く続けば今日の予定は流れてくれるんじゃないか? そんな他力本願なことを思っていた矢先、カーナビから事故渋滞の知らせが入る。車はしばらく動き出しそうにも無く、諦めた私はシフトレバーをパーキングに入れてサイドブレーキを掛けた。
 雨が降り出しそうな重たい灰色の雲がビルの頭上に広がっている。予報では一日中曇りだと言っていて、何をするにも気分が乗らなそうだ。
 息子に断りの連絡を入れようか。何なら小遣いは振込でも構わないか訊ねようかと考えていると、僅かに車が動き出す。車列のずっと先にも車は連なっており、渋滞が解消するまでには相当な時間が掛かりそうだった。
 ほんの数メートル進んで車は停まり、自然と溜め息が出る。
 息子に会えないかもしれないという色ではないな、と自分で気付く。本当にダメな父親で申し訳ないが、愛には限りがあるのかもしれないと、ふと思う。
 ハンドルに目を落としていると外から人の視線を感じ、何事かと思ったら右側に停まっていたセダンの運転席の男が助手席に身を乗り出して何やら吠えていた。どうやら私に向かって何か叫んでいるようだった。 
 男は五十ほどで、痩せているがとても陽に焼けた肌をしていた。若者ぶっているのか、金チェーンのネックレスと「YOUNG GOLD」と書かれた黒いキャップを被っている。
 あまり関わりたくないタイプだと思いながら、窓を下ろすとすぐに男のガラガラした声の怒号が私の車内を震わせた。

「おまえナメてんのか? おい、おまえだよ!」

 この手のタイプは相手にしてもロクなことにならないと思ったが、車はまだ動く様子がなく仕方なしに相手にしてみることにした。

「あの、どうかしましたか?」
「どうしたじゃねーよ! ナメてんのかって言ってんだよ! あ!?」
「いえ、事情が分からないんですけど」
「おまえ、俺が誰だか分かってねぇの? 山城のバックついてんだよ? 俺のこと知らないとか、モグリだろ? なぁ?」
「すいません、存じ上げないです」
「殺すぞてめぇ!」

 馬鹿が吠えた所で、世界は鼻で笑うだけで微動だにしない。
 そんなことを思いながらスマートフォンに目を向けると、息子からショートメールが届いているのに気が付いた。

<今日無理になった。またよろしく>

 あぁ、なら良かった。
 瞬間的にそう思った自分に自然な笑みを漏らすと、隣の男が激しく吠え出した。

「何笑ってんだコラァ! 馬鹿にしてんだろ!? あぁ!?」
「こちらの事情で笑ってただけです。あの、何なんですか。さっきから」
「新宿抜ける時におまえ、俺の邪魔しただろ!?」
「いえ。交通ルールに則って運転してるだけです。そんなの、いちいち覚えてないですよ」
「そんなのってなんだてめぇ!」

 激昂した男が車から降りて来る気配がしたので、私は開けていた窓を上げた。ドアロックをするとガチャガチャと取っ手を弄繰り回す音が聞こえ始め、男は猿のように車体を掴んで揺らし始めた。
 その間に微かに車が動き始め、私はブレーキペダルから足を離す。
 男は何か叫びながら歩いて追い掛けて来たが、ドライブレコーダーの映像を後で警察に渡して対応すれば良いかと考える。車内の中にいる限り私の安全はある程度担保されているのだし、こんな猿男一人に構う時間は無駄以外の何物でもない。
 そう思っていると、再び息子からショートメールが届いた。

<お父さんが俺に会いたいっていう気持ちは分かるけど、今はもう新しい家族が俺にとっての家族だから。その辺りは覚えておいて>

 その文面を目にした瞬間に、私の中で機微な感情が弾けた。
 会いたいって気持ちは分かる? このクソガキは一体何をのたまっているのだろう。私が会いたいのではない。父親としての義務感が「会わなければならない」と背中を無理に押すものだから、時間を割いてそうしてやっているに過ぎないのに、それをすべてこちらの責任にしている。
 何が、新しい家族だ。血も繋がっていない癖をして、家族ごっこがそんなに楽しいなら私と何ら関係のない場所で死ぬまでままごとを続けていれば良い。
 どうせ卒業式だ、成人式だ、となるたびにあの父親モドキは如何にも本物の父親のように振る舞い、人前で咽び泣くのだろう。感情が豊かな所が素敵だ、などと別れたアバズレ妻が確か言っていた。大の男が他人事でいちいち感情を振り乱すなど、他人に見られていることを意識しているか脳障害のどちらかに過ぎない。
 まず、大前提として金のせびり方だけは立派に育ったあの体たらくの馬鹿息子がおぎゃーと緩い股座から出て来てから、ケミカルな生ぬるいミルクを作っていたのも、糞の始末も出来ないのをわざわざ取り換えていてやったのも、立ち方を学ばせたのも、この私と私の母親なのだ。妻は子供を放り出した反動で男漁りに夢中だったのか、当時から母親面は一丁前の癖にあまり育児に積極的ではなかった。その証拠に、あの女は自分の餓鬼のオムツのサイズさえ間違えていたのだ。
 その面倒臭いのを他人に散々任せておきながら、人らしく会話が成り立つ程度の子供にようやく育てた頃にあの父親モドキが横から飛び出て来て紙の上で「父親」となった。
 反吐が出る。嗚呼。すべてに、反吐が出そうだ。
 新しい家族が俺にとっての家族。そんな幻想に取りつかれる程度の頭しか持ち合わせていないあの糞餓鬼に私の遺伝子が混じっているのだと思うと、私は無性に悲しくなった。古い家族は今頃腐りきった垢でも浮かべながら排泄物で塗れ、ぬかるんだ風呂桶の底にでも沈んでいるのだろう。
 こんなことを考えている間にも隣の男は私の車に歩いて辿り着き、やはり実験でヤク漬けにされた痴呆猿のように「うおー! うおー!」と車体を揺らし続けていた。
 あらかた、パチンコやスロットの光の明滅の所為で脳の機能が欠損しているのだろう。
 理性を失くした相手に道理が通じるはずもなく、私は国家権力にすべてを委ねようと思っていたが、気が変わった。
 今生きていることに、嫌でも何かの情報が脳に届くことに、無性に腹が立った。
 私も、痴呆猿のこの男も、死ぬべきなのである。
 子孫を残すという役目を終えた男達に、世間は何ら用件などないのだ。
 先日タイヤ交換をした際に使用したバールが後部席に置いたままだったことを私は思い出し、背後を振り返ってみる。
 鈍色の大きな金属が、性に疲れ果てた女のようにグッタリと横たわっている。無機質なその姿も、性を放った後の女にそっくりだった。
 私はバールを掴んでサイドブレーキを引いてから運転席のドアを思い切り開けてみた。
 開け放ったドアの勢いで何やら意味不明なことを叫び続けていた男は後ずさり、いかにも打っ魂消たと言った、顔面が糞溜のようになっていた。

「何驚いているんですか?」
「ぶ、物騒なもん出してんじゃねーよ!」
「どうしました?」

 そう言って振り上げると、男は黙ったまま置きっぱなしの元の車の位置まで走って行った。渋滞はまだまだ解消されそうにもなく、私はバールを持ったまま無心でその後ろ姿を追い掛けてみた。
 男は貝殻から抜き取られたヤドカリのように慌てふためき、車に乗り込んだ。乗り込んでから小動物のような目になって、こちらをジッと眺め出す。
 私は男の車を指でノックしながら何度も周回してみたが、男が出て来る気配はなかった。
 初めに男が一体何をしたかったのか、それだけが知りたかったのだが男は何ら応じる気がないようである。
 私は男の車から何かヒントを見つけ出し、男に外から何でも良いから質問をしてみることにした。

「車のナンバーが0893ってなってますけど、あなたは反社会的勢力の方なんですかぁ!?」

 腕に力を込めて指先を痙攣させ、一秒間に五回のペースで男の運転席の窓をノックしながら訊ねてみる。しかし、男は「我関せず」と言った偽装を行いながらこの私の存在をあくまでも無視するつもりのようであった。
 勢いばかりが達者で、いざとなると何もできない。この男もまた、普通の男と同じなのだ。あの糞馬鹿息子とそっくりだ。
 男というのは、精子を放つ瞬間にそっくりなのだ。勢いだけは良く、実った後は何の用もなさない愚かな生き物なのである。男の私が言うのだ。間違いなどあるはずがない。女共はすっこんでいろ。
 そう心根でねちねちと呟き続けて車に戻る事、三十分。
 ようやく車がスムーズに動き始めた。
 男が乗る白いセダンが私を右側から追い抜いて行ったので、私は運転席の窓からバールを持った片手を外に出し、右の車線に強引に割り込んで男の後を追ってみることにした。
 何も、脅したい訳ではない。話がしたいのだ。 
 世間から、家族から用なしとなったこの私に、あれだけの感情を込めて一体何の用事があったのか気になって仕方なくなって来たのだ。
 もう私の中では幾らあんなイカ臭い糞のような顔面のパチンコ狂いのスポンジ脳の男であっても、友情じみたものさえ感じ始めていた。
 そうだ。合流した後に車を放り出し、二人きりで呑みへ出て行っても良い。何なら私の金で奢りでも構わない。独身中年の金の使い道など、所詮は寂しさを埋め合わせるだけにしか使い道がないのだから。
 アクセルを踏みながら、私は軽快な心持で男の車にベタ付した。時折コツン、と車体がぶつかる感触がクッションを通して伝わって来るがそれがフレンチ・キスのように感じられると、私はたまらなく嬉しくなった。
 そうだ、やはりあの男を誘って呑みへ出掛けよう。
 家族という単位で私の心を脅迫し、愛を一方的なものだと決めつけるあんなうんざりな出来損ないの馬鹿息子と脂ぎった横文字のクソメシを食うよりは何万倍もマシだろう。
 さぁ、車を停めて話をしよう! 私達はどうせ後は死ぬだけの、何の役にも立たない、ただ生きているだけで誰の目にも止まらない、謎の加齢臭を撒き散らすだけが取り柄の特殊生物同士じゃないか!!
 そう車内で叫ぶと、車が交差点に差し掛かった。 
 この追い掛けっこのフィナーレは実にお粗末なものだった。
 私の車が一瞬引き離されて、男の車だけが高架下の交差点に入って行った。その矢先、横から猛スピードで走って来たトラックが男の乗るセダンの横っ腹に突っ込んだ。
 次に運転席から男がフロントガラスを突き破り、おそらくは脳であろうピンク混じりの何かを路上にブチ撒けながら転がり、その命を停止してしまった。
 車を停めた私はハンドルに手を置きながら、呟いた。

「先に死んだらダメだろ」

 バックミラーに映る私は微笑んでいて、何故かとても良い顔をしていた。
 目線の先に飛び散るピンク色が何を考えていたのか考えようとしたがこれから先、何の役にも立たないだろうと思い、考えるのを止めた。
 その日、雨はやはり降らなかった。

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